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サンパチ:登りつづける者たちへの賛歌

サンパチ:登りつづける者たちへの賛歌

By 横山 勝丘   |   2017/09/04 2017年9月4日
Badal PeakからK7 Westへとつづく長大な山稜。写真:増本亮
Badal PeakからK7 Westへとつづく長大な山稜。写真:増本亮

2017年8月9日午前9時10分。ぼくとパートナーの長門敬明は、パキスタン、カラコルムヒマラヤの中央部に位置する標高6,615メートルのK7 West山頂に立った。「立った」というよりは「しゃがみ込んだ」というほうが正確だったかもしれない。ほんの少し前から、足元は雪庇との境界線も見極められないほどの濃いガスに覆われていて、いま立っている数歩先が空間であることを手探りで確認するのがやっとだった。

爆発するような喜びに包まれるか、もしくは制御の利かないほどに落涙でもするかとの期待はものの見事に裏切られた。これからはじまる標高差2,400メートルにもおよぶベースキャンプまでの道のりを思うと、山頂での時間さえも妙に落ち着かなかった。簡単な握手をして互いに写真を数枚撮っただけで、ぼくたちは5分で山頂をあとにした。

ぼくが登山に興味をもって家の近くにある丹沢の山を歩きはじめてから、今年でちょうど30年になる。8歳のときだった。当時から、「いつの日かヒマラヤに登りたい」という漠然とした憧れを抱いていたのを覚えている。深い緑に覆われた低山を、頭のなかで無機質な岩と雪と氷だけのヒマラヤに置き換えて、はるか彼方にそびえる山頂を目指した。年月は経って大学生となり、ようやく憧れの本格的な雪山に足を踏み入れた。だが、海外の山に行けるようになるには、まだ数年の準備が必要だった。はじめて氷河におおわれた山を目にしたのは2002年。ちょうど15年前のことだ。フランス・シャモニを訪れたぼくには、周囲に広がる山のすべてが輝いて見えた。

最初のヒマラヤ登山は2006年。それから何度もヒマラヤを経験した。けれども、成功と呼べるものはひとつもなかった。ヒマラヤに通いはじめる前からアラスカやアンデスには何度も足を運び、成功と呼んでも差し支えない結果はいくつも残していた。そこでの経験から芽生えた自信が、より大きな山での登山を後押ししたが、それがヒマラヤではものの見事に打ち破られつづけた。良いのか悪いのか、ぼくは挫折という形でその失敗を引きずることはなかった。だがいまから7年前に、それまで突っ走ってきた道のど真ん中で「一瞬」立ち止まり、「半歩」引き下がり、そして方向を「少しだけ」変えるという転機が訪れた。

すこし専門的な話になるが、一口に登山と言ってもそこにはいくつものジャンルがあり、また求められる能力も多岐にわたる。ぼくはそれまで、雪氷に覆われた急峻でテクニカルな岩壁を短期速攻で登り切る、という登山に焦点を当てていた。そういう類の登山にひたすら打ち込んでいたのだが、少しその行為自体に疲れてはじめていた。そしてそこから少し離れて、しばらくのあいだ岩登りだけをしようと決めた。大それた錦の御旗など何もなく、「雪とか氷ばかり登るのって寒くて辛い。岩登りはもっとお気楽で楽しそうだ」という、単純な理由からだった。

高所順応は周辺の6000メートル峰で行なった。写真:長門敬明
高所順応は周辺の6000メートル峰で行なった。写真:長門敬明

2012年にはじめて訪れたパタゴニアはまさにそれがきっかけだったのだが、まさかそんな思いつきの登山が、その後のぼくの生活を変えることになるとは思いもよらなかった。一瞬のうちにパタゴニアを気に入ってしまったぼくは、以降、毎年正月過ぎから2か月間の南半球生活を送ることとなった。パタゴニアでは、もっぱらフィッツロイ山群全山縦走、通称「フィッツトラバース」を活動の中心に据えた。パタゴニア社のロゴマークでもおなじみのこの印象的な稜線は、純粋にそのクライミング自体がむずかしいだけでなく、安定しない天候や山のコンディションの悪さなど、ネガティブな要因もあいまって、いまだにまともなトライさえさせてもらっていない。

