写真: Patagonia Historical Archives

パタゴニア・ヒストリー

鍛冶屋としてのはじまり

パタゴニアの創設者イヴォン・シュイナードがクライミングを始めたのは、1953年、14歳の時でした。狩猟のために鷹やハヤブサを調教する南カリフォルニア鷹狩団体のメンバーだったイヴォンは、ある日、グループリーダーの一人、ドン・プレンティスから絶壁にあるハヤブサの巣まで懸垂下降する方法を教わりました。このスポーツがとても気に入ったイヴォンと仲間は貨物列車に飛び乗り、サンフェルナンド・バレーの西端、ストーニー・ポイントの砂岩の岩場へ向かうようになります。それから間もなく、彼らは下降するだけでなく、岩を登ることを学んだのです。

シュイナードは、冬はストーニー・ポイントで、春と秋はパーム・スプリングス近くのタキーツロックで週末を過ごしました。そこでシエラクラブに所属するTMハーバート、ロイヤル・ロビンス、トム・フロストなど他の若いクライマーと知り合い、ビッグウォール・クライミングを学ぶため、やがて皆でタキーツからヨセミテに移動しました。

ヨセミテでのマルチピッチの登攀には何百というピトンが必要です。当時のピトンは軟鉄製で、一度打ち込んだら引き抜くことはできず、岩に放置されたままでした。シュイナードはスイスのクライマーで、かつてA型車軸で硬鉄製ピトンを作った経験のあるスウェーデンの神秘主義者ジョン・サラテに会った後、繰り返し使用できるギアを自分で作ってみることにしました。1957年、シュイナードは廃品集積場で60キロの金床と石炭の炉、火箸、ハンマーを買い、独学で鍛造を学び始めます。

シュイナードは中古の収穫鎌で最初のピトンを作り、TMハーバートとともにヨセミテのロストアロー・チムニーとセンテニアル・ロックの北壁で手作りのギアを試しました。このクロムモリブデン鋼のピトンの噂はすぐに広まり、仲間からの注文が殺到。ピトンの製造はいつの間にかビジネスとなっていたのです。彼は1時間に2つのピトンを鍛造し、1つ1ドル50セントで売りました。

間もなく、カリフォルニア州バーバンクにあるシュイナードの両親が暮らす家の裏庭に、小さな作業所を設置しました。しかし道具のほとんどは持ち運びできたので、道具を車に積んでビッグサーからサンディエゴまでカリフォルニア沿岸をサーフィンしながら移動しました。セッションの後、金床をビーチに引っ張りだして冷たがねとハンマーでピトンを鍛え、それから次のポイントへ向かうのが日課でした。

それから数年、シュイナードは冬場にピトンを製造し、4月から7月はヨセミテでビッグウォール・クライミングに励み、真夏はワイオミングやカナダ、アルプスの山に向かい、秋に再びヨセミテに戻って、初雪が舞う11月までクライミングを続けました。車の荷台でギアを売りながら生計を立てていましたが、儲けは少なく、何週間も1日50セントや1ドルで暮らさなくてはならなかったこともあります。ある夏、ロッキー山脈に出発する前、彼はサンフランシスコの傷物缶詰アウトレットで大量のキャットフード用マグロ缶を買い、オートミール、ポテトそして自ら捕まえたジリスやヤマアラシとともに食べました。

ヨセミテでは2週間のキャンプ期限を過ぎると、シュイナードと仲間はレンジャーの目から逃れようとキャンプ4付近のボルダーに潜伏するため、「バレー・コン」と呼ばれていました。彼らは岩や氷を登ることに経済的価値がまったくなく、そして自分たちが反逆児であるということに誇りを持ち、ジョン・ミューア、ヘンリー・デービッド・ソロー、ラルフ・ウォルドー・エマソン、ガストン・レビュファ、リカルド・カシン、ヘルマン・ブールに傾倒していました

シュイナード・イクイップメント

シュイナードのギアは急速に需要を増し、やがて手作りでは製造が追い付かなくなりました。道具や金型、機械の使用が必要になったのです。そこで1965年、クライマーであり、鋭いデザイン感覚と美的感覚を持ち合わせた航空技師のトム・フロストとパートナーシップを結びました。二人はパートナーとしてシュイナード・イクイップメントを経営した9年間に、ほぼすべてのクライミング・ギアをシンプル性、軽量性、耐久性、機能性のあらゆる面で改良しました。二人はクライミングに出かけるたびに、既存のギアを改良する新たなアイデアを持って戻ってきました。

