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ダグを愛した人たちへ

ダグを愛した人たちへ

By リック・リッジウェイ   |   2015/12/18 2015年12月18日

リック・リッジウェイ

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僕らの友人であり師でもあったダグ・トンプキンスがカヤック事故で命を失くしてから、僕らは世界中の何千もの人びとからお悔やみを受け取った。ダグ本人を知らずとも彼の仕事を知っていた人びとが喪失感を抱いているのは明白だ。

数日前、僕らはチリの町プエルト・ヴァラスにある〈トンプキンス・コンサベーション〉の本部で、チリ全土とアルゼンチンから訪れた人びととともにダグを偲んだ。彼の妻クリスは葬儀の冒頭で、ダグへのかぎりない愛について、彼らの野生への愛と野生の地と野生動物保護への深い献身について、そして2百万エーカーの土地を救い、チリとアルゼンチンの人びとだけでなく僕ら全員に寄付したことについてスペイン語で話した。彼女は尊厳と強さをもち、心の奥深くから溢れ出す威力で語った。ひと文、ひとパラグラフそれぞれに、彼女の内に存在するすべてを込めて。疲れ果てた彼女は一旦休止し、深呼吸したあと、語りつづけた。呼吸とともに、僕らがこれまでに見たことのない、さらに深淵なる力を取り戻しているかのように。

写真上:2008年、セロ・クリスティンの山頂のダグ・トンプキンス、リック・リッジウェイとイヴォン・シュイナード。写真提供:Conservacion Patagonica Archives

 

翌日、僕らはダグの遺体とともにチャーター機で南へ、コックランの町近くにあるパタゴニア国立公園プロジェクトへと向かった。雲が晴れはじめ、前方には雲の上から、パタゴニアの最高峰セロ・サン・バレンチンの山頂が覗いていた。クリスが操縦席へと移ると、親しい友でパイロットのロドリゴが近距離から山を旋回した。ダグにとっては壮観なる最後のフライトとなった。

パタゴニア国立公園は大規模な羊牧場の購入にはじまり、牧場の一部だったその墓地は、いま新しい公園ビルとインフラの一部となっている。僕らはダグをこの墓地に埋めた。出席した何十人もの従業員と友人たちがダグの棺を交代で運んだ。シンプルだが非の打ち所のない技巧で作られたヒノキの棺は、スタッフの数人が夜通しかけて作り上げたものだ。ダグの愛したハスキーの飛行機は美しい石造りのレストランの前に止められ、そこからの葬列は未舗装の道をたどり、ロッジを超えて、墓地へとつづいた。

クリスはもう一度気迫を見せ、ダグと集まったチリ人のチームに、心からの賛辞を述べた。ダグが墓に降ろされると、クリスは荘厳さと尊厳さとともに棺に花を捧げた。それから葬列の僕らはひとりずつ手のひら一杯の土を墓に投じた。

 

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2001年、チリのティエラ・デル・フエゴのダーウィン山系のイヴォン・シュイナード、クリス・マクディビット-トンプキンスとダグ・トンプキンス。写真:Patagonia Archives

 

その旅はラゴ・ヘネラル・カレーラの遠隔地での4日間のパドリングではじまった。2艘のシングルと2艘のダブルのカヤックに乗った6人旅だった。全員合わせると延べ100年以上の経験を有していたが、ダグと私が乗っていたのは気難しいラダーのついたダブルのカヤックだった。パドリングの3日目、激しさを増しつづける横風が困難な状況をつくり、欠陥のあるラダーのおかげでブローチングが避けられず、転覆した。

僕らは即座にその深刻な状況を悟った。風と水流が僕らを湖の中心へと流し、他のボートで先を進みながら目指していたポイントの向うに消えていた友人たちが、僕らの苦境に気づいているかどうかは知りようもなかった。僕らは生存には30分しかないことを知っていた。水温はおそらく3~4度で、ボートを立て直す4回の試みは失敗に終わった。風と波はバランスを維持するにはあまりに強く、ボートは浸水しすぎていた。結果的に泳ぐか、あるいは浸水したボートに居残るかの決断を迫られた。垂直の水流によってボートは湖の中心へと向けて流されていた。そこに留まることは不可能でないとしても、僕らはさらに困難な状況に追いやられる。

