クリーネストライン


ベースキャンプから北壁を望む 写真:鈴木 啓紀
ベースキャンプから北壁を望む 写真:鈴木 啓紀

ハンター北壁へ

By 鈴木 啓紀   |   2019/08/14 2019年8月14日

ランディングポイントの上空で、私たちを乗せたセスナは大きく旋回し、ガスの切れ目から目指すハンター北壁が視界に大きく迫ってくる。大石明弘と私はチームを組んで、これからこの壁にトライしようとしている。

アラスカ、デナリ山域のカヒルトナ氷河に聳え、圧倒的な迫力で氷河を見下ろす標高差1,200メートルの巨大なミックス壁、ハンター北壁。この壁の真ん中を貫く「ムーンフラワー・バットレス」は北米を代表するアルパインクライミングの課題だ。いまでこそアクセスの容易さもあって「人気アルパインルート」と呼んで差し支えない課題ではあるものの、ハンター北壁は、その美しさ、巨大さ、傾斜の強さ、そして先人たちの数々のストーリーにより、私にとって、そしておそらく他の多くのクライマーにとって、いまなお心を揺さぶる一大課題でありつづけている。

10年ぶりにこの壁を目にした瞬間、「これはやばいかも」と直感した。予想はしていたものの、壁は大量の新雪をまとって驚くほど真っ白で、コンディションはいかにも厳しそうだ。壁に積もった新雪はクライミングを一層困難にし、雪崩のリスクを増加させる。お互いの事情をすり合わせた結果、この氷河のベースキャンプに滞在できる日数はもともと最大で9日しかないうえに、フライト待ちで貴重な1日がすでに潰れていた。この雪が落ち着くのを待つだけの余裕はないかもしれない。離陸前に耳にした天気予報もなんとも微妙で、私たちはどうにも不安な心持ちで氷河に着陸し、8日間を過ごすベースキャンプを設営した。同じくハンター北壁を狙っている隣のフランス人クライマーから仕入れた詳細な気象情報によると、この先1週間の天気は控えめにいっても楽観できるものではなかった。

ベースキャンプより望むハンター北壁 写真:鈴木 啓紀
ベースキャンプより望むハンター北壁 写真:鈴木 啓紀

潤沢なビールの在庫を消化していると、夕方過ぎから激しい降雪となった。シュラフに潜り込み、雪がテントを叩く音を聞いていると、「壁に取りつくこともできず、日本に帰る羽目になるかもしれない」という恐怖が胸を締め付ける。大きな登山に敗退のリスクはつきものとはいえ、過去数回のヒマラヤで私は敗退を繰り返してきた。「今回もだめなのか」という思いは、自分のプライドや自意識を根本から揺さぶる。せめて壁には取りつきたい。しかし無理押しして高すぎるリスクをとるのは本末転倒だ。

明け方まで降りつづいていた雪も朝には止み、壁の基部まで偵察に向かう。条件さえよければ、氷河に着いた翌日から壁に取りつくつもりだったが、そんなことはこの状況では問題外だ。ベースキャンプから新雪の上をスキーでラッセルすること1時間半、壁の取りつきの真下から見上げると、壁の下1/3ほどしか視界に入らないぐらい、でかい。双眼鏡で「ムーンフラワー・バットレス」のラインを舐めるように見るが、どんなに目を凝らしても期待していたような発達した氷は見当たらず、薄い氷的なものがペラペラ張り付いた壁が続いていた。おまけに壁の上部からは盛大にチリ雪崩が落ちてきているのがよく見える。

壁に取りつく 写真:鈴木 啓紀
壁に取りつく 写真:鈴木 啓紀

天気も悪く日程も少ない。心温まる材料は乏しいものの、大石と2人で、何とか希望をつなぎ合わせる努力を重ねた結果、「ムーンフラワー・バットレス」の右を、壁の弱点を突いてラインをつないでいる「デプリベイション」に可能性を見出した。こちらは比較的傾斜が落ちるので、氷も安定しているように見える。日程も1日は短縮できるので、チャンスはつかみやすいはずだ。「デプリベイション」を登り、直線的で情報もある「ムーンフラワー・バットレス」を下降する、トータル50時間のプラン。不安定ながらも多少の好天が期待できそうなこの先の2〜3日に希望をかけて、私たちは翌日から壁に取りつくことにした。壁はでかいけれど、でかすぎることはない。取りついてしまえばきっと楽しめるだろう。

その夜も夜半に降雪があり、朝になっても壁の上部からはチリ雪崩が落ちてきている。行くか行かないかで少し議論はあったものの、こんなときに頼もしい大石の強気に助けられ、私たちは昼過ぎに取りつきのシュルントを越えた。写真で見ていた「デプリベイション」のコンディションとは大きな差はあるが、氷は何とかつながっている。薄い氷やプロテクションの取れない悪いミックス壁をテンポよくこなし、核心までたどり着いた。けれどもAI5 X(極端な難しさはないが、墜落は文字通り致命的な事態を招くグレード)の核心は頻繁にチリ雪崩に洗われ、とても我々に突っ込める代物には見えない。弱点をついて大きく右に迂回し、氷とミックス壁をつないで広大なファーストアイスバンドに抜けるラインを選んだ。その夜は、岩壁の下の雪から深く腰掛けることができる大きさのレッジを削り出し、ツェルトをかぶって休むことにしたが、ほとんど眠ることはできなかった。天気は好天し、眼下には美しいアラスカの氷河の風景が広がっていた。

