「サンディエゴ・100」レースでコース記録達成
2週間前の週末、僕は「サンディエゴ・100」でパタゴニアのウルトラランニングのチームメイト、ジェフ・ブラウニングがトレイルランニングの禅の域に達するところを目撃するという、嘘のような幸運に恵まれた。これ以上の経験はないだろうということと、たくさんの友人たちがこのイベントのために集まっていたことで、今回のそれはさらに豊かなものになった。ジェフとともに参加したのはパタゴニアのトレイルランナーのクリッシー・モール、ルーク・ネルソン、ロック・ホートン、タイ・ドレイニーをはじめ、160キロにわたる砂漠低木地帯のコースのスタートラインに立つ勇気をもつ150名のランナーたち。砂漠の松林、灼熱とホコリ、風、毒蛇、テクニカルなダウンヒルや、果てしない激しい上りが、このレースを5つ星、Aクラスのイベントにする理由だ。レース・ディレクターであるスコット・ミルズ、そして、本格的なランナーなら必ず走りたいと思う素晴らしい伝統的なレースを実現させるサンディエゴ・ラッツの情熱的なクルーメンバーたちに心から感謝したいと思う。ジェフの記録的なレースについては彼自身から直接語ってもらうことにした。あなたもきっと感銘を受けることだろう。—ジョージ・プロマリティ、パタゴニア・グラスルーツ・セールス&マーケティング担当
さて、どこからはじめようか。なんて日だったのだろう。あの日はすべての物事がうまく運んだ、いわゆる「稀な日」だった。まずは、テクニカルな160キロコースで個人記録を更新できたことにすっごく興奮している。レースの素晴らしさについては語り尽くせない。とても整っていて、きちんと準備され、マーキングも明確で、暑く、テクニカルな楽しいコースだった。
コース
レースが行われたのは、サンディエゴの東64キロに位置する山地。累積標高差4,816メートルのこのコースは、木が生えていないために風の影響を受け、かなりテクニカルなことで知られていている。通常6月は暑く、尾根では風が強くて、気温は26℃以上、谷に降りると32℃以上になる。いちばん辛いのは、24キロ地点を通過したあと、116キロ地点まで日陰がまったくないこと。コースはサンセット・ハイウェイ沿いにあるアル・バー・キャンプ場からスタートし、南西にループして、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)につながり、そこからアンザ・ボレゴ砂漠を東に見下ろしながら、標高1,370メートルから1,830メートルの尾根を北上する。そこから西へ向かって、このコースで一番暑いノーブル・キャニオンに降りていき、グリーン・バレーを8に字にループして尾根へ、そしてPCTへと戻る。そのあとクヤマカ湖の沿岸の北ループを回り、ストーンウォール峠を超えて、79号線に平行して谷をサンディエゴへと降りていき、82キロ地点と129キロ地点でまた尾根を上がってから、PCTを32キロ南下して、アル・バー・キャンプ場でフィニッシュする。
クルー
友達であり、パタゴニアのチーム担当でもあるジョージと、彼の婚約者の(そして才能ある写真家でもある)ステフが、僕のクルーだった。彼らは素晴らしいサポートをしてくれた。ステフは撮影に熱中し、ジョージは鍵となるチェックポイントで、僕をたっぷりとオイルを差した機械のようにして、スムーズに通過させてくれた。まさにばっちりだった。夕方ごろには僕はコース記録よりもかなり早いペースを走っていたので、ステーションによっては選手が迫ってきていることをまだ知らないところもあった。ジョージはステーションスタッフに情報を知らせ、スープを温めるように急かして、僕が到着したら飲めるように準備してくれていた。これは本当に助かった。そのころにはバナナやオレンジには心底飽き飽きしていたから(できる限り記録を縮めようとしているとき、集中している優れたクルーは必要不可欠な要素である)。
レース
土曜日の朝、僕らは午前7時のスタートにあわせてアル・バー・キャンプ場に集合した。パタゴニアのチームメイトのルーク・ネルソンとロック・ホートンはランナーで、クリッシー・モールはペーサーだった。おもな競争相手は、去年ワサッチで20時間を切ったルーク・ネルソン(今回は残念ながら風邪気味だった)と、おそらく僕が一番懸念していた手堅い100マイルランナーのアダム・ヒューイーだった。アダムは160キロレースでは後半に強い選手で、昨年のカスケード・クレストを歴代第3位のコース記録、19時間05分でフィニッシュした。彼はとにかくものすごい元気なやつだと聞いていた。オレゴン州のユージーンから参加のダン・オルムステッドも同じだ。他にもファブリス・ハーデルやティム・ロングなどの数名の穴馬的選手もいた。
