クリーネストライン


世界で最もハードなルートのひとつ「ペルフェクト・ムンド」の初登に際し、右手のワンフィンガーから恐ろしいピンチへのデッドポイントという、象徴的な核心のムーブを決めるアレックス。Photo: Ken Etzel
世界で最もハードなルートのひとつ「ペルフェクト・ムンド」の初登に際し、右手のワンフィンガーから恐ろしいピンチへのデッドポイントという、象徴的な核心のムーブを決めるアレックス。Photo: Ken Etzel

アレックス・メゴスは世界最高のクライマーになれるかもしれない……失敗する方法を学びさえすれば

By アレックス・ローザー   |   2019/10/21 2019年10月21日

フランケンユーラの谷を縫う曲がりくねった道で、アレックス・メゴスが古びたフォルクスワーゲンを走らせている。バイエルンの田舎の6月の青空の下に緩やかな緑地が広がり、道沿いには教会の尖塔を囲んで家屋が立ち並ぶ、まるで絵本から出てきたような村が現れる。アレックスは両親の家から岩場までのこの1時間のドライブを、1,000回以上繰りかえしてきた。

窓は開け放しで、ステレオからはテイラー・スウィフトの数年前のヒット曲「シェイク・イット・オフ」が高々と流れている。アレックスはそれに合わせて、熱狂的に大声を上げている。歌っている、と言えなくもない。テイラー・スウィフトの他のヒット曲と同様、その歌詞は丸暗記している。アレックスが音楽を聴きはじめたのはほんの2年前で、彼女はいちばんのお気に入りアーティストだ。まるで男子生徒のようにのぼせ上がっているのは明らかで、アレックスは彼女をクライミングに連れて行くという空想を語る。「案外クライミングが好きかもしれないよ。車のなかで一緒に歌って、歌詞が聴き取れないところを教えてもらうんだ。『ねえテイラー、いまのとこ何て言ったの?もう1回もう少しゆっくり言ってくれる? ありがとう、テイラー』なんてね」

今日の予定は歴史に残る世界初の5.14b(8c)のルート、「ウォールストリート」を登るアレックスの撮影だ。これは地元のヒーロー、ヴォルフガング・ギュリッヒが1987年に開拓したルートで、大半はここフランケンユーラで、彼が9年にわたりクライミングのグレードの限界を4段階も引き上げたプロセスの中間点となった。おもにひとりの人物によって築かれたロッククライミング史上比類のないその進化のパターンは、彼が1992年に交通事故で亡くなるという悲劇を迎えなければ、その後もつづいたかもしれない。

現在26歳のアレックスが「ウォールストリート」を完登したのは17歳のときで、それ以降も数回繰りかえしている。だから今日の撮影のために完璧にレッドポイントすることはとくに重要ではない。私たちは彼と一緒に映画のプロジェクトに取り組んでいて、狙いはフランケンユーラのハードクライミングに関するギュリッヒの遺産を見せることだ。現在では世界最高のクライマーのひとりとみなされているギュリッヒをフランケンユーラの地元の誇りとして崇拝するアレックスは、明らかにその遺産の後継者でもある。アレックス自身もある程度はこれを認めており、ギュリッヒのイメージを意識してきた。しかし今日彼がここで証明しなければいけないことは何もない。少なくとも撮影隊に対しては。たんにいくつかのムーブをつづけて登ればいいだけだ。プレッシャーはないし、大きな期待があるわけでもない。

「アクション・ディレクト」を登る伝説的なヴォルフガング・ギュリッヒのポスターが見守るなか、トレーニングから休憩するアレックス。ドイツ、エアランゲン。Photo: Ken Etzel
「アクション・ディレクト」を登る伝説的なヴォルフガング・ギュリッヒのポスターが見守るなか、トレーニングから休憩するアレックス。ドイツ、エアランゲン。Photo: Ken Etzel

「ウォールストリート」の核心は、全長約17メートルのルート上部のバルジにある、極小のホールドをつなぐ6つのムーブだ。アレックスが核心に到達すると、状況が悪い方向に進みはじめた。2つ目のムーブで落ちたアレックスが、「ん、おかしいな。イイ感じじゃない」と戸惑いのような反応を示す。森のなかは湿度が高めで風はなく、天蓋の陰にいるものの少し暑い。滑りやすい小さなポケットやエッジを大きなムーブでつなごうとするクライマーにとっては、どれも良くない兆しだ。アレックスは核心のはじめに戻って、また挑む。ホールドからホールドへと、遠いスタティックなムーブをおこし、かろうじてホールドを止め、しばらくホールディングに迷い、苛立って唸り声を上げ、足の位置を調節しようと試み、そして仕方なくフォールする。この繰りかえしが数回つづく。「ダメだ」と言う。「力が足りない」アレックスが無言になり、あたりも静まりかえる。彼の頭のなかでは難なくやってのけられるはずのルートなのだ。たったの8cなのだから。アレックスはハーネスに座ってうなだれ、前かがみで指先の皮を見つめる。そして「俺なんてただのクソだ」と、聞こえないほどの小声でつぶやく。

たいていのクライマーなら、こんな場面では悪条件のせいにするだろう。しかしアレックスは自分の弱点を非難する以外に、言い訳を公言したことはない。私がこのストーリーのために一緒に過ごした期間にも、彼が個人的に言い訳を漏らすことはなかった。「暑すぎるとか、湿度が高すぎるとか、ホールドが濡れているとか、そんなことはどうでもいいんだ。自分が強ければ、登れるルートなんだ」とアレックスは言う。「言い訳は通用しない」

