ランタン渓谷の地震
4月16日の正午頃、バンクーバーから飛行機に乗った。くたくたに疲れていた。パタゴニアでの4か月のクライミングシーズンを終えて北米に戻ると山のコンディションは最高で、足しげく通わないわけにはいかず、結局この6週間ゆっくり休む間はなかった。今回パタゴニアで自己最高の結果を生み出したツケは、写真や執筆の依頼とそれに関する大量のeメールという形でまわってきた。ブリティッシュコロンビアでの最後2晩は何とか遅れを取り戻そうと、ほとんど眠らずに頑張ったが、ついに時間切れとなり、コンピューターを閉じて空港に向かった。全然追いついていなかったが、「返信しなかったせいで誰かが死ぬわけでもない。たかがeメールじゃないか」そう自分に言い聞かせた。
編集記:先日のネパール地震で被害に遭われた方々に心よりお見舞いを申し上げます。被災地への支援方法はこの記事の最後をご覧ください。コリンが無事に帰国したことを非常にうれしく思い、またブログ記事の転載を許可してくれたことに感謝します。
乗継ぎの広州の空港で2時間ほど過ごし、カトマンズ往きの飛行機に乗った。この数日間ギアの確認には相当な時間を費やしたが、それ以外はこれほど知識不足と準備不足の状態でクライミング遠征に出たことはなかった。ネパールには行ったこともなく、何も知らなかった。機内で隣り合わせたオーストラリアの青年に『ロンリープラネット』を借りて、土壇場の追い上げをした。17日の午前零時ごろ、ネパール人とフランス人の両親をもつ若い女性ラファエルの家に着いた。クライミング・パートナーのエムリック・クルエはその日の早朝にフランスから到着し、夜遅くまで起きて待っていてくれた。
ネパール初日の朝はエムリックと彼の妻ポーリーン、娘のマーゴ、ラファエル、カトマンズ在住の彼女のフランス人の友だち2人とパンやマンゴーやネパールバナナ(北米のバナナよりも風味がある)を食べながら、ほとんど忘れてしまっていたフランス語を磨き直した。まったく信じられないとは思うが、その朝の話題は地震だった。地震学者によるとネパールはいつ巨大地震に襲われてもおかしくないらしく、ここに来るたびに不安だとポーリーンが話した。いま思えばまるで虫の知らせのようだったが、マンゴーを食べ終えたエムリックと僕は外に出てタクシーを拾い、遠征支度のためにカトマンズの町に向かった。
19日、僕たちはカトマンズからジープを走らせて、ランタン渓谷に向かうトレイルヘッドでもあるラスワ郡のシャブルベシという村に行った。カトマンズのはずれで親切で内気なネパール人ピンジュを乗せた。ピンジュは過去何度もポーリーンと一緒に働いたことがあり(ポーリーンはネパール語を話し、よくネパールでトレッキングガイドを務める)、今回は2歳半のマーゴを運ぶために雇われていた。シャブルベシに着くと、エムリックはキャンジン・ゴンパでロッジを営むグアルブーに大歓迎された。プロの山岳ガイドであるエムリックは、去年クライアントを連れてランタン渓谷を登ったときグアルブーのロッジに滞在していた。グアルブーはシャブルベシまで食料の買い出しに歩いてきて僕たちを出迎えてくれたのだった。エムリックに会ってとてもうれしそうで、観光シーズンの到来にも意気揚々としていたのだろう。ロッジを建てたのはほんの2年前で、今年は営業をはじめて2回目のシーズンとなるはずだった。
