ニックの正体とは
ラックからヘックスを取り出し、クラックの奥深くに押し込んだ。霧氷が厚く張り付いていて、クラックのエッジがわかりづらい。ヘックスが霧氷をグシャグシャと砕いて食い込む。念のためアイスアックスで叩きつけ、それから強くグイッと引っ張ると、ヘックスはあっさり抜けてしまった。
スコットランドの冬のテクニカルクライミングがはじまったのは20 世紀半ばだが、注目すべきは、70 年近く前に初登攀されたルートがいまも現代のクライマーからの尊敬を勝ち取っているという点。数多くの冬季登攀用のツールや技術も、ここで生まれた。そんな長く豊かな歴史のおかげでトラッドのミックスクライミングのメッカとなったスコットランドに、マイキー・シェイファーとスティーブ・ハウスと俺の3 人は巡礼に来ていた。スコットランドが特別なのはその歴史のせいだけではない。非情な天候と厳格なトラッドクライミングの倫理規範の組み合わせが、スコットランドの冬季登攀を世界に類を見ない独特なものにしている。
天候は残忍極まることもあり、冬場は一歩足を踏み出すとハリケーン級の風と横殴りの豪雨、それに視界ゼロという状況もざらにある。晴れた日にはなだらかな丘陵を通り抜ける心地よいアプローチも、突如として極端な悪天候に変わりうる。クライマーたちはアルパイン用のハードシェル、アイスアックス、クランポン、ゴーグルというフル装備で、緩い傾斜の草原をドシドシと進みながら「丘歩き」する。俺たちは3 人合わせてもこの丘歩きの技術はほとんどなく、アプローチでは定期的に突風になぎ倒され、何も見えない雪のミキサーのなかへと迷い込みそうになった。ベン・ネヴィスは平らな草原でも地図とコンパスに命を救われるような、世界でもごくまれな場所に思えた。初日、俺はマイキーと彼の携帯のGPS アプリを失くすことを懸念し、アプローチにもロープを使うことを真剣に考えた。ようやく岩場にたどり着いたが、楽しい難関が終わったわけではなかった。
スコットランドの冬季登攀には2 つの「シンプル」なルールがある。
1 つは遠目に壁が白く、冬らしく見えなければならないということ。それは「ニック」、つまり格好の的、と見なされる。もう1 つは、ボルトと懸垂下降用のフィックスアンカーの使用は厳禁というものだ。もちろん「ニック」が何であると見なされるかの定義は無限の議論をあおり、たいていの登攀倫理と同じように、ゲームのルールはスコットランドの冬のごとくグレーで曖昧だ。岩に張りついたベルグラと霜が厚いときはコンディションは最良と見なされるものの、プロテクションは非常に困難かあるいは不可能となるため登攀は遅々としたものになる。壁に雪がうっすらとだけ積もっているときは登る価値がないほど簡単と見なされ、その登攀体験を語ろうものなら地元のパブで喧嘩になるか、さらには延々とつづくネット炎上を引き起こしかねない。
強風のアプローチを終えた俺たちは、「ニック」がたしかに壁を白く厚いコーティングで覆っていることを認めて賛同し、「ザ・シークレット」の基部に立った。ナンバー・スリー・ガリー(急勾配の雪のクーロアールで、初登攀はなんと1895 年!)の上部にある威圧的なバーティカルクラックは、霧氷に覆われた60 メートルのバットレスを真っ二つに割っている。人目を引く場所なのでルートは決して秘密ではないのだが、その不気味な風貌と疑う余地のない難度のせいで2007 年まで初登攀は成されなかった。大半のクライマーは2 ピッチで登るが、1 つの巨大なピッチにリンクするのがよりシンプルに思えた。
少なくとも、基部からはそう見えた。
そしていま、手にしたヘックスとラックに残る4 つのヘックス、そして頭上にある幅の広いフィストクラックを見ながら、もしかしたら状況の目測を誤ったかもしれないことに気づいた。岩壁の霧氷はとくに分厚く、「ニック」はもはや笑い飛ばせるヤツではなく、むしろ一人前のスコットランド戦士で、その喊声は俺を怖じ気づかせた。そこで俺は登攀ペースをずっと落とすことにした。1 時間(いや、2 時間だったかもしれない)、アイスツールを駆使しながらじわじわと登りつづける俺に、「ニック」は巨大な白い槍を繰り返し振り下ろした。すべては10 センチの霧氷に覆われ、次のホールドを見つけるのは氷を擦っては試す危険なゲームだ。それでも最後のヘックスをセットするころには、「ギアをクラックがすぼまったところに押し込んでとことん叩く」というスコットランドのギアセットのファインアートを身につけたと思う。ついにルート上部の広々とした平地に着いたときには、60 メートルどころか600 メートルも登ったように感じた。
翌朝、ベン・ネヴィス上方の岩壁は抜けるような青空に白く輝いていた。風はそよりとも吹いていない。急いで岩場に走っていくこともできたが、俺たちにはわかっていた。「ニック」がそんなにご機嫌なときは、登る価値はないということを。
このストーリーの初出はパタゴニアの2016年スノーカタログです。本カタログはパタゴニア直営店で無料配布中。こちらからご請求もいただけます。