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イヴォン・シュイナードから南極への物語

阿部 幹雄  /  2012年4月5日  /  読み終えるまで9分  /  クライミング, コミュニティ, デザイン

ニセコモイワにて。左から金井哲夫、山本由紀男、新谷暁生、坂下直枝、イヴォン・シュイナード、ポール・パーカー、辰野勇。1985年1月 写真:阿部幹雄

イヴォン・シュイナードから南極への物語

ニセコモイワにて。左から金井哲夫、山本由紀男、新谷暁生、坂下直枝、イヴォン・シュイナード、ポール・パーカー、辰野勇。1985年1月 写真:阿部幹雄

子供のころの夢はヒマラヤの高峰登山と北極や南極を探検することだった。夢を果たすため北海道に渡り、ひたすら山に登り、写真家になった。北海道山岳連盟が中国のミニャ・コンガ(7556メートル、貢嘎山)に登山隊を送ることになり、私は隊員になった。1980年秋、私たち偵察隊は未踏の北東稜からのルートを探り、燕子溝(ヤンズーゴー)氷河を登った。アイスフォールを突破できないうちに悪天につかまり、4日間ビバークして耐えたが、1日に降り積もった雪は100センチにもなった。私はこの山域独特の豪雪に怖しさを覚えた。偵察を終え、チベット族の街「康定(カンディン)」にたどり着くと、山の西側から登頂を目指していた4人のアメリカ隊が雪崩に遭い、ひとりが死亡して、撤退したと聞いた。誰の隊でどのような雪崩事故だったのか、街の人たちは誰も知らなかった。

1981年5月、私たちの登頂隊は山頂直下100メートルまで迫っていたが、1人の隊員が北壁へ滑落したため登頂を断念、7人がロープを使って下山を開始した。2ピッチ目の下降をしているとき、1人が滑落して他の隊員を巻き添えにした。7人はロープを確保しきれず、滑落していった。私だけがロープに入っていなかった。登頂隊のうち合わせて8人が私の前から標高差2500メートルの北壁に消えたのだった。そして下降を開始した私もクレバスに墜ちた。1人目が滑落したころから偵察時と同じような豪雪が降りはじめ、下降を困難なものにしていたのだ。どうあがいても、どう考えても、自力脱出は不可能。私は死を覚悟した。だが私には命をかけて救助してくれた岳友がいた。クレバスから引き出され、その夜は標高7100メートル地点でビバークし、生還した。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

燕子溝氷河のアイスフォールを登る。中央がミニャ・コンガ(7556メートル)、左が北東稜。右が北西稜。アメリカ隊は北西稜に出る直前、雪崩に遭遇した。1980年10月 写真:阿部幹雄

アメリカ隊にパタゴニア創業者のイヴォン・シュイナードがいたことを、私の遭難から4年後に知った。北海道のニセコでイヴォンたちと一緒に滑る機会があり、泊まっていた新谷暁生のロッジ「ウッドペッカーズ」でイヴォンと言葉を交わした。
「あのとき、あの山にいたのか?」
「あなたたちの雪崩遭難が起きたとき、私は東側を登っていました」
イヴォンは、新谷から私の遭難のことを聞いていた。
「きみは生き残ったのか?」
「そうです。8人が死にました。でも私一人だけが生き残りました」
互いにそれ以上何も言わず、目を見て、握手した。イヴォンと私は同じ山で友を失い、遺体は氷河に埋もれていた。数年後、パタゴニアは札幌に直営店を出し、店内には私が学生時代に撮影した北海道の山のモノクロ写真が飾られた。私が山や街で着る服にはパタゴニアの製品がどんどん増えていった。

氷河に埋もれた8人の遺体は、氷河とともに流れ下る。遭難から13年後、日本の登山隊が4人の遺体を見つけた。私は遺体捜索のために、死を覚悟した山にふたたび登った。しかし遺体は大雪に埋まり、発見することができなかった。それ以降、3度の遺体捜索を行い、8人の一部と思われるばらばらになったたくさんの遺体を収容した。遺体をザックに詰めて山から下ろし、荼毘に付した。私は焼けていく遺体から目を背けず、骨を拾った。そして山麓に作った墓に次々と遺骨を納めていった。死とは何か。生きるとは何か。遺体とは何か。答えを探し求める歳月が流れた。1人の遺体の身元が分かった2005年秋、年老いたご両親を案内して山麓の墓を訪れ、墓から取り出した遺骨をご両親に手渡した。旅立ってから、すでに24年が過ぎていた。私は生き残った者としての責任を十分に果たしたと思った。これからの人生は自分のために生きよう、新しい旅をはじめたいと思った。子供のころの夢で果たしていないのは、南極へ行くことだけだった。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

山頂を目指し、私の前を登る8人。北東稜7200メートル付近。1981年5月10日 写真:阿部幹雄

2006年秋、国立極地研究所の本吉洋一教授から南極へ行かないかと誘いを受けた。昭和基地から西へ650キロメートルほどはなれたセール・ロンダーネ山地に地学調査隊を派遣するという。日本から飛行機で往復し、基地に滞在せずに3か月間テントで暮らし、移動はスノーモービル。こんな調査形態は日本隊としてはじめての試みだ。調査期間は白夜の夏だが、気温は氷点下30℃、風速30メートルのブリザードが吹き荒れるという。しかもセール・ロンダーネ山地周辺の氷河はクレバスが多くて危険きわまりなく、日本隊は過去に大事故を起こしている。はじめて、そして危険。私は「行きます」と即答した。2007年11月、54歳の私は、第49次南極観測隊セール・ロンダーネ山地地学調査隊の隊員として、南極大陸に降り立った。子供のころの夢が叶ったのだ。それから3年連続で隊員となり、毎年3か月間をセール・ロンダーネ山地でテント生活をして過ごし、6200キロメートルをスノーモービルで走る旅をした。私の役割は研究者を支えるフィールドアシスタント。テント生活に必要な食料と装備を準備し、登山や救助技術を研究者に教え、安全を管理して、事故が起これば救助の指揮を執る。誰にもけがをさせず、誰も失わずに、無事に日本へ連れて帰ることが究極の任務だった。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