彼らのデザイン理念は、フランスの飛行家アントワーヌ・ドゥ・サンテグジュペリが語るデザイン美学に導かれていました。

「飛行機のみならず、あらゆる人間が作り出した物において、ある原理が存在することを考えたことがあるだろうか? 物を作る上での人間の生産活動、計算や予測、図面や青写真を制作するために費やした夜などはすべて、唯一にして究極の原理『シンプリシティ(単純性)』を追求した物ができ上がることで完結するということを。

そこに達するためには、まるで自然の法則が存在しているかのようだ。つまり、家具、船の竜骨、飛行機の胴体などの曲線を人間の胸や肩の曲線が持つ根源的な純粋さに少しでも近づけようとするために、職人たちは何世代にもわたって試行錯誤を重ねるべきであると。何においてであれ『完全』とは、すべてを脱ぎ去り、ありのままの姿に戻ったとき、つまり、加えるべきものがなくなったときにではなく、取り去るものがなくなったときに達成されるのである」*

1970年までには、シュイナード・イクイップメントは米国最大のクライミング・ギアのサプライヤーとなっていました。そして同時に、岩を傷つけるギアを作る、自然に害を与える張本人ともなっていたのです。クライミング人気はますます高まり、エルドラド・キャニオン、シャワンガンクス、ヨセミテ・バレーなどで人気のルートにクライマーが集中しました。絶え間なく打ち込まれ、引き抜かれるピトンのせいでもろいクラックは深刻なダメージを受けました。シュイナードとフロストはエル・キャピタンの「ノーズ」を登り、数年前の夏までは自然のままだった岩の破損を目の当たりにし、ピトンの製造から段階的に手を引くことを決断しました。これは私たちがその後着手する環境保護に関するさまざまな取り組みへの最初の大きなステップとなりました。当時ビジネスの多くを占めていたピトンの製造を止めることは非常に大きなリスクを伴いましたが、岩を守るためには必須の決断でした。

幸運にも、ピトンに変わる道具がありました。私たちは1972年に発行した最初のシュイナード・イクイップメント・カタログで、ハンマーを使わず手で岩に押し込んだり抜いたりできるアルミのチョックを発表しました。

このカタログは、ピトンが山の環境におよぼす悪影響についてシュイナード・イクイップメントのオーナーが書いたエッセイで始まります。そして、シエラのクライマー、ダグ・ロビンソンによるチョックの使用方法に関する14ページにわたるエッセイの冒頭には、以下の力強いメッセージが続きました。

「キーワードは『クリーン』。プロテクションとしてナッツとスリングだけを使用して登ることをクリーンクライミングと提唱したい。クライマーにより損なわれていない岩はクリーンであり、ハンマーでピトンを繰り返し打ち付けたり、引き抜いたりせず、次のクライマーがより自然な形で岩を経験できるからクリーンであり、またクライマーのプロテクションがほとんど痕跡を残さないからクリーンである。クリーンとはつまり岩の形状を変えないことであり、人間が本来のクライミングに近付く第一歩でもある。」

カタログ発送後、ほんの数カ月でピトンの売り上げは先細りとなり、チョックは製造が間に合わないほどの早さで売れ始めました。シュイナード・イクイップメントのブリキ小屋では、ドリルの治具の甲高い音がハンマーを打つカーンカーンという音に取って変わりました。

クライマーが着るウェア

1960年代後半、一般的に男性は明るくカラフルなウェアを家の外で着ることはありませんでした。「アクティブ・スポーツウェア」といえばベーシックなグレイのスウェットシャツとパンツ。ヨセミテでのクライミング・ウェアの定番は裾を切り落としたチノパンツと白いシャツで、どちらも古着屋で買うのが通常でした。1970年、シュイナードはスコットランドに冬のクライミング旅行に出かけた際、公式ラグビー・シャツをクライミング用に買いました。ラグビーでの酷使に耐える頑丈な縫製で、襟は重いギアスリングが首に食い込むのを防ぎます。シャツはブルー地で、胸に黄色のストライプを挟む赤のストライプが2本入ったデザイン。これをアメリカに持ち帰ると、クライミング仲間にとても好評で、皆が欲しがりました。

