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イエローストーンからリノへ

オールド・スクール  /  2010年12月13日  /  読み終えるまで8分  /  コミュニティ

イエローストーンの家でくつろぐスカイ。Photo: Steven Fuller

イエローストーンからリノへ

イエローストーンの家でくつろぐスカイ。Photo: Steven Fuller

2010年のホリデーカタログの後ろ見返しにある写真は、1990年のキッズカタログの表紙に掲載されたのが最初です。現在のメールオーダー部門には、その当時パタゴニアで働いていたスタッフはいません。けれども、「ある雪の日にイエローストーン国立公園でバッファローが草を食べている姿を小さな女の子が窓から覗いている」この写真は、私たちの多くがよく知っている1枚です。

なぜこの写真が私たちにとって特別なのか…それはこの写真の女の子、スカイが、2004年からここパタゴニアで働いているからです。この写真が今年のホリデーカタログにふたたび採用されたのを見て、彼女のイエローストーンでの幼少時代と彼女がここで働くようになったいきさつには、何かストーリーがあるに違いないと思いました。

ストーリーはイギリス人の母とアメリカ人の父がイギリスの大学で出会ったことにはじまります。彼らは結婚し、アメリカに戻ると、父がマサチューセッツ総合病院で技師としての仕事を見つけた街、ボストンに住みました。

そしてストーリーが本格的にはじまるのは1973年、新聞広告に載った「イエローストーン国立公園のキャニオン・ビレッジでの冬期管理人募集」がきっかけでした。スティーブン・キング原作の映画『シャイニング』を思い出してください。ただその仕事は巨大ホテルの管理などではなく、イエローストーン川の流れるグランド・キャニオンのリムにある200もの山小屋の管理でした。

仕事を得た彼が(スカイによるとおそらく彼がたったひとりの応募者だったはずとのことですが)、母に相談すると、彼女は1年くらいやってみるのも楽しいかもしれないと言いました。1年という期限ならたいていのことは乗り越えられると思ったのです。そして彼らは古いサーブに荷物を詰め込み、まだ赤ん坊だったスカイの姉、エマを連れて、西へ向かいました。

彼らに与えられた住居は1910年に建てられた冬期管理人用の山小屋でした。壮大なイエローストーン滝を見下ろす標高2,600メートルに建てられたその山小屋は、居心地は良いものの隙間風はまぬがれない家でした。それに、すこし隔離された場所でもありました。隣人までは25キロ、いちばん近い店までは72キロ(冬はそのうちの64キロはスノーモービルのみ走行可能)もあったのです。仕事は冬期限定だったはずが年間をとおしてとなり、1年限定だったはずが何年もつづくことになりました。2年目の12月、妊娠していた母は父とともに、イエローストーンの冬期ツアーに来ていた疑わしそうなニューヨーカーたちの雪上バスに乗せてもらい、病院まで行きました。

こうしてスカイのイエローストーンでの最初の年がはじまりました。彼女は歩けるようになると、すぐにクロスカントリースキーを覚えました。学校へ通うようになると、母は娘たちを72キロはなれた学校まで送り、それから町で買い物をしたり、音楽を習ったり、図書館で本を読んだりしながら時間を過ごしたあと、また子供たちを連れて帰る、という生活を送りました。けれども秋先に雪が降りはじめると、音楽を習う生徒だった母は先生となり、スカイとエマは冬のあいだ自宅で教育を受けました。

イエローストーンからリノへ

裏庭にしては悪くない冬のイエローストーン。Photo: Steven Fuller

冬期管理人としての父の仕事は、夏用の山小屋の管理でした。彼は1日中屋根の雪かきをしたり、その他さまざまなメンテナンスをしていました。写真家であり、広い野生を愛する天性の「何でも屋」であったスティーブン・フラーは、ぴったりの仕事を見つけたのでした。

冬の夜はゲームをしたり、アート創ったり、本を読んだりして過ごしました。ときおり来客もありましたが、それはたいてい半径36平方キロ以内で唯一の人口の光を求めて蛾のように集まってくる、迷ったスキーヤーやスノーモービルでした。そして、よりひんぱんに訪れてきたのは、野生動物たちでした。バッファローは毎日のようにやって来たので、スカイはこの写真がいつ撮られたのか覚えていないほどでした。厄介な来客はグリズリーベアでした。ある寒い11月の夜、グリズリーがキッチンの窓を破り、コンロから鍋ごと夕食をかっさらって、夜の闇へ消えていったこともありました。