20日、いよいよ僕たちは歩きはじめた。飛行機や車に座っているのも排気ガスを吸い込むのもようやく終えてほっとし、活力がみなぎってきた。歩きながら気づかずにはいられなかったのは、ヒマラヤ山脈で僕がそれまでに唯一行ったことのあるパキスタンとの違いだった。まず青々とした温帯気候のジャングルは、パキスタンの乾いた埃っぽい谷間とは対照的にさわやかだった。そしてネパールの山岳地帯の開発ぶりに仰天した。パキスタンで川を渡る橋といえば数本の丸太を結び合わせただけのものだったが、ネパールでは鉄筋コンクリートの巨大なつり橋がかかっていた。山へのアプローチもパキスタンでは文字どおりのキャンプだが、ここではいくつもの村を通り抜け、ロッジにはソーラーパネル、電気、薪ストーブ、カーテンの付いたガラス窓、さらにシャワーまであった。夜は木の枝の猿を見て、ダルバート(ご飯とレンティルの一般的なネパール料理)を食べ、ラマホテルのゲストルームで寝た(そもそも村の名前がラマホテルである)。
21日、エムリックとグアルブーと僕はポーリーンとマーゴとピンジュといったん分かれた。僕たちは谷で標高が最も高い村(3,860メートル)キャンジン・ゴンパへ一気に歩いて行き、ポーリーンはマーゴの高度順化に余裕を持たせアプローチにさらに2日費やすことにした。キャンジン・ゴンパへの道中、グアルブーと親しくなり、彼から谷についていろいろ教えてもらった。グアルブーはランタン渓谷で生まれ育ったが、この冬は生来見たことのない大雪だったと言った。雪崩で100頭以上のヤクが死に、冬のあいだに2度ほどロッジの窓から脱出して軒先にまわり、出入り口の雪かきをしなければならなかった。谷でいちばん大きなランタン村を進んでいくと、2〜3週間前の雪崩で窓ガラスが吹き飛ばされ、山側の壁に雪が張りついている家を何件も見た。これも凶兆だった。いつにないこの大量の積雪でよかったことといえば、エムリックがネパールに発つ数日前に運良く積雪のことを聞いていたので、僕たちは直前のギア調整を済ませたあとにツアースキーの道具を持ってきていたことだった。
ランタン村でランチを食べ、グアルブーは仲間と雑談した。いまは家族と一緒にキャンジン・ゴンパでロッジ「ホーリーランド・ゲストハウス」を経営しているが、グアルブーが育ったのはランタン村だ。酪農場でヤクのチーズを1キロ買い、村を出る前にグアルブーの父親の家にも立ち寄った。キャンジン・ゴンパまであと数キロのあたりで高度順化が不十分なのを感じ、頭痛を起こさないようかなりゆっくり歩いた。キャンジン・ゴンパに着くとグアルブーの義兄スヌに迎えられ、間もなくグアルブーのゲストハウスの「食堂」でお茶を飲みはじめ、それからグアルブーの妻ロプサンにも出会った。グアルブーの3人の恥ずかしがり屋のかわいい娘たちはたしか9、11、13歳で、僕が彼女たちの名前を発音するのに四苦八苦するのを見てクスクスと笑った。3人は1週間以内にダンチェの学校へ向かう予定だった。グアルブーの息子はすでにカトマンズの学校に行っていた。
22日は軽く散歩をしたり、あれこれ整頓したり、翌日のスキーのギアを準備したりしながらのんびり体を慣らした。23日は夜明けとともに起き、(すばらしい大きな橋がかかった)川を渡り、ブーツを履いて北向きのクーロアールを上っていった。ゆっくりしたペースで標高4,900メートルの副山頂に着くと、キャンジン・ゴンパとランタン村の真上にそびえるランタン・リラン(7,200メートル)の見事な眺めが向こう側にあった。滑りはじめるまでに雪は少し溶けすぎていたが、それでもじつに楽しい春スキーだった。あっという間に谷底のすぐ上まで滑り降り、あえぎながら顔をほころばせてビンディングのクリップを外した。2人ともスキーを持ってきたことに大満足で、僕はこれほど楽しい高度順化の初日を体験したのははじめてだとエムリックに言った。ただ毎度のことだが、滑降時になるとつい高度のペーシングを忘れ、4,900メートルまでは問題なく登っていたものの、滑降を終えると頭痛がした。のろのろとグアルブーのロッジに戻ると、着いたばかりのポーリーンとピンジュとマーゴがいた。僕が痛む頭をなだめるあいだ、明らかに誰よりも高度の影響を受けていない2歳半のマーゴは元気に走りまわっていた。