レース・ディレクターのスコット・ミルズが注意事項を説明したあと、午前7時きっかりにスタートした。ルークと僕はリラックスしたペースでちょっとした会話を交わしながら、それぞれ3番目と4番目に落ち着いた。僕は100マイルレースでは勢いよくはじめるのは好きではないので、最初の数キロは体を温めながらリラックスし、クルーズすることで満足していた。
最初の数キロは落ち着いて、地面の柔らかいシングルトラックのトレイルをクルーズしていた。その数キロ後、ティム・ロングを追い越して2番目になり、ファブリス・ハーデルの後ろを走っていた。およそ6.4キロのところを超えたころ、松林の岩肌でごつごつしたシングルトラックになった。ファブリスはこのテクニカルな部分を慎重に走っているみたいで、僕はくっついている気がした。だから自分のラインをとって彼を追い抜かすときが来たと判断した。テクニカルな走りが好きな僕は、それほど努力もせずに、すぐにいい距離を置くことができた。
レースにではなく、ただリラックスしてクルーズすることにだけに集中していると、すぐに11.6キロ地点のメドウズ・エイドステーションに着いた。去年のディラン・ボウマンのコース記録よりほんの少し遅れての到着だった。僕はロッド、ヤシン、ディラン、とくにヤシンが去年暑さでやられたのを知っているので、あまり気にはしていなかった。ちなみに、レースに勝つためにはコース記録を破らなくてはいけないだろうと考えていたし、トライしてみようとも思っていた。参考までにディランのペース配分の記録も持っていた。
僕は持っていた水ボトル1本をジョージの2本と交換すると、短い往復コースのセクションを目指した。コースの折り返し地点に戻ってくると、ちょうど他の選手(ティム・ロング、ファブリス、ネルソン、ヒューイー)が2分遅れで入ってくるところだった。まさかこの時がこのレースで他の選手を目にする最後だったとは夢にも思わなかった。
メドウズを過ぎ、マイルを稼ぎながら気持ちよく走りつづけていると、まもなくコース記録のペース配分ちょうどでルースターに到着した。ステーションではバナナと水をとり、すぐにパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)に入ると、北へ向かった。ここまでくると、高地のコースのほとんどがそうであるように気温が上がり、木陰がなくなり、陽にさらされた低木地帯となる。僕はただコツコツと走りつづけ、トッズ・キャビンとペニー・パインズの通過地点をコース記録のペース配分より数分遅れて通過した。
ペニー・パインズからノーブル・キャニオンへ降りていく途中で、僕は少し休もうと、何度か小川で立ち止まって帽子を濡らした。この降下の後半はとてもテクニカルで、ダウンヒル・マウンテンバイカーがフルフェイスヘルメットの完全防備で走っているところに遭遇した。数か所で彼らを飛び越えながら、やっと振り切り、48キロ地点のパインクリークのエイドステーションにたどり着いた。そのころには、本当に暑さを感じていた。
僕はトレーニング仲間のロッド・ビエン(去年2位)とレース戦略について話していた。そしてこのセクションはとても辛くて暑いので、その後のパイオニア・メイルにつづく13キロの上りで足が持つように、気楽に行った方がいいと聞いた。僕はそれに従い、このループはゆっくりと着実に、58キロ地点のパインクリーク2まで走った。この時点でコース記録より9分遅れだったが、あまり気にしていなかった。去年の先頭グループはこの上りでとても苦労していたのを知っていたし、僕はパインクリークではかなりいい調子だった。だからパインクリークでは必要なものを補給した。果物とゲータレード2杯。自分のウォーターボトルに氷と水を入れ、この舗装された13キロの上りのシングルトラックを登っていった。
数キロ登って舗装部分が終わると小さな盆地へとダートロードを下っていき、そしてまた登って、水補給のためだけのエイドステーションに到着した。僕はすでに700ミリリットルのボトルを2本とも飲み干していたので、補給が必要だった。ステーションのスタッフがアイスキャンディーを用意してくれていた。あれは美味しかった。溶けていくアイスキャンディーをくわえて50メートルも行かないうちに、上りのトレイルへと進んだ。この部分はほとんど南向き。70.9キロ地点のパイオニア・メイル・エイドステーションへ向かって尾根を登ると、PCTへとつづく。暑かった。
パイオニアに近づくころは、残りの水の配分を気にしながら少し落ち込み気味だったが、パイオニアにはコース記録のペースよりも数分早く到着した。ジョージは僕に590ミリリットルの水を飲ませ、エイドステーションで何か食べるように促した。新しいウォーターボトルを持ち、PCTを11.5キロ先のサンライズに向けて出発した。