4月になると除雪車がやってきました。スカイとエマは興奮してサンドレスを身にまとい、自分たちを家から道路へ、そして外の世界へと道開いてくれる運転手に挨拶をしたものでした。春はまた旅の季節でもありました。家族で長期間アメリカ各地を旅したり、イギリスにいる親戚を訪ねたりもしました。

夏は乗馬やイエローストーンのバックカントリーでキャンプして過ごしました。父親の遠くはなれた友人たちも訪れてきました。よくやって来る人たちのなかにはグリズリーの研究者として有名で、エドワード・アビーの著書『爆破—モンキーレンチギャング』に登場するジョージ・ヘイデュークのモデルにもなったダグ・ピーコックもいました。スカイによると実際の彼はヘイデュークよりもさらにクレイジーだそうです。…そんなことが可能であればの話ですが。

スカイにとってイエローストーンは、少なくとも夏の間は簡単に仕事を見つけることのできる場所でした。早い時期から起業家としての頭角を現していた彼女が最初にビジネスをはじめたのは8歳のとき、バースデーケーキを焼いて夏期のスタッフに売るというものでした。このビジネスは成功しましたが、両親がケーキの材料の援助を止めると同時に廃業となりました。次のビジネスは公園スタッフの住居の清掃でした。この仕事は聞こえほど楽しいものではなかったらしく、ある程度の年齢になったスカイは、キャニオン・ビレッジのギフトショップで働きはじめました。そして高校を卒業するまでそこで働き、世界中の人びとと一生涯の友情を築きました。

スカイが高校2年生になったころ、母は何もない場所に住むのにも飽き、ワイオミングのジャクソンへ引っ越すことになりました。スカイは母についていき、はじめて公立の学校へ1年をとおして通うことができました。冬に姉以外の人たちと何かを一緒に楽しめるようになった彼女は、ジャクソン・ホール・スキーチームに加わって、スキーパスを手に入れるためにティトン・ビレッジで皿洗いの仕事をしました。けれどもイエローストーンの魅力は忘れがたく、毎年夏になると戻っていきました。高校を卒業するとオレゴン大学へ進学して人類学を専攻し、将来夫になるダレルと出会いました。そして大学卒業後、自然史博物館の小学校支援プログラムで働くためにロサンゼルスへ移りました。しばらくして山が恋しくなった彼らは、ダレルがリノで仕事の申し出を受けると、そのチャンスに飛びつきました。

リノに落ち着いたスカイは仕事を探しはじめました。地元の博物館にもいくつか応募しましたが、パタゴニアの通信販売部担当の求職案内を見たとき、パタゴニアに応募することを決めました。物心ついたときからパタゴニアの服を身につけていましたし、昔彼女の写真がカタログに掲載されたこともあったからです。そこで不本意ながらも、私たちは彼女にチャンスを与えることにしました(もちろん冗談ですが)。彼女はそれ以来ずっとここで働いています。

イエローストーンからリノへ

Garish Moose(きらめくムース)。Photo: Steven Fuller

一方、スカイの父親のスティーブンは、いまもイエローストーン川を見下ろす同じ家に住んでいます。彼は高く評価された写真家で、1980年には『Garish Moose(きらめくムース)』という作品が「インターナショナル・ワイルドライフ・フォトグラファー・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。1992年にはロイヤル・ジオグラフィック・ソサエティの客員講師としても招かれ、他にはポール・セロー、リチャード・リーキー、デビッド・ベラミーやジョナサン・ポリットといった人たちも名を連ねています。スティーブンの作品は彼のウェブサイトをご覧下さい。

スティーブンはイエローストーンでの管理人の仕事をつづけ、今年で37年目を迎えます。長年にわたる勤務と隔離された状態にもかかわらず、「勤勉も度が過ぎれば人を駄目にする」とはまだ書き留めていないようです。

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