イギリスのアンブロ社からラグビー・シャツを数着買い寄せるとあっという間に売り切れ、在庫が間に合わず、ニュージーランドとアルゼンチンからも取り寄せ始めました。やがて他の衣料会社も輸入販売を始め、私たちはアメリカにちょっとした流行をもたらしたことに気付きました。利益がほとんどないクライミング・ギアのビジネスを支える手段として、私たちはウェアの販売を続けました。そして1972年には、スコットランドからポリウレタン素材のレイン・カグールとビビーサック、オーストリアからウールのグローブとミトンを輸入し、コロラド州ボルダーで作られた手編みのリバーシブル「スキゾ」ハットを販売するに至りました。

ウェアの製造販売が増すと、ウェア部門専用の名前が必要になりました。既に市場にいいイメージが定着している「シュイナード」をそのまま使おうという案が出ました。しかし同じブランドの元で衣料品を作ることにより、登山用具会社としてのシュイナードのイメージを弱めたくはなく、またウェアを登山用だけに限定したくないという理由から、新たなブランド名を探しました。

当時は殊にそうでしたが、パタゴニアという言葉は「ティンブクトゥ」や「シャングリラ」と同義語、つまりはるか彼方の、地図には載ってないような遠隔地というイメージがありました。パタゴニアという名前は私たちの心に「フィヨルドに流れ込む氷河、風にさらされた鋭い頂き、ガウチョ、コンドルが飛び交う空想的な風景」を呼び起こします。「パタゴニア」は私たちにとって素晴らしい名前であり続け、さらに「パタゴニア」はどの国の言葉でも簡単に発音できる単語でもありました。

キャプリーンとシンチラ

登山界がまだコットンとウールとダウンという保水性のある従来のレイヤリングに依存していた時、私たちはひらめき、そしてプロテクションを求めて別の方向に目を向けていました。そして北大西洋の漁師が日常着とする化繊パイルのセーターに目を付け、水分を吸収することなく優れた保温性を備えたこのセーターこそ、山での理想的なレイヤリングアイテムだと考えました。

このアイデアを試すための素材が必要でしたが、見つけるのは容易ではありませんでした。ある日、マリンダ・シュイナードは第六感に導かれてロサンゼルスの卸売センターに車を走らせ、そこでフェイクファー・コート市場崩壊後の倒産から立ち直りつつあるモルデン・ミルズ社で探し求めていた素材を見つけました。私たちはサンプル生地を縫い合わせ、山岳におけるさまざまな条件下でフィールドテストを行いました。毛玉になりやすく、かさばってゴワゴワし、見た目にも問題がありましたが、素材は非常に温かく、特にシェルと併用した場合に驚くべき保温効果を発揮しました。また、濡れてもインサレーションとしての保温効果を保ち、あっという間に乾き、クライマーが着用する重ね着の数も減らしました。

しかし速乾性のあるインサレーションを、体からの水分を吸収し留めてしまうコットンのアンダーウェアの上に着ても役には立ちません。そこで1980年、非常に比重が低く、水分を吸収しないポリプロピレンという化繊を使った長袖のアンダーウェアを製造しました。これは水に浮く海洋ロープなど、産業資材で使われていた素材で、衣類としては使い捨ておむつの不織布の裏地に使用されたのが初めてでした。

この新たなアンダーウェアの機能をシステムのベースとし、カタログのエッセイを通してレイヤリングのコンセプトをアウトドア界に紹介する最初の企業となりました。水分を発散するインナーレイヤーを素肌に直接着用し、パイルの中間着をインサレショーンに、そしてシェルを一番外側に着て風や雨を防ぐというものです。

山からコットンやウールが姿を消し、ポリプロピレン製のストライプのアンダーウェアの上に水色やベージュの毛玉だらけのパイル・セーターを重ね着する姿をよく目にするようになるのに、あまり時間はかかりませんでした。