サンライズへ向かうPCTの次のセクションは、少し辛かったけど、美しかった。東側数千フィート下に広がるアンザ・ボレゴ砂漠を見下ろしながら、尾根を縦断していくのだ。荒野へと素晴らしい景色が広がっている。荒涼で、美しい。そして強風だった。時速64キロ以上はあったに違いない。ただ暑く、かんかん照りで日陰もなく、そのうえ風焼けにさらされる。精神的に困難なセクションだった。2番手がどのくらい後方にいるのかまったく分からず、まだコースの半分までも来ていない。すでに日に焼けて、しかもこれから何時間も日陰が望めない状態だった。「元気をだせ、くよくよするな」 160キロコースでは、精神的にハッピーな状態を保つこととの戦いが重要だったりする。たとえコンディションがひどい状態であっても…。人生のいい教訓だ。
82キロ地点のサンライズには午後2時56分に到着。コース記録のペースより13分早かった。そしてジョージから、アダム・ヒューイーがパイオニア(前のエイドステーション)に7分前に到着し、調子もよく、すでにそこを出発したと聞かされた。「くそ、ヒューイーか」 彼は後半に強いランナーだし、いつ勝ってもおかしくないと僕は思っていた。彼は見過ごされがちな160キロランナーだが、去年のカスケード・クレスト・100の19:05という信じられない記録は、ロッド・ビエンのコース記録によって目立たなかっただけのこと。彼が優勝候補であることは知っていた。
「ヒューイー」 彼の存在が僕を掻き立てた。肩越しにうしろを振りかえりながらストーンウォール・マインを目指して出発すると、僕の足に火がついた。ここもまた精神的にきついセクションだった。クヤマカ湖の近くの、オープンで乾いた黄色の草原に降りていく。平らで、ドライで、砂地で、馬が通るダブルトラックのダートロードだった。ソフトで、でこぼこで、暑い。そして午後の炎天下。しかも僕は、ヒューイーに差をつけるべくペースを上げていた。
サンライズを過ぎて数キロ走ったあと、塩サプリをとろうと口に入れると、横向きに入って喉に詰まってしまい、吐き戻してしまった。たくさんではなかったが、先ほどのエイドステーションで食べたオレンジの実の塊ももどしてしまった。「もういい、あんな繊維なんているか」 1、2分待ってからもう一度塩サプリとジェルを飲むと、今度は大丈夫のようだった。よかった。このセクションを走りつづけ、ストーンウォール・マインにはコース記録より30分早い、午後4時4分に着いた。車の中でくつろいでいたジョージとステフが僕の姿を見て驚いた。その時点で記録をさらに17分も縮めていた。彼らは僕をエイドステーションに迎え入れ、そして送り出してくれた。それからストーンウォール・ピークを超えるべく、僕はまた登っていった。
このセクションに入ってから、湖の回りの木陰のおかげで調子も上がってきていた。そしてストーンウォールの北側の上りにはもっと日陰があった。山頂にたどり着くと、パソ・ピカチョ・エイドステーションまで一気に300メートルを下った。エイドステーションには午後5時5分に着き、そこでまた5分縮めた。ジョージから、ヒューイーがストーンウォール・ステーションに20分前遅れで入り、疲れた様子ですぐに座ってしまったと聞いた。僕はワクワクした。好調で、すべてのチェックポイントで記録を縮め、2位との差を広げていた。日が沈むまでにサンライズに戻ってこられない場合に備えて、軽量のヘッドランプをつかんだ。いいヘッドランプはサンライズのドロップバッグに入れてあった。僕は129キロ地点のサンライズに暗くなる前に着けるようにプッシュするとジョージに告げた。ジョージと拳を付き合わせ、そこからスイートウォーター・エイドステーションへ8キロのテクニカルなダウンヒルの前、徐々に上りになる4.8キロのトレイルへと出発した。このセクションはほぼ全面的に日陰で、一日中炎天下を走ったあとにはありがたい変化だった。
ここでは本当に気持ちよく走ることができた。僕が得意とする、狭くて岩石の多いテクニカルなシングルトラックの下りで、iPodで聞いていた音楽もステキだった。ここからはリズムに乗って流れることができた。すると自分でも気づかぬうちに、午後6時23分に116キロ地点のスイートウォーター・エイドステーションに到着していた。コース記録のペースよりほぼ1時間も早かった。このエイドステーションは最小限のサポートのみだったが、おにぎりをもらうことができた。あれは本当にうまかった。あのおにぎりをにぎってくれた人、ありがとう。僕はそのおにぎりを2つ食べ、ゲータレードを喉に流し込むと、129キロ地点のサンライズ・エイドステーションに日が落ちるまでに間に合うよう、また出発した。
