不朽の偉人
長年にわたり僕はブルース・ヒルと幾度となく電話で会話していた。それはたいてい奇妙な時間帯で、内容は照り焼きソースのレシピ、イクラ、環境保護キャンペーン戦略、ギターのテクニック、家族のこと、個人的な問題や挑戦など、重要なことから些細なことまでさまざまだった。受話器を取ると彼がいつでも英知と慈悲、そして彼特有の親切さでそこに存在するという事実が、僕に確固たる安心感をもたらしてくれた。
とりわけ辛いことがあったとき、彼はそこにいて、陽気でいたり、共感したり、アドバイスをくれるタイミングなどを心得ていた。彼は「ここにおいでよ、魚を釣って食べよう。いまそこを出れば明日には着くから。夕食を準備しておくよ」と言って、ヒル家のソファーを提供してくれた。僕は何度もそこで寝た。
昨日目覚めたとき、僕はこれまで何度もそうしたように、旧友のブルースに電話をしたいと思った。そして最終的に、彼がいない現実に襲われた。
僕がブルースと知り合ったとき、彼はブリティッシュ・コロンビアの野生のスチールヘッドを保護するキャンペーン、そして世界最大の手付かずの温帯降雨林であるキトロープを破壊から救うために絶え間なく、またときに必死に働く、環境保護の世界ではすでに巨大な人物であり、伝説的な存在だった。ハイスラ先住民の兄のような存在のジェラルド・エイモスとともに、彼は聖なる源流でロイヤル・ダッチ・シェル社を食い止め、スキーナ川からエンブリッジ・パイプラインとその原油を締め出し、ごく最近ではペトロナス社がスキーナ川入江の重要なサーモンの生息地を破壊するのを食い止めた。
父親として、僕はつねに僕を助けてくれた先輩と子供たちが時間を過ごせるよう努めてきた。おそらくそれは自分が怠惰なせいだろうが、先輩たちの英知が子供に影響を及ぼすことを期待してのことだ。4年前、僕はスカイラとウェストンを連れてブルースとジェラルドに会いに行った。僕らは古いオヒョウ船の『サンクレスト号』を引いて行き、インサイド・パッセージを探求しようとした。釣りとハイキングとスノーケリングをし、素晴らしい食事を作り、天気と戦い、エビとカニを集め、笑い、歌った。僕らは生涯の思い出を作り、子供たちは愛する世界を守るために何が必要なのかについての貴重な教訓を、早い時期に得た。
ブルースを思うとき、僕が思い描くのは、その旅でギターを奏で、子供と歌う彼だ。ヒル家の伝説的な台所のテーブルで、友達やあらゆる種類の活動家の注目の的だった彼を。数え切れない長距離運転と船旅、そして釣りの旅とそれらを満たしてくれた彼の物語を。ブルースと、共通の友人のイヴォンとともに、サラダボウル一杯のイクラを一気に食べたことを。彼の生涯の仕事を。敵をやっつけ、衝突しながらも環境保護の人間的な面を忘れない方法を教えてくれたことを。彼が怒り、逆上したあと、それを手放し、笑い、抱擁したことを、思い出す。
ブルースはこの世を去った。だが消え去ったのではない。いま地方公園として永久に保護された手つかずのキトロープ、源流から海まで美しく流れるスキーナ川、レル島のサーモンで一杯のアマモ場は、すべて彼の仕事の記念碑としてそびえ立つ。彼の英知と教えは世界中の次世代のタフな環境保護活動家、シャノン・マクファイルス、グレッグ・ノックス、ケイトリン・ヴァーノンズたちを活気づけてきた。彼の存在は妻のアンと、惑星の保護という猛烈な忠誠を抱きながら彼の足跡を辿る2人の子供アーロンとジュリアからあふれ出ている。そしてそう、彼の魂は駆け出しの活動家として戦いを受け継ぐ僕の子供、スカイラとウェストンにも影響を及ぼした。先週末、僕らの地元の海で囲い網のサーモン飼育に抗議するための船団に参加したとき、僕の子供たちにも彼の魂が見受けられた。おそらくそれが、僕がブルースに電話をしたかった理由だろう。
彼は僕らとともにあり、野生を残す野生地のどこにでも存在する。北部の荒ぶれた準備万端の保護活動家の魂に、友人や家族とともに作り、分かち合う食事に、彼を知ってより良い人間になりたいと思う何千、でなければ何百もの人びとの親切さと寛大さに生きつづける。僕は受話器を取り、彼に電話し、彼の大きな笑いと心地よい声を聞くことができないという事実に直面しつづけなければならないが、彼の友人であったことを幸せに、そして名誉に思う。偉人は永久に生きつづけるのだから。
本記事は2017年9月21日、ディランのブログに初出。