24日ものんびりと過ごし、ポーリーンとマーゴとピンジュと一緒に軽くハイキングをした。25日はエムリックと僕は夜明けとともに起き、ふたたびスキーを持って川を渡り、ハイクアップしていった。霧が出たどんよりと曇った1日で、谷全体が雲にすっぽりと包まれていたが、たとえ天候が悪化して目的地のコル(約5,200メートル)まで行けなくとも、もう少し標高を稼げば高度順化になると考えて進んでいった。4,500メートル地点にたどり着くころには視界がますます悪くなったので、シールを剥がして谷間まで滑った。皆が起きだす前にグアルブーのロッジに戻り、外に座ってパンとヤクのチーズを食べ、午前9時にはまた温かい寝袋にくるまった。
午前11時40分ごろうたた寝から目覚め、ジャケットを着て靴を履き、階下に行った。すでにランチをオーダーしたエムリックとポーリーンとマーゴが食堂にいて、一緒にくつろいだ。揺れはじめたとき、カトマンズ初日の朝の会話が頭にあったせいか、すぐに地震だとわかった。マーゴを抱えたエムリックと僕たちは物が落ちてくる前にロッジを飛び出した。
人びとがあたりの建物から飛び出してきた。僕らは最初空き地に立ち尽くし、建物が崩れ出すのを見た。最新の建物のなかにはしっかりした構造のものもあったが、キャンジン・ゴンパの建物の大半はたんにていねいに積み重ねられた花崗岩のブロックに過ぎず、たとえ継ぎ目があってもごくわずかなセメントの目地だった。建物はあっけなく崩壊し、僕らの周りで花崗岩のブロックが地面に落下した。崩れる建物からはなれて村を出るのがいちばんだと本能的に察したが、そう思ったのは明らかに僕だけでなく、皆がほぼ同時に村の東端にある草台地へと歩いたり走ったりしはじめた。
村の最後の建物からはなれる寸前、草原に差し掛かったところで、うしろを振りかえると雪崩が見えた。崩壊する建物と人びとの叫び声のせいで、雪崩の音は誰にも聞こえていなかった。村の上空は分厚い雲で覆われており、雪崩を目にした人もいなかった。僕はとてつもなく大きな雪煙が(ランタン・リラン東壁の基部にあたる盆地から)雲の層を抜けてこっちに迫りくるのを見た。これまで巨大な雪崩はアラスカやパキスタンでいくつも見てきたが、これは比較にならない規模だった。雲を抜け、モレーンを越えて迫りくる雪崩は300〜400メートルの高さがあるように見えた。氷屑や岩屑はモレーンの上側で止まっていて雪崩はたんなる雪煙だったが、この雪煙は通常よりもずっと速いスピードで移動してきた。
僕は雲のなかから雪崩が迫ってくるのを見た最初のひとりだったと思う。指をさして叫んだ。頭がフランス語モードになっていたのでとっさに出たことばは「見ろ!」というフランス語だった。周囲にフランス語を話す人はほぼ皆無だった。だが人びとは振りかえり、一瞬のうちに叫びながら走り出した。このときマーゴを抱えたエムリックとポーリーンを見失った。僕は雪崩の逆方向へと、とにかく草地をできる限りのスピードで走った。