パタゴニアでの登山を経験してみてはじめて、それまでに積み上げてきたはずのぼくの自信が、いかに脆い土台の上に乗っているだけのものなのかがクリアになった。クライミング能力も、長時間動きつづける体力も、何もかも蹴倒すような圧倒的なパワーも、そしてどんな状況にも対応できるだけの精神力も、すべてが足りていないということに気づかされた。そして、それらひっくり返しようもない事実をチャンスとして認識できたのは幸運だった。フィッツトラバースを目標に登山に取り組むなかで、日常生活でもつねに視界の先にそれを認識するようになった。そしてそれにより生活にハリが生まれ、クライマーとしての成長を実感すると同時に、さらに大きな目標をも手に入れることになる。

その目標とはなにか。それこそが、ヒマラヤでの成功だった。かつては、ひとくちにヒマラヤといっても雪や氷に覆われた部分にしか目がいかなかった。けれどもパタゴニアのような岩山をそのまま高い標高にスライドさせてみると、ヒマラヤにはそれまで気づかなかった魅力的な可能性がいくらでも残されていた。さらにそれだけでは物足りず、ぼくはもう一歩踏み込んで思いを巡らせた。これまでに培った登山全般にわたるノウハウ、体力、雪氷クライミングの技術。それに加えて、ここ数年で得た岩を登りつづける能力。そのどれもが求められる登山をしたい、と。

ルート下部は標高差1800メートルにもおよぶ急峻な岩稜をたどる(5.11c/ A2)。写真:横山勝丘
ルート下部は標高差1800メートルにもおよぶ急峻な岩稜をたどる(5.11c/ A2)。写真:横山勝丘
岩稜上では何度も行き詰まり、そのたびに懸垂下降を強いられた。写真:横山勝丘
岩稜上では何度も行き詰まり、そのたびに懸垂下降を強いられた。写真:横山勝丘

登山はじつにバラエティ豊かな活動だ。標高や気象条件によって山はめまぐるしく変化するし、そこに人間の活動が関わってくると、アイディアひとつで登山の難易度や面白さもすべてが変わる。さらなる困難や冒険性を求めるとすれば、山そのものの選択のみならず、登山に対する取り組み方こそがポイントとなる。これまでの経験のすべてが求められるような登山。それを想像したときの興奮は、山に心を奪われた8歳のときよりも、はじめて海外の山を目の前にしたときよりも大きかったかもしれない。そうした興奮のすべてに共通するのは、目の前に広がる景色に秘められた無限の可能性。だがこのときの頭のなかには、すでに具体的なイメージが存在していた。

2014年、そんな思いを体現すべく向かったのが、カラコルムヒマラヤのK7だった。標高7,000メートル近いこの山に理想的なラインを見出してそれをトライしたが、ヒマラヤのジンクスを打ち破ることは叶わなかった。だがこれは確実に達成できる課題だと直感した。成功に導くためのキーワードも明白かつ単純だった。「いまつづけている登山を、さらに強度を上げて継続すること」 パタゴニアに通いつづけるなかで、ポツポツと成果も出はじめた。国内での登山も、目標をより具体的にシミュレーションしたものとなっていった。