薄い氷を登る大石 写真:鈴木 啓紀
薄い氷を登る大石 写真:鈴木 啓紀
ファーストアイスバンドを登る 写真:鈴木 啓紀
ファーストアイスバンドを登る 写真:鈴木 啓紀

翌日の昼にはセカンドアイスバンドへ抜けることができたのだが、昼前から崩れだした天候は、昼すぎには本格的な吹雪になった。サードアイスバンドに抜けるミックス壁では、絶え間ないチリ雪崩に吹き飛ばされないように耐えながらのタフなクライミングになった。激しい降雪と絶え間のないチリ雪崩で視界もとれない。時間を追うごとに足元の斜面の雪崩のリスクは高くなっていく。大きくトラバースしてきた関係で、敗退が可能なポイントはとうに過ぎてしまっている。登りつづけて「ムーンフラワー・バットレス」のラインと合流しないことには帰ることもできない。1時間と目算していた「ムーンフラワー・バットレス」への最後のトラバースは、深く不安定な雪と真っ白な視界に妨げられ、4時間を要した。19時すぎに、何度も写真を見て地形のイメージを頭にたたきこんでいた「ムーンフラワー・バットレス」の最後のロックバンドの下に抜けることができた。視界が悪いなか、自分たちの現在位置を正確に把握できたことは幸運だった。

壁中間部のアイスクライミング 写真:鈴木 啓紀
壁中間部のアイスクライミング 写真:鈴木 啓紀

ここから数ピッチ登ればもうファイナルアイススロープだ。壁の完登は手の届く場所にあると言っても(多分)過言ではなかった。しかし、上部につながるラインはまさに広大なアイススロープから滑り落ちてくる雪崩を集めるじょうごと化していたし、前もって承知していたとはいえ、翌日の天気予報も歓迎されたものではないことから、上に向かうという私たちの意思はきれいにへし折られていた。この時点で、完登よりも壁から生きて帰ることが最優先事項になった。

相変わらずの吹雪だが視界がややきいてきたこともあり、「ムーンフラワー・バットレス」の下降ラインはなんとか見極められそうだ。情報はあるとはいえ、これだけ巨大で強傾斜の壁を初見で下降するのは、それだけでなかなかの難事業だ。それに加えて悪天と視界不良、絶え間ないチリ雪崩、ときにアバラコフが作れないほどの質の悪い氷、そして40時間以上まともに寝ていないという悪条件は、この下降を非常にタフなものにした。下降を開始してから氷河に降り立つまで、氷から狭いレッジを削りだしての数時間の不快な休憩を挟んで、24時間を要した。用意していた30メートルの捨て縄もほぼ尽きた。往路のトレースなど跡形もないホワイトアウトの氷河のなか、苦労してベースキャンプに帰り着いたのは3日目の日付も変わる直前。気力を奮い起こしてビールで生還を祝い、泥のように眠った。

悪天のなか下降を続ける 写真:鈴木 啓紀
悪天のなか下降を続ける 写真:鈴木 啓紀

翌日も、ハンター北壁は分厚い雲の中だった。この日3本目のビールを空けていると、なんだかやけにすがすがしい気持ちになってきた。もちろんこれは敗退には違いない。けれども「充実の登山だったな」との大石の言葉に、私は素直にうなずいていた。おそらく、私にも大石にも与えられた条件のなかでやれるだけのことはやったという、ちょっとした「やり切った感」があったのだと思う。過去10数年、クライマーとしてコツコツと積み上げてきた技術や経験をフル活用し、きわどい判断で大きな自然の中に踏み込み、全力で上を目指し、厳しい自然に叩かれながら無事に帰ってくることができた。そのことは、思わずにやけてしまうくらい、楽しくて仕方ないことだったのだ。壁に取りつく前の緊張感も、ビバーク中の美しい風景やたわいのない会話も、プレッシャーのなかで登りつづけていたことも、ギリギリのところで集中力をつなぎとめていた長い下降も、そのすべてを私は楽しんでいた。畏怖を感じるような大きく美しい山の中で、自分たちの全力を尽くすこと、それを全力で楽しむこと。私たちは、まさにそういうことがしたくてアラスカまでやってきたのだ。

アルパインクライミングを、「器に漆を塗り重ねていくような行為だ」と美しく表現した人がいる。全力を尽くす経験を積み重ねていけば、その蓄積の向こう側に価値ある何かがきっとある。本当に強いクライマーたちには遠くおよばなくとも、自分なりの距離感や密度やコミットで、クライミングに寄り添い、漆を塗り重ねていくことで、ある種の深い豊かさが自分の中に積み重なっていき、それは自分自身の大切な一側面を力強く形作っていくのだ。「また一緒に大きな山に行こうぜ」そんな会話で、私たちはこの旅を締めくくった。

赤線は登攀ライン、青線は下降ライン 写真:鈴木 啓紀
赤線は登攀ライン、青線は下降ライン 写真:鈴木 啓紀

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