僕らはボートから離れることに決め、ポイントに向かって泳ぎはじめた。それは困難で、僕は流れに逆らって泳いでポイントに到達するのは無理だということに気づいた。時間もなくなってきていた。スピードは弱まり、救命胴衣は付けていたが、大きな波に押さえつけられた。ダグが見え、彼も同じ状況下にあるのだろうと推測した。僕は低体温症になり、溺れはじめた。数分間諦めたのち、また正気に戻った。すると40ノットから最大瞬間風速50ノット以上(のちにその日の気象観測によって確認された)もある逆風をついて、仲間がパドリングしてくるのが見えた。

2人乗りのカヤックに乗った友人ジブ・エリソンとロエンゾ・アルバレズが僕のところに到達した。僕はその船尾のループに捕まり、彼らはポイントの先にあるエディーまで向かい風のなかをパドルした。この波と風ではボートに上るのは無駄だった。僕は耐え忍んだ。これまで経験したことのないほどに。それは永遠に思えた。僕は岩の上に到達したことを認識するまで、ループを握った手の感覚に集中しつづけた。その時点で意識を失い、僕が次に覚えているのは焚き火の前に横たわっていたことだ。

ダグはそれほど幸運ではなかった。僕らのもうひとりの友人のウエストン・ボイル(イヴォン・シュイナードとパドリングをしていが、ダグを救助するために戻って来た)はダグを安全な場所へと導くために果敢な努力をしたが、風と波の威力にはかなわなかった。ダグはもう30分踏ん張り、バタ足をしたが、途中で意識を失った。ウエストンは岸へと苦戦しながらもダグの頭を水から出しておくため、みずからの命をも危険にさらした。彼らが到達するまで、ダグは低体温症に打ち勝つことができなかった。

 

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パタゴニア公園で安全と十分な餌を見つけるフラミンゴ。チリのアイセン地域のヴァレ・チャカブコ。写真:Linde Waidhofer

 

それからの日々は何日ではなく、何年も経ったように感じられる。僕ら全員が独立して掲げたのは「生存」というテーマだ。ことに、ダグラス・レインスフォード・トンプキンスはこれまで以上に僕らの内に「生存」しているという深淵なる気づき。彼はすでに僕らの後押しをし、「小さ過ぎる細部はない」ことを思い出させ、「まずコミットし、それから道を探る」ことを鼓舞してくれている。そして最初に忠誠を誓うのは美であるという認識を援助してくれている。美から愛が生まれ、愛をもってのみ美しいもの、そして野生のものを保護するための、彼の消すことのできない忍耐へと少しでも近づくという希望が抱ける。

ダグの墓に最後の土が投げ入れられたあと、弔問に訪れた年配だが力強そうな地元民の女性のひとりが墓地を囲む岩壁に登り、拳を握った腕を空へ掲げると、大声で「パタゴニア・シン・レプレサス!」と叫んだ。その場にいた全員がその挙兵に呼応した。*

「パタゴニア・シン・レプレサス!」
トーチにはまだ火が灯り、それはいまも明るく燃えつづけている。

 

 

 

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リック・リッジウェイはパタゴニアのパブリック・エンゲージメント副社長で6冊の本の著者。彼の登山と探検への情熱は1978年にアメリカチームの一員として達成したK2の山頂を含む世界中の旅へと彼を導いた。リックは1990年代初期、パタゴニアへの道中にてダグとクリス・トンプキンスを引き合わせた。

 

*「パタゴニア・シン・レプレサス」はスペイン語で「ダムのないパタゴニア」を意味し、その詠唱/スローガン/挙兵は自由に流れるパスクアとバケル川を保護する長期戦において最も頻繁に使われた言葉である。

 

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