しかしパイル同様、ポリプロピレンにも問題がありました。熱に弱く融点が低いため、家庭用乾燥機より高温で強力なコインランドリーの乾燥機を使うと、生地が溶けてしまうのです。また、ポリプロピレンはその疎水性により水を弾いてしまうため汚れを完全に落とすことが難しく、また臭いが消えませんでした。さらに吸湿発散性は素材自体の特性ではなく、紡績や編みの過程で適用される石油由来の物質によるものだったので、20回ほど洗濯をすると、その効果は消えてしまったのです。

パイルもポリプロピレンもすぐに成功を治め、また当時目立った競争相手もいませんでした。しかし私たちは、製品の発売当初からどちらの素材についても品質の向上を目指し、問題点の改良に励みました。

パイルの改良は段階的に進みました。私たちはモルデン社と緊密に開発を進め、まずはボイルド・ウールの化繊版とも言える、毛玉のできにくいソフトなバンティング素材を、そして最終的にさらにソフトで、まったく毛玉にならない両面起毛のシンチラ素材を開発したのです。このシンチラの開発を通じてビジネスにおける重要な教訓を学びました。モルデン社の資金力のおかげでさまざまな革新が実現したのと同時に、私たちが研究開発プロセスを積極的に構築しなかったら、こうした素材の開発はあり得なかったでしょう。それ以来、私たちは研究やデザインに多大な投資を続けてきました。パタゴニアの素材研究所と素材開発部門は、業界の羨望の的です。紡績各社は共同開発プロジェクトへの参加に懐疑的でしたが、パタゴニアの後押しや協力があれば、より優れた新素材が生まれるという認識を得たのです。

一方、ポリプロピレンの代替素材はそのような紡績会社との共同開発の過程ではなく、何の前触れなしに生まれました。

1984年、シカゴで開催されたスポーツ用品の展示会場を見学していたシュイナードは、ポリエステル製のフットボール用ジャージに付いた芝生のしみを洗濯する実演を目にしました。ポリエステルはポリプロピレン同様、金型を通して押し出された糸のように細い繊維状の溶解プラスチック樹脂からできます。プラスチック繊維は非常に滑らかなので、通常の洗濯では洗剤と水を弾いてしまい、汚れをしっかり落とすことができません。

そのフットボール用ジャージを製造していたミルケン社は樹脂を押し出す際、繊維の表面に恒久的なエッチング加工を施すプロセスを開発し、表面に親水性を持たせることを可能にしていました。この加工により素材は水分を外側に発散し、洗濯を繰り返しても効果が薄れることもありません。シュイナードはこれがアンダーウェア用の生地に最適であると考えたのです。ポリエステルはポリプロピレンより融点が高く、商業用乾燥機の使用により繊維が溶けることもありませんでした。

1985年秋、私たちはポリプロピレン製のアンダーウェアすべてを新開発のキャプリーン・ポリエステルに切り替え、さらに同シーズン、新製品シンチラ・フリースを発表しました。当時、ポリプロピレンとバンティングを使った製品は売上の70%を占めていたので、この切り替えは1972年にチョックを発表した時と同様、大きなリスクを伴うものでした。しかしパタゴニア製品の愛好者はキャプリーンとシンチラの長所を即座に実感し、売上は急上昇したのです。

成長の痛手

1980年代初め、私たちはもうひとつ重要な転換を実行ました。アウトドア製品といえばタンやフォレスト・グリーンが主流で、最も明るい色と言えばパウダー・ブルーだった当時、パタゴニアはウェアに鮮やかな色彩を使い、コバルト、ティール、フレンチ・レッド、アロエ、シーフォーム、アイス・モカなど新たなカラーを世に送り出しました。こうしてパタゴニアのウェアは、頑丈さはそのままに、平凡な見た目から大胆な姿へと生まれ変わったのです。

劇的なカラーの人気は留まることを知らず、またシンチラなどの機能的な新素材が人々をますます魅了するに伴い、新たな問題が浮かび上がりました。パタゴニアというブランドはラグビー・シャツの時と同様一時的流行となり、アウトドアを楽しむ人々だけでなく、ファッション性を追求する消費者の間でも人気を集めました。私たちはカタログや販売を通して、ハードコアなアウトドア愛好家のためのレイヤリング・システムの機能性を説き続け、テクニカル製品も成功を収めてはいましたが、最もよく売れる商品はバギーズ素材のビーチ・ショーツやボマー・スタイルのシェル付きシンチラ・ジャケットなど最も機能性を追求していない製品でした。