雪崩がのしかかってきたのは草地の真んなかあたりだった。僕は両手両膝をついて身をかがめた。はじめ恐怖感はなかった。これまでに雪煙にテントが押しやられたり、至る所に雪が詰まったりするのを何度も体験したことがあり、今回ははるかに大規模なのはわかっていたものの、似たような体験だろうと楽観視していた。雪混じりの驚くほど重く分厚い風が吹き付け、フードを前側に引っ張って呼吸ができるよう顔の前にくぼみを作った。ほんの数秒後、宙を埋める大量の雪がすべての光を遮断した。文字どおりあたり一帯が真っ暗になった。周囲に雪がどんどん積もっていくのを感じた。怖くなった。雪煙が襲った瞬間から吹いていた風は勢いを増し、動かないよう必死に踏ん張っていたが、ついに地面に両手両膝をついたまま草地を押されはじめた。ほんの2、3秒、数メートル押されたところで本格的な突風が襲った。まるで圧縮波のようだった。とてつもなく強力な突風に打たれ、それはパタゴニアで体験した最悪の風とはまったく段違いのものだった。そして一瞬のうちに宙に投げ出された。心底怖かった。このような状況では体は完全に無力になる。僕は猛烈な風のなか布人形のごとく宙を舞った。「もうお終いだ。この雪崩で死ぬんだ」と本気で思った。水平距離にして30〜40メートルは飛ばされたと思う。草地はやや高台になっていて、その端から吹き落とされた。雪に覆われた薮と草の傾斜面の途中に着地し、そこから谷底まで滑り落ちていった。体は痣と切り傷だらけで筋肉が痛んだが、衝撃を受けたときの記憶はまったくなかった。唯一はっきり覚えているのは頭を地面に激しく打ちつけたことだった。岩でなかったのが幸いだった。
丘の下で人生最大の強暴な「落下」がなんとか止まった。しかし背後に次の雪崩が迫っているのではないか、岩屑が襲ってくるのではないかという恐怖に駆られ、すぐに立ち上がって走り出した。100メートルほど走ると早歩きのペースに落とし、明らかに大量の血を流しているヤクの足跡をたどった。谷底の真んなかあたりで立ち止まり、周囲を見まわした。ネパール人の男が隣に立った。僕と男は粗い呼吸で震えながら無言でしばらく見つめ合った。僕は頭を振って雪が10センチほどこびりついた髪をほぐし、服の雪を払い、奇跡的に脱げなかった靴の雪を落とした。首を痛めたことがすぐにわかったが、体はちゃんと機能しているようだった。丘の上の草地の端に数人が現れ、叫びながらこっちに来いと手招きした。ネパール人の男は村に向かって歩きはじめたが、僕はまだ雪崩の方向には怖くて行くことができなかった。わずか1分のあいだに、広い草の谷間全体に20〜30センチの雪が積もった。「たんなる」雪煙に見舞われただけとはいえ、それは明らかに大量の雪を含んでいた。どの方向を見ても急な起伏があり、さらに大きな雪崩が襲って来るのが容易に想像できた。安全な場所は見当たらず、十分に探索していなかった谷の先に湖があるかどうかもわからなかった。谷底に立っているということはラハール(火山泥流)が降りてきた場合の経路にいるということだと気づき、しぶしぶ村の方へ歩きはじめた。
丘を上って行く途中、エムリックが草地の端から駆け下りてくるのが見えた。エムリックの顔は泥だらけだった。エムリックはあえぎながら「クソッ!」とつぶやき、「大丈夫か?」と聞いた。僕は「大丈夫…だと思う」と答えた。本当に大丈夫かどうかわからなかったが、とりあえず大丈夫そうだった。エムリックは怪我を負ったネパール人男性2人を丘の上に運ぶのを手伝うようジェスチャーした。僕の他に6人ほどが雪の突風に飛ばされて草地から落ちたらしかった。全員が運良く岩を逃れたわけではなく、あるネパール人男性は頭から大量の血を流し、別のネパール人男性は背中を痛めて歩くことができず、韓国人女性は脚を骨折していた。
村のはずれでエムリック、ポーリーン、マーゴと再会して態勢を立て直した。雪崩を見たときエムリックたちは走り出さず、賢明にも石壁の後ろに隠れた。それで彼らは雪と風に打ちつけられたものの、安全にその場所に留まることができた。あの突風が襲ったときもしもエムリックが僕のように草地にしゃがんでいたら、マーゴが無事でいられたとは思えない。僕たちはこれからどうすべきか対策を練りはじめた。
