無限に広がる可能性に思いを馳せて:エベレスト街道ボルダリング
4月下旬、ネパール中部で大地震が発生し、多くの命が失われた。そのちょうど一か月前の3月、ぼくはまさにネパールヒマラヤの心臓部にいた。地震のニュースを聞いてすぐに、そこで出会った現地の人々の顔と、周囲に広がる雄大な山々が脳裏に浮かび、胸が痛んだ。地震から4か月近くが経ったいまでもまだ行方不明者はいると聞くし、苦しい生活を強いられている人も少なくないはずだ。
ネパールヒマラヤの山中には、登山やトレッキング、それに付随する仕事を生業としている村人が多い。そもそもネパールという国にとって、観光資源は大きな財産だ。国全体が落ち着きを取り戻したらふたたびネパールを訪れ、そこに広がる美しい山々を眺め(もしくは登り)、この国の魅力を再認識することもまた、ぼくたちができるひとつの復興支援なんだと思う。
まぁ、「復興支援」などと勿体つけて語るまでもなく、ネパールに広がる山々は素晴らしい。ぼくたちアルパインクライマーにとって、ヒマラヤはまさに宝の山だ。雪や氷を抱いた巨大な山が無数に存在するのだから。でもそれだけではない。今回の旅では、この場所には無限の可能性が転がっているということにあらためて気づかされたのだった。
以下は、その4月にクリーネストラインに投稿されるはずだったものだ。そもそもは、「可能性を見出すこと」についてぼくが偉そうに語っていたのだった。そのタイミングで地震が起きたために投稿が遅れたが、あらためていまこのタイミングで投稿したのは、もう一度ネパールヒマラヤの魅力を皆さんと共有したいと考えたからだ。視点が完全にクライマーのモノになってしまっているのはご容赦いただきたい。
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ぼくたちは周囲に転がる石ころを登りながらエベレスト街道を歩いた。エベレストベースキャンプの手前にあるゴラクシェプという村では10日間ほど滞在し、エベレストを間近に眺めながらボルダリングをしていたのだけど、これまで興味すら抱くことのなかった世界最高峰は想像以上に大きく、その姿に畏敬の念を抱き、はからずもそこを登るぼく自身の姿まで想像してしまった(だからと言って実際に挑戦するという具体的なプランはないのだけれど……)。
おりしも「人はなぜ山に登るのか」というお決まりの命題に触れる機会があった。「え、楽しいからじゃないの?」といった低レベルな発言は何となくはばかられる雰囲気だったが、1924年にこの山に消えたジョージ・マロリーの「そこに山があるから」というあまりに有名な文句にしたって、山に魅せられた者であれば、目の前に誰も登っていない世界最高峰があったら挑戦するのは当たり前の行為のような気もして、それ以上の深い意味があるようなないような、まあ所詮その程度のものなんじゃないかって気がしないでもない。
すぐにそんな煩雑なことを考えるのも面倒くさくなって、ぼくは石ころを探してクーンブ氷河を歩きまわり(ここは決してボルダリング天国というわけではなかったが)、雪に埋もれたそのいくつかに目をつけ(積雪でまともに登れる岩は半減、それに寒い)、魅力的なラインの掃除をして苔を落として(このマニアックな作業はクライミングをしない人からすれば理解不能らしい)、トライを重ねて岩の上に立った(最高!)。
そんなシンプルな行為を繰りかえしながら気がついたのは、可能性を見出し、生身の体ひとつでそれを体現しようとするという行為そのものが、ぼくは好きでたまらないということ。そう、目の前に転がる石ころにも、後ろにドドンと鎮座するエベレストにも、可能性が存在する。その可能性というのは、マロリーのようにまだ誰も成し遂げていないものかもしれないし、自分自身の限界をプッシュするものかもしれない。ひらめきのようなものによって見出されるかもしれないし、ただなんとなく目に入ってきたものかもしれない。ひとつだけ言えるのは、そういう可能性たちを見出した瞬間に、目の前の対象は魅力的なものになる、ということだ。
たとえそれが裏山の小さな石ころだったとしても、そこには無限の可能性が存在する。そしてそれを登り切るまでのプロセスは、本質的には石ころもヒマラヤの高峰も同じはず。ぼくはただ、小さな石ころから大きな山までをすべて同等に捉え、そこから無限の可能性を見出せるようになりたい。また、それを具現化できる人間でありたいと心から願うのだ。
今回訪問した地域からほど近い場所に、カンテガという山がある。ぼくはこれまでその山の北壁に二度トライしているが、いずれも壁を登り切れずに敗退している。今回、数年ぶりにあらためてその壁を眺めた瞬間、「またあそこに戻りたいなぁ」という思いが湧きおこった。
それだけじゃない。ぼくがやり残した山のプロジェクトは世界中にたくさん残っているし、それぞれの山の麓には、その何倍ものボルダープロジェクトが転がっている。その一方で、家の近所に残してきたプロジェクトが気になってしょうがない。まったくもって忙しい。こうして今日も、「なぜ」という問いは後回しにされるのだった。
ここには、今回の地震に対するぼくの個人的な思いは書かれていない。ぼくは単純に山が好きで、登るという行為が好きなだけ。そして、ネパールという国にはガイドブックに収まりきれないほどの魅力、ぼくたちが経験すべき様々な可能性が秘められているということ。いまはただ一刻も早いネパールの復興を祈り、ふたたび彼の地を訪れることを切に願っている。