パタゴニアは急成長を遂げ、『Inc.』誌の急成長私企業リストに名を列ねたこともあります。しかし1991年夏、アメリカ全土を襲った景気後退で売上が減少し、さらに問題を抱えた取引銀行自身が売りに出され、回転融資の返済を求められると成長は止まりました。負債返済のために大幅なコスト削減と在庫圧縮を余儀なくされ、その多くが遊び仲間やその友人であった社員の20%を一時解雇し、独立企業としての立場さえ失いかねない状態にまでなりました。この経験は私たちにとって大きな教訓となりました。成長も負債も適度に抑えるのが賢明である、ということです。

社員にサーフィンをさせよう

急成長中も、そして1991年の一時解雇以後も、私たちは独自の企業文化の価値を尊重し続けてきました。社員は仲間であり、服装の規制もなければ裸足で働いている社員さえいました。ランチタイムにはサーフィンやジョギングに出かけたり、本社屋の裏でバレーボールを楽しんでいました。会社はスキーやクライミングトリップを主催し、その他にも数え切れないほど多くのトリップが気の合う者同士で企画され、週末にシエラに向かい、月曜の朝クタクタながらもハッピーにオフィスに戻ってくるといった光景が見られました。

1984年以来、パタゴニアでは個人のオフィスを設けていません。この配置は時には気が散ることもありますが、日々のコミュニケーションを開放的なものにします。同年、終日営業のカフェテリアをオープンし、今日にいたるまで社員はベジタリアン・メニューを中心としたヘルシーな食事を楽しんでいます。またマリンダ・シュイナードの強い要望で、職場内に託児所を設置しました。現在では3,000以上の企業が託児所を設けていますが、当時は全米で150社しかないうちのひとつがパタゴニアでした。庭で遊ぶ子供たちの姿や、カフェテリアで親子が一緒に食事をする様子は、会社に家庭的な雰囲気をもたらします。また、主に共働き夫婦のための制度としてフレックス・タイム制と業務シェアを実施しています。

これまでパタゴニアは、ビジネスを偏狭にし、創造性を阻止する堅苦しい従来の企業文化から逃れる必要はありませんでした。私たちはただ、自分自身の価値と伝統を守り続ける努力をしてきただけなのです。

環境保護への取り組み

パタゴニアはまだ小さな会社だった頃から、ますます明白になっていく環境危機に対して時間と費用を注ぎ込んできました。忍び寄る公害や森林伐採、初めはゆっくりと、そして徐々にスピードを増して消えゆく魚や野生動物など、世界の遠隔地で起きている環境破壊を目撃してきました。一方、身近な場所でも、ロサンゼルスのスモッグに圧倒される樹齢1,000年のセコイア、潮溜りやケルプの生い茂る海底に生息する水生生物の減少、沿岸地域の乱開発などを目にしてきました。

地球の温暖化、熱帯雨林の伐採や焼失、地下水や表土の急速な喪失、酸性雨、あるいは堆積土砂が溢れ出たダムによる河川や渓流の荒廃に関する情報は、私たちが旅の途中で自らの目で見て、鼻で嗅いだ体験を裏付けました。しかしそれと同時に、自然を守るために苦しい戦いを続ける小さなグループの活動が、重大な結果をもたらし得ることも徐々に認識したのです。

最初の貴重な経験は1970年代初め、パタゴニア本社のあるベンチュラの問題に関わったときです。社員数人が地元のサーフブレイクの保護をめぐる市議会に出席しました。私たちはかつてベンチュラ・リバーがスティールヘッド・サーモンの主要生息地だったということを耳にしたことがありました。しかし1940年代、川に2つのダムが建設され水を迂回処理したため、河口にはわずかな冬の雨か、下水処理場から流出される水が入るだけになってしまいました。その市議会では数人の専門家が川は既に死滅し、河口域に水路を開いても生息する鳥類や野生生物、またサーフブレイクに何の効果ももたらさないと証言しました。

