脱出、バフィン島のスチュワート・バレーにて
心臓の鼓動に合わせて、右足がズキズキと痛む。何かがおかしいのはわかっているが、いまは無視するしかない。足は靴のなかでパンパンに腫れ、脱いだら最後、もう一度履くことはできないだろう。でも、愚痴るつもりはない。足はまだ動く。前のピッチで濡れたチムニーから5 メートル下のレッジに滑り落ちたとき、もっとひどい怪我を負うこともあり得たのだ。
左側にはスチュワート・バレーの巨大な花崗岩壁が見える。霜に覆われたチムニーは内側の奥深くで固い氷と化して隙間を満たし、俺たちがそれ以上奥に入るのを塞いでいる。かれこれ30 分になるが何の変化もない。ロープの染みは目の高さから動いていない。頭上から聞こえてくる物音だけが、激しさを増している。
「前向きでいろ」と自分に言い聞かせる。だが効き目はない。すぐに現実が俺の情けない自己暗示に取って代わる。地球上有数の辺鄙な場所で完全に行き詰まり、俺たちの居場所を知る者すらいない。バフィン島のこの一角に来て約2 か月になる。海氷が溶けたらボートが迎えに来る予定だが、それは今週末かもしれないし、あるいは今月末になるかもしれない。
このクライミングは俺たちがこれまでにやったルートとは顕著に異なる。暗く湿って苔が生え、どちらかといえば洞窟探検をしているようだ。プロテクションがほとんど取れないワイドクラックしかなく、そこに体を押し込むが、容赦なくハードでちっとも進まない。
目下のところ、ショーンはそんなクラックのひとつに体を食い込ませ、垂れ下がるロープの動きから察するに、どうやら立ち往生しているらしい。このピッチのはじめにかなりチムニーが狭くなり、ショーンはプロテクションなしでフェイス沿いの極めて危ういムーブに挑むか、狭いクラックにぎりぎり体を押し込んで20 メートル上まで登るかの選択を迫られた。後者を選んだショーンは、チムニーから抜け出すほんの50 センチ下で、いままったく身動きが取れなくなっている。
俺はあらゆる選択肢を並べるが、実際にできることは何もない。たとえ助っ人とフィックスロープがあったとしても、ショーンを脱出させる方法は思いつかない。かつてクライマーが膝をクラックに詰まらせて、オリーブオイルを使って抜け出させたという話を読んだことがあるが、この方法も現状ではショーンをクラックのさらに奥へと押し込むだけだろう。そもそもどうやってここでオリーブオイルを手に入れるっていうんだ。
俺はまったく無力だ。
絶望の瞬間は俺に、スチュワート・バレーまでスキーを履いて海氷の上を進んできたときのことを思い出させた。あのときの俺は、あまりにも美しい景色を前にこう思ったものだ。「万一死ぬことになっても、ここなら死ぬ価値がある」
ますますやけくそになるショーンの荒い息づかいが聞こえる。クラックから抜け出す唯一の術は、いまいる場所から撤退し、登ったとおりに下りてくることだけだ。
突然ロープがチムニーの内側に後退しはじめた。それから15 分後、ショーンの体が解き放たれると、ためらうことなく、プロテクションなしで狭いクラックの外側の繊細なムーブに取り掛かった。
ようやく、俺たちはふたたび軌道に乗った。
バフィン島で2 か月を過ごしたあと、ニコラ・ファブレスとショーン・ヴィラヌエバ・オドリスコールはパタゴニアのビッグウォールへと南下。岩壁で19 日間立ち往生したあと、無事にヨーロッパに戻り、世界で最も美しく最も辺鄙な場所への次の進出計画を立てている。
このストーリーの初出はパタゴニアの2018年Januaryカタログです。