ブロック・パーティー:待ちに待ったシエラの雪を祝して
1 月23 日午前3 時、暴風をともなう激しい雪が地面を打ちつける音で目が覚めた。ジャケットを羽織って外に出ると、5年近くつづいたカリフォルニアの雪不足がついに終わったことがわかった。この20年にマンモスの自宅周辺で、というよりも、あらゆる場所で見たなかで最も深い雪だった。48 時間ほぼ途切れなく吹き荒れた雪は120 センチを超え、そしていまさらにパワーアップしたようだ。終日かけて雪から掘り出したトラックも隣家も、雪のなかに消えていた。一面真っ白になった世界であまりにも激しく降る雪の重さが、新たに迫る重力のように体にのしかかるのを感じた。
翌朝、マンモス・マウンテンのスキーパトロールは24 時間で84 センチ、この4日間で195センチの降雪を記録し、1 月4 日以来連続で降った460 センチをさらに更新したと伝えた。雪はその後1 週間中断し、そのあいだは毎日除雪作業に追われた。そして2 月2 日にふたたび降りはじめ、ようやく月末に天候が回復するまで、さらに406 センチの降雪を記録した。2 か月足らずでマンモス・レイクスの町には約10 メートルの雪が降ったということになる。これはベイルの山腹で(良好な)1 シーズン中に体験する積雪量だ。だがこの雪はコロラドのパウダースノーとは異なり、氷河が上陸したように重たい。スキー場や高山ではさらに多くの雪が降り、風に運ばれた雪は雪崩のリスクを高めた。
こうしてあっという間にシエラは蘇った。雪不足は解消だ(と願う)。1 月と2 月はスキーをした回数よりも雪かきをした回数の方が多かったが、それも気にならなかった。そもそもこうあるべきなのだから。起きて、雪かきをして、着替えて、また雪かきをする。スキー場では吹雪に負けまいと従業員が同じ作業を必死でつづけていたが、結局はリフトも塔もケーブルもすべては雪に呑み込まれた。
ようやくバックカントリーに足を踏み入れられる状況になると、そこはまったくの新世界だった。地形の輪郭は雪に覆われて肉感的に膨らみ、あらゆる角は丸みを帯び、縁はヤスリをかけられたように滑らかだった。巨大な断崖は消え、深いクーロアールは広々としたボウルに変わり、山の常識をくつがえすような新たな滑降ラインと可能性を生み出していた。
はかないタイトロープで登るシエラ・ネバダ山脈東側の4,000 メートル級の山頂から、あまり知られていないレイク・タホの湖面レベルまで、どこでも滑ることができた。
スキーそのものは雪不足の数年間で変わっていた。最新ギアにより、多くのスキーヤーがアルパインツアースキーの可能性をもつようになり、辺鄙な秘密の場所は、ガイドブックやソーシャルメディアによって誰にでもわかるようになった。3 月になって空が晴れ上がると、シエラは通常の嵐のあとの賑わいどころではなかった。それは4 年分の抑圧された欲望の解放であり、さらに超軽量ギアとインターネットが拍車をかけていた。
マンモス在住の写真家クリスチャン・ポンデラとタホ在住のジム・モリソンは、他の大勢同様、マンモス以南の高峰に熱狂し、おそらくシエラ・ネバダ山脈最大のマウント・ウィリアムソンのジャイアント・ステップスを含む大滑降を、意気揚々と繰り返した。9 歳の子供がスコー・バレーのマッコンキーズ(イーグルズ・ネスト)を滑り、マンモスのガイドであるマーク・シェルプは、どう見ても900 メートルの花崗岩にしか見えないタイオガ・パスの岩壁で、威圧的かつ非現実的な2 本のラインを単独滑降した。メンデル・クーロアールでスノーボードをする者もいた。ワイオミングから車を走らせてきたジェド・ポーターは、伝説のレッドライン・トラバースを再現した。これはマウント・ホイットニーからマンモスまで全長200 キロメートル、標高差24,400 メートルを、登高および滑降するツアースキーのルートで、1980 年代初期に故アラン・バードとトム・カーターとクリス・コックスが開拓したものである。ポーターは16日間の遠征で25 の山を滑降した。
憧れのライン、有名なライン、長いライン、急斜面のライン。何と呼ばれようとも、そのすべてを誰かが滑った。しかし名前も回数も斜度も、シエラのスキーを特徴づける要素ではない。ギアは新しくなり、知識も増えたとはいえ、俺たちはいまなお1970 年代後半から1980 年代前半にバードとその仲間たちが生み出した、享楽的なゲームを楽しんでいるのだ。足に翼をつけて、ジョン・ミューアの広大な至福の聖堂を滑る。ここにはスコアカードなど存在しない。ここでは誰もが勝者なのだ。