状況はかなり厳しく見えました。しかし、生物学を専攻する25歳の学生マーク・キャペリが川岸で撮影したスライド写真を上映すると状況は変わりました。そこには柳に生息する鳥、マスクラット、水蛇ヘビ、また河口で産卵するウナギの姿が、さらにスチールヘッドの銀化の写真までありました。そうです、50匹ほどのスチールヘッドが今でもこの「死んだ」川に産卵にやってきていたのです。

開発計画は却下されました。私たちはマークが主催するフレンズ・オブ・ザ・ベンチュラ・リバーにオフィススペースと私書箱を提供し、川を守るための活動に小額ながら助成金も与えました。彼らはさらなる開発計画が浮上するたびにその阻止に全力を投じ、水質改善や流水量の増加を目指して活動を続けました。ベンチュラ・リバーでは野生生物が徐々に増え、より多くのスチールヘッドが産卵に戻ってくるようになりました。

マークは私たちに、草の根的活動が大きな違いを生み出し得ること、荒廃した生息地も努力次第で復元できること、という2つの大切な教訓を与えてくれました。彼の姿勢に刺激され、私たちはそれ以来、大勢のスタッフや運営費を持ち、企業とつながりを持っているNGOにではなく、自然保護や生息地の復元を目指して活動する小規模グループに定期的に寄付をするようになりました。そして1986年、毎年税引き前利益の10%を草の根的活動をする環境活動グループに寄付することを誓い、環境保護助成プログラムを開始しました。後には売上の1%、もしくは税引き前利益の10%のいずれか多い金額を寄付すると基準を変更し、今日までこの誓約を守り続けています。

1988年、私たちはヨセミテ・バレーの都市化を避けるという代替マスタープランの支援のため、最初の全国的な環境保護キャンペーンに着手しました。それから毎年、1つの環境問題に焦点を絞った啓蒙キャンペーンを実施しています。私たちは環境と労働基準に危機をもたらす貿易のグローバリゼーションに早くから反対の立場を取り、土砂が堆積し、今となってはわずかに有用なだけで魚の生命を脅かしているダムの撤去を唱え、原生地域の生態系を保護し、野生動物が生息地を自由に移動できる回廊を確保するプロジェクトを支援しました。また18ヵ月に1度、「Tools for Grassroots Activists Conference(草の根活動家のためのツール会議)」を主催し、日頃協調している環境保護グループにマーケティングや宣伝・広報活動などのスキルを伝授しています。

さらに企業としてのパタゴニア自身が生み出す汚染を削減する努力を重ね、1980年代半ばからカタログには再生紙を使用し、モルデン・ミルズ社との協力でリサイクルしたペットボトルから再生ポリエステルを作り、シンチラ・フリース素材に採用しました。

1996年にオープンしたネバダ州リノにあるパタゴニア配送センターの建物は、太陽光を取り込む天窓や輻射熱を利用した暖房システムの使用により、エネルギー消費量を60%削減しました。建物は鉄筋からカーペット、便器の仕切りにいたるまで再生材料を使用しています。既存店では照明システムを改善し、新店舗はより環境への影響を配慮した建物となっています。また染料を査定し、有毒金属や硫化物を必要とするカラーの使用を中止しました。そして何より1990年代前半以降、パタゴニアではすべての仕事において、環境に対する責任を重要事項のひとつとして行動してきました。

オーガニックコットンへの切り替え

私たちは製品の素材となる4つの繊維が環境に与える影響に関して綿密な調査を実施した際、石油を原料とするポリエステルとナイロンはエネルギー消費量が多く、かつ汚染の原因になっているだろうと予測しました。この予測は外れてはいませんでしたが、コットン栽培が生み出す環境への負荷とは比べものになりませんでした。

ほとんどのスポーツウェアに使用されている、「自然」であるはずのコットンが環境におよぼす悪影響は、調査した4素材の中で群を抜いていました。過去も現在も全米で散布される有毒農薬の25%がコットン栽培に使用され、コットン農場周辺では土壌や水質の汚染が非常に深刻です。また検証が困難なものの、コットン農場で働く労働者の健康にもかなりの悪影響を与えるという確かな証拠もあります。