話は突然変わるが、家族の存在もまた、ぼくのような登山をつづけるにあたって重要なカギを握る。大事な家計を切り崩し、家のことをすべて妻に託し、自分自身の楽しみだけのために、命を危険に晒しにいく。それなのに、成功したからといって現実的な見返りは何ひとつ約束されてはいない。そんなことをやらせてくれるだけでもありがたいのだが、くわえて「笑顔で送り出してくれる」 そしてそれがどれだけ大切か身に沁みる。家族の全面的なバックアップは、ぼくたち自身の行動に「間違ったことはできない」というストッパーとしての役割を果たし、後ろめたさをもたずに「精一杯楽しむ」ことに没頭させてくれる。さらにいえば、登山というのは不在にしている期間だけを指すのではない。頭のなかにそのアイディアが浮かんだ瞬間からはじまっている。登りたい山があれば情報を集め、ギアを吟味し、旅の準備を進める。付け焼刃では登れない。ぼくはそんな登山がしたい。その成功のためには、日常のトレーニングを最大限こなして自己を高める必要がある。家族の理解がなければ実行不可能なのは明白だ。今回、ベースキャンプに集ったのはぼくを含めて4人。パートナーの長門に加えて、別チームとして佐藤裕介と増本亮が合流した。パートナーを変えつつ一緒に登ることの多い4人だが、偶然にも全員が1979年生まれの既婚。佐藤とぼくには、ともに2人の子どもがいる。登山を中心とした生活は全員に共通した生き方だが、家族は心配しながらも最大限の応援をしてくれるというのも、ぼくたちがここまで突っ走ってこられた大きな要因のひとつだろう。

登攀三日目の夕刻。Badal Peak山頂直下を登る長門。写真:横山勝丘
登攀三日目の夕刻。Badal Peak山頂直下を登る長門。写真:横山勝丘
Badal Peakから先は一転、長大かつ複雑な雪と氷のリッジをたどる。写真:長門敬明
Badal Peakから先は一転、長大かつ複雑な雪と氷のリッジをたどる。写真:長門敬明

2017年はいつものパタゴニアで幕を開けた。連日の悪天で目標の登山はできなかったが、体の調子は悪くなかった。この流れでK7を再訪したかった。春になって帰国し、すぐにトレーニングを再開した。あえて意識づけをしなくとも、モチベーションさえあればそれを補うどころか凌駕するだけのエネルギーを生み出せることに、あらためて気づかされた。クライミングと有酸素運動をバランスよくこなすことを心がけた。朝から晩まで動きつづけた日の翌日にも、クライミングに出かけた。いつしか体は、10日ほど連続して動きつづけても、翌日クライミングに出かけられるだけのエネルギーを残せるようになっていた。40歳を目前に控えてなお、「人生最高の体力」と公言できる事実に心躍った。

日本を出てから10日後、ベースキャンプにたどり着いた。3年ぶりとなるK7は相変わらず大きく聳え立っていたが、威圧はされなかった。好条件さえ掴めれば成功の可能性は高いと思った。そもそもの登山期間が短く、かつ町での待機を数日間余儀なくされたため、ベースキャンプ滞在はたったの3週間。はやる気持ちを抑えて高所順応に向かったが、毎度のごとく雪に降られてそのたびに敗退した。それでも焦りはあまりなかった。本番前日、夕日に染まる山々を眺めていると、不思議と落ち着いた気持ちになった。かつて、前夜はあらぬ不幸な結末ばかりが脳裏を横切り、それが引き金となって一睡もできぬまま当日の夜明けを迎えたものだが、この夜は静かに目を閉じることができた。

ひとたびクライミングがはじまってしまえば、あとは単純な行為をつづけるのみ。すなわち、登るだけだ。毎日夜明け前から準備をはじめ、日暮れ過ぎても寝られる場所を求めて動きつづける。この15年間ひたすら繰り返してきた行為は、体に染みついてしまっているので動揺はしない。ぼくたちは、それを6日間繰りかえした。その結果が、未登の長大な南西稜からのK7West登頂、というわけだ。

来し方を振り返る。Badal Peakからの雪稜は複雑極まりない。写真:横山勝丘
来し方を振り返る。Badal Peakからの雪稜は複雑極まりない。写真:横山勝丘
恐怖の時間。リッジの最後は巨大なセラックの下を通過する。写真:長門敬明
恐怖の時間。リッジの最後は巨大なセラックの下を通過する。写真:長門敬明