村はダブルパンチを食らったようなものだった。地震で石造の建物は崩れたが木造建築はかなり耐え、残った石造の建物は雪崩に耐えたが、密度の低い建材は倒壊するか押し流された。谷底には波板トタンや合板やその他の残骸が散らばっていた。宙に飛ばされたこれらの建材に打たれなかったのは幸いだった。屋根の多くは吹き飛ばされていた。村のヘリポートは有刺鉄線のフェンスで囲まれていて、有刺鉄線はほとんど風の抵抗を受けないにもかかわらず、太い鋼製支柱はすべて折れ曲がって地面に倒れていた。
地面に落ちている波板トタンやその他の建材を使って、エムリックはボルダーの脇にビバーク用シェルターを作りはじめた。余震を恐れて半壊の建物に避難する気にはなれなかったし、雪崩の心配もあったのでボルダーの下側にいたかった。グアルブーのロッジに戻りたくはなかった。だが着の身着のままで逃げてきた僕たちはいまヒマラヤにいて、もしかすると長引くかもしれない「サバイバル状況」に直面していたので、エムリックと僕は交代でロッジのなかに走って行き、できるかぎりの物を集めた。ひとりがなかにいるあいだ、もうひとりは余震の前兆をすばやく叫ぶために外で待機した。ロッジのなかは一部が雪で埋まり、一部は崩れた天井から落ちた木材と花崗岩のブロックで埋まっていた。僕たちのベッドルームは岩屑で埋もれていたが、幸い荷物の大半は押し入れに入れてあった。寝袋、パッド、ブーツ、手袋、洋服、キャンプ用ストーブ、食糧、ヘッドランプ、衛星電話を持ち出して、村のはずれのビバーク用シェルターへと運んだ。
そのときの大混乱の真っただなかでは気づかなかったが、外国人トレッカーと地元以外のネパール人(キャンジン・ゴンパに住んでいないネパール人)を含む大勢が雪崩の直後に荷物を持ち、キャンジン・ゴンパをはなれて谷を下りはじめた。どれだけ余震があるのか見当もつかなかったし、まだ雪崩が起きる可能性もあったが、エムリックも僕も谷を下ればキャンジン・ゴンパより安全だとは考えなかった。結果的に僕たちは正しかったと思う。緊急事態では多くの人が本当に賢明な選択かどうかを考えることなくとにかく「逃げ出し」て、自分の場所に戻りたいという本能のままに動いてしまう。
雪崩のあいだどこに避難していたかは知らないが、グアルブーとロプサンと娘たちは無事だった。ピンジュはグアルブーのキッチンに避難していた。キッチンはロッジとは別の建物で、ほぼ全体が木造建築なので地震に耐え、2階建てのロッジのすぐ風下にあったので雪崩にも倒されなかった。ランタン渓谷へハイキングに行った人たちが地震のあと最初にキャンジン・ゴンパに戻って来たのは、雪崩の数時間後だったと思うが、もしかすると翌日だったかもしれない。彼らの知らせを聞いたとき僕はロッジの外でグアルブーと話をしていた。僕はあの瞬間を忘れることはないだろう。ランタンは巨大な雪崩の岩屑によって全滅し、300〜400人中生存者はわずか12人余りだった。家が崩壊し、それゆえ仕事も台無しになってしまったグアルブーとロプサンは、さらに両親、祖父母、いとこ、叔父と叔母、そして友だちが皆死んでしまったというニュースを知らされた。グアルブーとロプサンはうめき声を上げ、娘たちは泣き出した。とてつもなく重苦しい瞬間だった。