地球の果て、セール・ロンダーネ山地東部バルヒエンにて。2010年 写真:阿部幹雄

南極への準備が始まり、南極観測隊隊員の服装を見て驚いた。40年前にタイムトリップしたようだった。南極観測隊で開発し、メーカーに特注品として作らせているのだが、その後、創意工夫や新しい機能の導入などはされず、まったく変化していないのだ。当時は最先端だったのだろうが、いまでは時代遅れ。南極観測隊の時計は止まったまま、変革の意識が欠如していた。南極観測は国家事業であり、「観測隊はナショナルチームだ」と極地研の人たちは言う。ナショナルチームというならば、国民が、そしてとりわけ子供や若者たちが憧れるような服装をするべきだ。時代遅れの服装をしていたのでは、研究まで時代遅れだと思われる。私は南極観測隊装備の改革者になる決意をした。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

2台のソリを連結して物資を積み、キャンプを移動する。セール・ロンダーネ山地中部ニーペ氷河にて。2009年 写真:阿部幹雄

第49次セール・ロンダーネ山地地学調査隊の装備は、すでに南極経験のある研究者によって決定されていた。だから私の考えが反映されるのは2年目からになる。私は昭和基地で越冬する隊員たちに協力を頼み、南極観測隊装備改革の3か年計画を立てた。3年かけてパタゴニア社、アメリカのN社、スウェーデンのH社の計3社の装備を南極でテストし、最適な装備を選んでいく計画だった。まず手始めにパタゴニア社の製品を極地研の装備担当者や南極観測隊隊員たちに見せた。
「こんなものがあるのか・・・」
私は2年目のセール・ロンダーネ山地地学調査隊の装備を、パタゴニア製品を中心にして揃えた。孤立無縁の南極の山岳地帯で装備を失なえば、それは死を意味する。すべての装備はバックアップとして予備を準備した。アウター上下はひとりに2着ずつ。プリモ・フラッシュとプリモ。そしてキャンプでの作業着としてマイクロ・パフ・フーデッド・ジャケット。中間着にはR3とR4。下着は上下ともウール4などだ。だが装備をパタゴニア製品だけにするつもりはない。南極で通用する優れたものであれば、メーカーを問わず採用する。国家事業である以上、特定のメーカーを優遇するのではなく、合理的な理由で選択しなければならない。49次隊で使用した優れた日本の繊維技術の長所を生かしたN社の製品も加えた。そしてどのメーカーの製品にもないものは、自社工場を持ち、特注品を製作できるN社に作らせた。こうして3年をかけてパタゴニア社、N社、H社の製品をふるいにかけていった。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

私たちのキャンプ。大型テントは食堂用。ソリに付けられているのは太陽光発電パネル。電力はすべて太陽光発電でまかなった。セール・ロンダーネ山地中部、上田(あげた)氷河ベースキャンプ。2009年 写真:阿部幹雄

南極はある意味、特殊な環境だ。気温はつねに氷点下、内陸基地の最低気温は氷点下80℃を超える。雨が降ることはなく、暑くて汗をかくこともない。そして毎日、着用する。野外で調査する研究者たちは筆記具や手帳やさまざまな調査のための小道具を持ち、それらをジャケットやパンツのポケットに入れたがる。ザックに入れていたのでは出し入れが煩雑になるため、アウターにはポケットの多さが求められる。また止水ジッパーは軽量化には役立つが耐久性が乏しく、南極では壊れやすい。ファッション性を優先したデザインは窮屈で体の動きが悪くなり、応用性も乏しく、野外調査に必要な優れた機能性を損なってしまう。南極経験のある隊員たちが、口を揃えてこう言った。
「寒い思いをせず、使い勝手の悪さを我慢しなかった装備ははじめてだ」
南極での安全を守るためには、隊員にストレスを感じさせないことだ。そして極限状態においては、装備の性能の善し悪しが命を左右する。とにかく隊員たちのストレスを取り除き、精神を安定させることが安全への近道なのだ。こうして3年間のテストで隊員たちから高い評価を受け、生き残ったウェアは、パタゴニア製品がもっとも多くなった。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

第50次セール・ロンダーネ山地地学調査隊の服装。アウタージャケットとパンツはパタゴニア社製。セール・ロンダーネ山地中部ジェニングス氷河にて。2008年 写真:阿部幹雄

任務を遂行し、装備改革の道を拓いた3年間を終えた私は、南極に誘ってくれた本吉洋一教授に聞いた。
「なぜ、私を誘ったのですか?」
「ミニャ・コンガで遭難し、その後は遺体捜索を長くつづけていたからです。もし事故が起きたとしても、阿部さんがいれば、なんとかしてくれると信じていました」
私はミニャ・コンガの燕子溝氷河を登った秋のことを忘れない。姿こそ見なかったが、イヴォン・シュイナードとのはじめての出会いであり、子供のころの夢がかなう歴史のはじまりだった。それは地球46億年の歴史のなかで煌めいた一瞬の思い出であり、土も草原も森もなく、岩と氷だけの剥き出しの地球、惑星としての地球を目にする南極への物語のはじまりだったのだ。

イヴォン・シュイナードから南極への物語

氷の海へ。セール・ロンダーネ山地中部メーフェル氷河にて。2009年 写真:阿部幹雄

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