コットンは悪者でした。しかし、そうあるべきではないのです。何千年にも渡り、農家は農薬を使用することなく有機農法でコットンを栽培してきました。第二次世界大戦後、もともと神経ガスとして開発された化学薬品の商業利用が認可され、手作業による除草をなくすために農薬が使われるようになったのです。

私たちは経験を重ね、まずTシャツをオーガニックコットンで製作しました。何度もサンホアキン・バレーを訪れ、セレンに汚染された池の臭いを嗅ぎ、月面のような様相を呈するコットン農場を目の当たりにし、自分自身に重大な問いを投げかけました。「地球をこんなにも荒廃させる素材で製品を作り続けていいのだろうか。」

そして1994年秋、私たちはコットン製スポーツウェアのすべてを1996年までにオーガニックコットン100%に切り替えるという決断を下しました。

全66製品をオーガニックコットンに切り替えるまでに18ヵ月、素材の手配までに4ヵ月しかありません。業者を通して必要なだけの商業用オーガニックコットンを入手することは不可能だったので、オーガニック栽培に切り替えた数軒の農家を直接訪れました。その後、綿繰り工場や紡績工場を訪ね、彼らにとっては微量の発注にもかかわらず、農薬を使用したコットンを処理した後はいちいち機械を洗浄してもらうよう説得しました。また綿俵の状態に至るまですべての繊維を追跡できるように、オーガニック認証団体とも相談しました。

そして1996年、私たちはすべてのコットン製品をオーガニックに切り替えることに成功したのです。以来、パタゴニアはオーガニックコットンのみを使用しています。

未来へのステップ

私たちは環境への影響が少ない素材を求め続け、ヘンプの使用を増やし、またヘンプと再生ポリエステルの混紡素材も使用しています。最近ではある仕入先業者がペットボトル以外のリサイクル原料からポリエステルを再生する方法を開発し、ベストセラー製品の一部でのこの新素材の利用を始めました。今後最大の課題は、ウェアそのものをリサイクル可能にすることです。着古して返却されたポリエステル製ジャケットを再び繊維として、あるいは別のプラスチックとして再生させるのが目標です。

パタゴニア・ブランドが世に出て30年たった今も、私たちは最高の製品を作り続けています。特にこの5年間の改革の速度は特筆すべきものがあります。体の各部分に柔軟に対応しながら動きやすさを最大限に発揮し、効果的に水分を吸湿発散するキャプリーン・バリアブル・ニットの開発もそのひとつです。

より軽量で保温性に優れ、水分を素早く吸湿発散し、よりコンパクトに収納できるレギュレーター・インサレーションは、シンチラを超えた技術革新を象徴しています。また、同じく軽量で伸縮性を備え、より滑らかになった新世代のハードシェル、ソフトシェル、ハイブリッドシェルとレギュレーターを組み合せれば、効果が倍増します。

素材は、サンテグジュペリが唱える機能的なミニマリズムの方向に確実に進歩してきました。次は、針と糸を使った従来の縫製の改革でした。そして2005年春、パタゴニアはついに、ソフトシェルとハードシェル両方に、かさばりを抑え、滑らかで、ウェット・コンディションにおける機能が著しく改善された新しい継ぎ目の技術「コンポジット・シーム・システム」を発表するに至ったのです。

この30年間、数々の間違いを犯しながらも、その度に私たちは素早く軌道修正をしてきました。そもそもクライミング・ビジネスという限られた世界から切り離すために衣料部門としてパタゴニアを独立させたのですが、この限られた世界こそが私たちの足下を固め、成功を助けてきたのです。私たちは今でも、クライミングやサーフィンなどリスクを伴いながらも魂を揺さぶるアクティビティを追求し、カメラの放列が並ぶような大掛かりなイベントより、仲間との気軽な旅で好きなことを気ままにすることを好みます。もう月並みな製品を作ることはできません。また、唯一の住処である地球に、私たち自身が与えた自然破壊という事実から目をそむけるわけにもいかないのです。

* 『Wind, Sand and Stars』© Antoine de Saint Exupery, 1939 改訂版Lewis Galantiere, 1967よりHarcourt, Inc.の許可を得て抜粋。書面による承諾のない転載、転用を禁じます。