このセクションは少しスローペースではじめたが、砂地の低地を抜けて古いダートロードに入ると、またペースを上げはじめた。休憩のために時々途中で歩きながらも、この上りの85%は走って進んだ。いい感じで涼しく、調子よくリズムに集中したまま、すぐにサンライズ・エイドステーションへ向かうループの出入り口のところまできてしまった。ここで、82キロ地点を通過したばかりの他の選手と会いはじめた。僕はあと少しで129キロ地点だった。 正直いって彼らには同情したが、彼らから元気をもらえた。一日中独りっきりで走っていた僕は、彼らの姿を見れてうれしかった。応援してくれる人もたくさんいたし、なかには「おい、逆方向へ行ってるぞ!」なんて声もあった。「いやー、違うんだな。悪いけど、あのループはもうごめんだ」 ゴールと、そして17時間を切る可能性を感じはじめていた。「さあ前に進め!」
サンライズに着いたのは午後7時52分。まだコース記録のペースより1時間も早く、陽の明かりが残っていた。尾根ではいまなお風が強く吹き、陽は沈みかけ、あたりは涼しくなってきていた。僕はパタゴニアの袖無しのキャプリーン1から長袖のキャプリーン1に着替え、お気に入りのパタゴニアのライトウェイトのメリノウール製の手袋をはめ、ブラック・ダイヤモンドのヘッドランプ(ありがとう、ロチョ)を付けた。これらを装備するあいだジョージは僕に食べさせつづけ、僕はチキン・ヌードル・スープを飲み込むと、また走りはじめた。僕がエイドステーションをチェックアウトしようとすると、スタッフが「おい、ちょっと待って、逆の方向だよ」なんて言い、ジョージが「いや、彼は先頭なんだよ。これから戻るんだ!」と説明していた。行くぞ、ジョージ。
ここで僕が考えていたのは、ヘッドランプをつける前に、11.6キロ先にあるパイオニア・メイル・エイドステーションに向かってできるだけ進むために、スピードアップしなくてはいけないということだった。とりあえずこれが目先の目標となった。そしてサンライズからヘッドランプなしで25分ぐらい進むことができた。これは時間を稼ぐには必須だった。140キロ地点のパイオニアには午後8時52分に到着した。記録より1時間半以上早いタイムだった。そこからは暗いなか、テクニカルなPCTであまり食べずに、気をつけて保守的に進んだ。ただ動きつづけることだけを考え、あいだに何度か歩いて休憩を入れながら上りの90%は走って進んだ。最後の21キロはとくに何の出来事もなく、フィニッシュして座ることを目指して、ただ絶え間なく前進するのみだった。160キロコースの最後の32キロは、つねに前にただ進み、食べ、飲み、塩を補給するの繰りかえし。154キロ地点の最後のエイドステーションに着いたときは、17時間切りは確実なのが分かっていたので、あとはどれだけ記録を伸ばせるかだった。
キャンプ場敷地内の最後のセクションを走り、フィニッシュラインが視界に入ると、本当に興奮していた。チームメイトのルーク・ネルソン(風邪のため、途中97キロあたりで棄権)と、タイ・ドレイニー(ルークのペーサー)がフィニッシュで僕を迎えてくれた。レース・ディレクターのスコット・ミルズと、グレン・タチヤマ、ジョージとステフも一緒だった。本当にうれしかった。間違いなく、僕のいままでの160キロレースで最高のパフォーマンス、最高の自己記録だった。本当にすばらしい最高の日だった。
感謝
まず最初にレース中ずっと僕を見守ってくれた神様、愛する妻と子供たちへ感謝する。彼らのサポートと愛情なしでは、すべてが不可能だった。みんな本当にすてきだよ。あとはもちろん僕にサポートを提供してくれた人たちに感謝したい。パタゴニア:とくに土壇場でストライダー・プロ・ショーツに手直しをしてくれたミシェルに(2013年春の製品で探してほしい。ポケットが付くんだ、ポケットだよ!)、ウルトラスパイヤ:ハイドレーション・ハンドホールド、ルディプロジェクト:サングラス、ブラック・ダイヤモンド:素晴らしいヘッドランプ、ファースト・エンデュランス、そしてフットゾーンのティーグ・ハットフィールドやすべての人びと、そして最高のクルーメンバーであるジョージとステフ、レースのスタッフとボランティアに。
ジェフ・ブラウニングは、グラフィック・デザイナー、そしてパタゴニアのウルトラランニング・チームのメンバー。疑い深い人の州として知られるミズーリ州の農園で生まれ育った彼は、蒸し暑い夏に干し草を運びながら確固とした労働理論を学びました。ジェフのニックネームである「ブロンコ・ビリー」は、彼がウルトラランニングをはじめたころにウルトラランナー仲間がつけたもので、それ以来そのあだ名はついて離れなくなりました。この投稿はジェフのウェブサイト, GoBroncoBilly.comに掲載されたものです。