地震の日の夜は、ボルダーに立てかけて作ったシェルターのなかで少し眠ったかもしれないマーゴ以外は、誰も眠ることができなかった。ピンジュはグアルブーのキッチンで眠ったが、たぶんそれがいちばんいい選択だっただろう。地震が起きたとき日帰りハイキングに出ていてキャンプ用具を失ってしまったドイツ人女性が僕たちのシェルターに避難した。皆がボルダーに背中を持たせかけて寝袋の上に座り、なんとか楽な姿勢をとろうとした。僕はヘルメットをかぶったままだった。雪崩が襲ってきた場合に備えていちばん安全そうな場所に最も重要なギアを置いた。ほぼ一晩中雪が降った。夜中に何度か余震があり、そのたびに怯えた。誰も何も話さず、怯えながら雪崩の音に聞き耳を立てた。余震は小さなものからかなり激しいものまで数日間つづき、そのたびに皆が叫びながら雪崩の避難場所を探して走り、僕もそうした。結局別の雪崩は起きなかった。たぶん雪崩が起きそうな谷の傾斜地はすべて最初の地震で雪崩てしまったからだろう。
雪崩の翌日、エムリックと僕はグアルブーのロッジからさらにギアを回収した。ビバーク用テントが2つあり、それを草地にあるもっと大きなボルダーの後ろに張った。そこは安全そうで、実際に眠ることができるかもしれなかった。グアルブー一家とキャンジン・ゴンパのその他の住民は巨大なボルダーがいくつもある村の西側が安全だと判断し、共同キャンプを設営しはじめた。
地震直後のさまざまな出来事の日時についてはぼやけていてはっきりと覚えていないが、写真の日付を見るかぎり、雪崩のあと僕はキャンジン・ゴンパで4夜過ごした。27日、エムリックと僕は飲用水の確保に出かけた。村は山腹を横切るプラスチック製の大口径のパイプで、驚くほど遠くの川から水を引いていた。そして当然ながら地震と雪崩でパイプが壊れ、村には水が来なくなった。僕たちは水路をたどって谷を上っていき、まずはパイプが外れた箇所をつないでから、テープで継ぎ接ぎできそうな穴の数を数えた。かなり時間をかけたもののパイプは破損がひどく、道具と部品なしでは修理は不可能だとわかった。だからキャンジン・ゴンパの住民たちに知らせられるようにと、壊れた箇所を数えながら水源まで歩いていった。帰り道、たまたま細めのパイプに行き当たった。予備のパイプなのか個人の所有物なのかわからなかったが、このパイプはほぼ無傷だった。外れた数か所をつなぎ合わせると、うれしいことにふたたび村へと水が流れていくようになった。
僕はイリジウム衛星携帯電話を持って来ていた。言うまでもなく地震と雪崩のあとは非常に役立った。北米の家族や友人に電話すると、彼らは帰国の段取りをするのを大いに手助けしてくれた。エムリックとポーリーンもフランスに同様の電話をした。衛星電話を持っているという噂はすぐに村中に広がり、僕は村の電話ボックスとなった。救助活動に関する通話が優先で、キャンジン・ゴンパの住民がネパール軍に村内の負傷者の数や被害状況を伝え、救助と避難用のヘリコプターを要請した。それ以外は大半が村人から家族への電話で、僕は電話番号が書かれた紙切れを手に順番を待つ村人の横で、毎日数時間を草地で過ごした。山岳地帯での衛星電話の使用はそもそも厄介なうえ(ほんの数分で信号が途絶える)、予想どおりネパールのほとんどの電話番号は不通だったため、かなりじれったい作業だった。電話が通じると、会話はたいてい感情的に強烈なものとなった。親戚の無事を知ってうれし泣きする人もいれば、ランタンにいた全員が死亡したニュースをカトマンズの親戚に知らせ、悲しみに暮れて泣く人もいた。
キャンジン・ゴンパに最初のヘリコプターが到着したのは雪崩のほんの数時間後だった。地震が発生したとき日帰りハイキングに出ていたインド人女性を救助するために呼ばれた、私用ヘリコプターだった。女性は落石で脚を骨折し、夫は落ちて来たボルダーで死亡していた。彼女が最初に避難できたのは正当だろうが、残念なことにそのヘリコプターは彼女以外には誰も乗せなかった。ヘリコプターにはたしかにまだ余裕があったのに。26日の朝に着いた2機目のヘリコプターも私用機だった。