アングラーに非ざる者の手記
パタゴニアに長年寄稿する写真家のアンドリュー・バーは、最近才能ある生来のアングラーたちのグループとモンゴルへ旅しました。アングラーでない彼はそこでフライフィッシングと、写真に対する自分の情熱についての興味深い視点を発見しました。ここでご紹介するのは、とらえたイメージが魚の数よりも多かったことに感謝する彼が書いた、その旅からの記述です。
デーヴ・マッコイが僕を旅に誘うとき、その答えはいつもイエスだ。手放しで、疑う余地などどこにもない。それゆえ、モンゴルへのフィッシングトリップに参加しながら、何を釣るのかまったく知らずに到着したという人物は、僕が最初なのだ。一緒に旅するグループと落ち合ったとき、その面々については僕も知っていた。デーヴ(ベテランのフライフィッシングガイド)と彼の家族、マーク・ジョンソン(もう1人の生来のアングラー)と彼の息子、そしてフライフィッシングガイドであり環境保護活動家でもあるエイプリル・ヴォキー。釣りに関する知識が僕にまったくないことは、このグループのしょっぱなの交流で一点の曇りもなく明らかとなり、僕は自分の愚かさを、飲み干したビールグラスとともに、その最初の晩に置き去りにしたくてたまらなかった。銃でも乱射したいような気分だった。
旅はモンゴルの首都ウランバートルからはじまり、モンゴルとロシアの国境に向かってくねくねと北上するというものだった。冬毛の抜け変わる不機嫌なラクダ、なだらかな草原を跳ぶように走る四駆車、何本もの小さな川の横断、水嵩が増して濁り渦巻く大きな川の横断、そしてプスプスと途切れた音を発するプロペラ機が、その行程の一部だ。さらには最近の大雨で真っ黒になった川で、自分たちのボートが紅茶のカップに浮いているような感覚を味わいながら釣りをすることも。モンゴルで釣りをしながら生まれ育った地元のガイドは、この暗黒の水中のごくわずかな動きやかすかな赤いひらめきをもとに、何の問題もなく釣りをしている。やがてすぐに他の者たちも、それにならって釣りはじめる。だが、僕にはほとんど何も見えない。
「この1週間、僕は陰の存在として、この熟練アングラーたちを傍から撮影しつづけてきた。必要または適切である場合には自分でも釣りを体験するために挑戦しながらも、僕がここに来たおもな理由はイメージをとらえることにあった」
アングラーの誰にとっても、僕がアングラーでないことは一目瞭然だろう。テーパーだの、ティペットだの、バッキングだの、グレインだのが、僕をがんじがらめにする。まともなキャスティングすらできないのに、ダブルホールなんて事実上不可能。その代わり、僕の専門はカメラのうしろにある。僕はひどい状況で撮影するのが大好きで、土砂降りの雨のなかでカメラをつかむ。太陽にまっすぐレンズを向け、真逆光やひしゃげた地平線を撮るのが大好きだ。そして長い1日の終わりに、皆が疲れ果てた姿を写真に収めることも。
写真を撮ることのスリルとは、彼らがしているのが何であれ、それに没頭する人たちに囲まれるところからはじまる。そこで彼らが何を感じているのかを正確に記録したいという渇望から、感情移入するのだ。デーヴがこの旅に誘ってくれたとき、僕が重視したのはまさにそれだ。それが、僕がもっていたモンゴルへの唯一の地図だった。この1週間、僕は陰の存在として、この熟練アングラーたちを傍から撮影しつづけてきた。必要または適切である場合には自分でも釣りを体験するために挑戦しながらも、僕がここに来たおもな理由はイメージをとらえることにあった。
日が沈みかけた川のほとりで、僕は数日ぶりにはじめてカメラを置いた。最初の星が瞬きはじめ、夕方の涼しい空気が遠くの台地から注ぎ込む。この旅最後の夜の、最後の光だ。僕のブーツには足元の流れからはねた小さな水玉がきらめいている。僕はエイプリルから借りたロッドを使い、彼女が飛ばす指示に耳を傾ける。エイプリルは、魚の興味を引くために十分な距離まで僕がフライをキャスティングできることを、一心に願っている。僕の動きはぎこちない。あたりは真っ暗になり、大きな針についた特大の羽が僕の耳元を何度も何度もかすめる。エイプリルがどうしても僕に魚を釣らせたいことは、彼女が僕に期待しているほとばしるような自信からもよくわかる。けれども僕は川とその水を泳ぐ魚、そしてここでそれを釣る達人たちに、あまりにも多大な畏敬の念を抱いている。そこから退くべきだと感じた僕は、釣りを止める。そしてロッドを手渡すと、影のなかへとカメラを取りに戻る。エイプリルはひと呼吸するとラインのスラックを取り除き、ロッドを構えると、夜の微光に向かって完璧なバックキャストを飛ばす。
カシャッ。