無事にパキスタンから帰国し、居間でコーヒーを片手にこの原稿を書いているいまも、脳ミソの大部分は今回の登山で占められている。登山のあとはそうやって余韻に浸る。それがまた最高に贅沢な時間だ。ただ、これまでの登山と今回と、明らかに違うことがひとつだけある。これまで世界中のさまざまな場所で登山を実践してきた。北米大陸最高峰のデナリでは、誰もやったことのない継続登攀にトライし、8日間かけて初登攀した。ハードだが、笑いの絶えない時間でもあった。カナダ最高峰のローガンにある未登の南東壁では、襲いかかる不安を何とか丸め込んで初登攀をものにした。そんななかでも、印象的な瞬間というのは何度も訪れた。そしてあのときの重圧とそれにともなって手にしたものは、いまではぼく自身の一部にもなっている。パタゴニアでの登山は、楽しくもハードなロッククライミングのピッチは言わずもがな、そこで目にした光景までもが鮮明な記憶として残っている。

明らかに違うこと。それは、ぼくたちがK7で繰りひろげた登山からまだ10日ほどしか経過していない。にもかかわらず、「楽しい」という記憶が一切ない。かろうじて思い出せる唯一の楽しみは、毎日行動を終えてテントに入り、そこで湯を沸かして作るインスタントスープ。残念ながらパタゴニア プロビジョンズの贅沢なそれではなく、一袋数十円の安物だが。この登攀はいったいどれだけ切羽詰まっていたのだろうと回顧する。朝から晩まで、ただひたすら動きつづけたことしか記憶にない。クライミング中に眺めたであろう美しい山々の光景や、はじめてヒマラヤの山頂に立った感激や達成感。そのどれもが、バッサリとハサミで切り取られてしまったかのごとく抜け落ちている。だが、あの6日間は素晴らしい時間だった。それだけは感覚が理解している。

こう思うこともある。今回の登山は、ぼくの登山人生におけるひとつの集大成である、と。それも理解できなくはないし、登攀中あれだけぼく自身に余裕がなかったことを考えれば、生涯最難という言葉も脳裏をよぎる。だが冷静に考えると、技術的には極限にハードだったわけでもなければ、結果的には登山後に動けなくなるほど憔悴していたわけでもない(その証拠に、ぼくは下山翌日から3日連続で、ベースキャンプ周辺に転がるボルダーを触りつづけた)。裏を返せば、もっとハードな登山がぼくを待っていると考えることさえできる。

ぼくたちは、登山をはじめてからいまに至るまで、ただ登るという行為をつづけてきただけだ。つづけてさえいれば、いつかは実を結ぶ成功だったのではないかと思う。ぼくのこれまでの登山を思いかえせば、理路整然と明確な目標を掲げてそれに取り組んできたわけではなく、登りたい山を登りたいように登ってきただけにすぎない。だけどそんなバラバラの行為をひとつに収斂させるような登山を願ってきたのも事実で、その思いを具現化できた今回の結果は素直に喜びたい。いまは、焦って感動を呼び起こさせる必要はどこにもない。この結果には、これまでの登山人生のなかで積み重ねてきたさまざまな思いや時間そのものまでもが詰まっているのだと解釈している。これからゆっくりと時間をかけて、この登攀の意味を理解していけばいい。

ベースキャンプ滞在中、天気は決して良いとは言えず、厚い雲の下でジャケットを着込んで過ごす時間も多かった。そして太陽は思い出したように顔を出してぼくたちを暖めてくれたかと思えば、カンカン照りの灼熱地獄をも味わわせてくれた。そんな気まぐれな太陽に翻弄された思い出から、ぼくたちは登ったラインを「Sun Patch Spur(サン・パッチ・スパー)」と命名した。だがこの名前のいちばんのキモは、ぼくたち自身のビバ38歳宣言であるということをお忘れなく。

4日間の長い登攀の末にK7 Westの山頂に立つ長門(左)と横山(右)。写真:横山勝丘
4日間の長い登攀の末にK7 Westの山頂に立つ長門(左)と横山(右)。写真:横山勝丘
ルート全体図。Badal Peakから先は簡単に見えるのだが……。写真:長門敬明
ルート全体図。Badal Peakから先は簡単に見えるのだが……。写真:長門敬明
じつはK7 West山頂までの稜線の総距離は3キロメートルにもおよぶ。写真:横山勝丘
じつはK7 West山頂までの稜線の総距離は3キロメートルにもおよぶ。写真:横山勝丘

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