エムリックとポーリーンと僕は100メートルほどはなれたところから見ていた。負傷者を運ぶものと思っていたのが、まったく無傷の3人の旅行者が荷物をすべて持って乗り込むのを見て唖然とした。この様子に怒りを覚えたのは僕たちだけではなかった。3人がヘリコプターのなかに入るやいなや、ネパール人の男たちが石や棒を拾ってヘリコプターに群がった。緊迫した状況で、石や棒がヘリコプターの回転翼に投げ込まれるのではないかと心底不安だった。数分後3人の旅行者はヘリコプターを降りた。男たちは石と棒を手放し、負傷者をヘリコプターへと運びはじめた。今回のネパールでの体験で僕が涙を流した数少ない瞬間のひとつだった。
エムリックが3人の旅行者に詰め寄ると、彼らはヘリコプターに乗るようにというガイドの指示にしたがっただけだと答えた。混乱した状況では何も考えずに誰かの指示にしたがってしまいがちで、それゆえ彼らに同情できなくはない。ただこういう展開になったのはとても残念だった。僕は石と棒を手にして抗議した男たちを全面的に支持する。だがヘリコプターのパイロットはこの事件にまちがいなく怖れをなし、その後ランタン渓谷に来るヘリコプターの数が比較的少なかったのはこのせいだと、あとになって聞いた。
どの時点で決断が下されたのかは分からないが、ある時点でネパール軍がすべてのヘリコプターの統制をとるようになった。それまでネパール政府に対するさまざまな不満はネパール人だけでなく外国人からも聞いていた。僕自身はネパール政府に関して意見できるほどの知識はほとんどないが、政府がすべてのヘリコプターを管理したのは非常に賢明だったと思う。これにより救助作業に階級差が反映されることがなくなり、ネパール軍はネパール人、外国人を問わず、早急に救助を必要とする人を無償で避難させた。
28日の午後の時点では負傷者全員がキャンジン・ゴンパから避難し、次の優先順位はエムリックとポーリーンとマーゴだった。僕にとってさえも十分ストレスである混乱のなかで、2歳半の娘の面倒を見るのがどれほど大変かは想像に難くない。午後5時45分ごろ、突然ヘリコプターの音が聞こえると、あっという間に着陸した。キャンジン・ゴンパで誰よりもネパール軍と連絡を取っていたグアルブーがエムリックとポーリーンに向かって走って来て、乗り込むようにと叫んだ。彼らは朝のうちに多少準備はしていたものの、あまりにも直前だったので、何もかも放り出してヘリコプター乗った。こうしてエムリックとポーリーンとマーゴはカトマンズへ飛んだ。
ピンジュと僕は29日の朝、3人の日本人クライマーと1人のネパール人男性とともにヘリコプターに乗り、キャンジン・ゴンパからいちばん近い比較的大きな町ダンチェに飛んだ。ネパール軍はここに避難所を仮設していた。その後数時間でネパール軍はランタン渓谷に数回ヘリコプターを飛ばし、僕の知るかぎり、避難希望者全員を避難させた。ダンチェからカトマンズへの道は地滑りで崩壊し、カトマンズへのヘリコプターを期待する大勢の外国人がすでに4日間待っていた。ピンジュも僕も来るかどうかもわからないヘリコプターを待ってダンチェに留まるのはあまり気が進まなかった。幸いにもたまたまキャンジン・ゴンパで友だちになり、一緒にハイクアウトする計画を話していたネパール人男性プラタップに出くわした。彼はカトマンズへ歩いて向かうところで、一緒に来ないかと僕たちを誘った。こうして、ダンチェに着陸した数時間後、僕たちは南に向かって歩きはじめた。ピンジュと僕とプラタップと(キャンジン・ゴンパで雪崩に遭った直後にランタンまで歩き、やがてランタンから避難された)ジム・キャンベル、そしてキャンジン・ゴンパで一緒だったカトマンズ在住のネパール人男性7人だった。
奇妙なことに、ダンチェからカトマンズへの徒歩による移動は、今回のネパール旅行での特別なものとなった。普段は道路を歩くのは好きではないが、車が1台も走っていないまれな状況でネパールの山地の村を歩き抜けるのは格別だった。しかし何よりもこの体験を特別にしたのは皆で一緒に歩いた仲間意識だった。僕たちは地震と雪崩という強烈な体験を共有し、家に向かっているという明確な幸福感が漂っていた。通り過ぎる村々でどこから歩いて来たのかを尋ねられた。カリカスタンに近づくと道路は長く緩やかなつづら折りの下りになった。僕たちは20〜30年前にはなかったこの道路を逸れ、何百年も使われてきたに違いない急な小道を降りていった。そして間もなく誰が言い出したわけでもなく、トレイルを走り出した。カリカスタンに着くと皆汗まみれで、脚が痛いと笑い合った。翌日キャンジン・ゴンパの寄せ集め難民集団は、ピックアップトラックの荷台とバスを乗り継いでカトマンズに到着した。トラックの運転手は対向車との距離を取るのが好きではないらしく、なんとほんの10分のあいだに2台の車のサイドミラーに突き当てた。
ダンチェからカリカスタンへと歩く途中、崩壊した建物をいくつも見た。だがランタン渓谷よりもずっと被害が少ないのに驚いた。ところがカトマンズに着くと、被害はますます少なくてびっくりした。カトマンズでも多くの建物が崩れ、街の各部で被害の差はあったが、キャンジン・ゴンパに比べたらまるでカトマンズは地震が起きなかったかのようだった。そしてもちろん、ランタン村の被害はキャンジン・ゴンパのそれとは比べものにもならなかった。
カトマンズで米国大使館に行き、インターネットにアクセスした。キャンジン・ゴンパでほんの数分間数人と衛星電話で話しただけだったが、すでにいくつかのメディアで僕の言葉が取り上げられていて驚いた。「伝言ゲーム」と同じで、僕に関するメディア上の情報はいくぶん不正確だった。少し「有名」になるということは、それが狭いクライミング界のこととはいえ、現実よりもすばらしい何かに持ち上げられたり、あるいはけなされたり、または他人よりも高い水準を求められたりすることを意味する。もちろん非現実的な中傷よりは非現実的な評価の方がうれしいが、それでも僕が他人を助けるために残留したというニュースの見出しはかなり気づまりだった。負傷者全員が退避する前にヘリコプターの座席を占領したくなかったという単純かつ合理的な事実の誤訳だったのだが、僕はミニヒーローか何かのように描かれていた。たしかに何らかの形で何人かの手助けをしたし、もちろん悪い行動はしなかったが、たいがいは自分のことで精一杯だった。カトマンズに着くと早急に北米に戻った。首のレントゲンを一刻も早く撮ってもらいたかった(幸い骨折はしていなかった)。
ネパール旅行の費用は何千ドルにもおよび、帰宅した僕はむち打ちを患い、1万ドル相当のクライミングとスキーのギアを失っていた(ウェアとキャンプ用具はキャンジン・ゴンパの住民の役に立つと思い、グアルブーのところに置いてきた。テクニカルなクライミング・ギアもヘリコプターのスペースを埋めるのに値しないと考えて置いてきた)。それでも、僕は死ななかったし、僕の家族も健在だ。家や仕事を失うことはなく、骨の1本すら折らなかった。僕は地震が起きたときにたまたまヒマラヤのネパール側にいた数千人のひとりに過ぎない。僕の体験はある誰かの体験よりも強烈だが、別の誰かの体験ほど強烈ではない。ただ明らかに生涯屈指の常軌を逸した体験だった。このブログでそのほんの一部でも伝えられただろうか。
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