このクライミングはさらに悪くなる。いったん地面に下り、少し休んでから2度目のトライをするも、結果は同じ。今日はもうダメだ。さっさと荷物をまとめたアレックスは、私がアウトバーン(ドイツの速度無制限道路)での安全運転を願うと、「心配いらないよ。フランケンユーラで交通事故で死ぬのは強いクライマーだけだから」と皮肉を言って、ひとりで去った。アレックスはこれから3時間、いつものジムでトレーニングをしてから帰宅する。

アレックスが去ったあと、私はケン・エッツェルと目を見合わせる。ケンはこの映画の監督だ。私の顔には、「いまのはいったい何だ?」とでも書いてあったに違いない。ケンは眉を上げ、肩をすくめた。この時点で彼は4か月近くアレックスと一緒に暮らし、撮影をつづけている。アレックスとは長年の友達で、彼の絶好調も絶不調も見てきた。ケンはつまりこういうことだと説明する。「アレックスは自分にプレッシャーをかけ過ぎるんだ。究極の目標は世界最高のクライマーになること、それだけ。だからいまの彼にとって、それ以外はすべて失敗。そして失敗は許されないんだ」

指の力と体重の比率に関していえば、アレックスはおそらく世界最強のロッククライマーだ。だが、彼は最高ではない。「最強」は比較的わかりやすいが、クライミングでの「最高」は複雑だ。それは斬新さと一貫したパフォーマンスを要し、またクライミングというスポーツの難しさを未知の次元に押し上げることを意味する。通常これには長期にわたる何度もの失敗の繰りかえしが必要だ。ギュリッヒは失敗の繰りかえしに慣れ親しんでいた。アメリカのクライミングの父的存在で、最盛期のギュリッヒとも親友だったラス・クルーンはこう言った。「ヴォルフガングは失敗を何とも思わなかった。困難なことを成し遂げようとするすべての人と同じように。失敗だらけの道を進むんだ。それが偉大なクライマーを生み出す。失敗に打ちのめされるのではなく、失敗を糧にする」

アレックスは8a以上のルートはすべて記録し、そのグレードのリストは何千にものぼる。これは「ペルフェクト・ムンド」の完登直後に、それを書き留める様子。Photo: Ken Etzel
アレックスは8a以上のルートはすべて記録し、そのグレードのリストは何千にものぼる。これは「ペルフェクト・ムンド」の完登直後に、それを書き留める様子。Photo: Ken Etzel

翌朝アレックスはニュルンベルクの近くの大学で栄える町、エアランゲンの郊外にある両親の家の裏庭でのんびりと朝食を食べている。派手な黄色のアロハシャツに、臆面もなく合わせた花柄の真っ赤なボードショーツからは、体の割にとても細い脚が突き出している。ボタンを留めていないシャツの隙間からは、医学書のイラストを思わせる横紋筋を巻き付けたような、毛のない胴が覗いている。朝食は紅茶(コーヒーは飲まない)と、入念に選んだ数種の植物ベースのプロテインパウダー入り濃厚ヨーグルトで、パックからそのまま食べている。

彼は昨日よりは機嫌がよく、紅茶を飲みながら、「昨日は最悪だった」と言う。彼の英語はシェフィールドでクライミングをたくさんしたときから拾った、「g」を落としたヨークシャー訛りで、わずかにチュートン語を帯びている。よく眠れたかと聞くと、機械的に「うん、眠れた。ルートの夢を見た。目が覚めた。またトレーニングに戻れる」と言う。私はどのルートの夢を見たのかと聞く。「ウォールストリート」の夢か、フランスのセユーズ(何日か前に私たちが到着しているはずだった場所)の大きな課題の夢だろうと察したが、「ペルフェクト・ムンド」という彼の意外な答えに驚かされる。

アレックスが「ペルフェクト・ムンド」を初登したのは2018年5月のことで、アレックスがこれまでに挑んだなかで最もハードなロッククライミングで、おそらく史上2番目(アダム・オンドラのルート「サイレンス」の次)にハードなロープクライミングでもあり、5.15cという桁外れのグレードを記録している。しかし最も重要なのは、これが3週間を費やしたアレックスの過去最長の成功プロジェクトとなったということだ。1つのルートに数年の労を費やすクライマーもいることを考えると、これは途方もない功績だった。

結末が不確かなプロジェクトは、混ざり合う特異な要素を内包する。時間をかけるにつれてそれらは信念の崩壊、退行期、完全な鬱状態などとの苦闘となり、カチカチと音を立てて刻む季節や旅や人生の時計に対する落ち着かない攻撃となる。それらは現実で、ロープを付けてルートにトライするたびに頭は徹底的に悩まされる。

この悲惨な状況は、やがてロッククライミングの奇妙な取引きによってさらに悪化する。ルートをレッドポイントしていないのなら、あるいはフォールせずに登りきっていないのなら、何度トライを繰りかえしても、何度成功に近づいたとしても、あるいはそのルートの奥義と呼ばれるほどの深い知識があったとしても、まったく意味はない。いっそルートに触ったことがない方がましだ。黒か白かだけで、灰色は存在しない。成功しないかぎりは、失敗なのだ。

この全か無かの法則は難易度の高いロッククライミングの基本的な部分であるが、失敗との関係に悩まされてきたアレックスのようなクライマーにとってはプロジェクトに挑む際の脅威となる。アレックスはいまでも失敗との関係に苦しむ。「失敗は嫌だ」と彼は私に言った。「大嫌いだ」

アレックスは世界最高のクライマーのひとりかもしれないが、クライミングのダートバッグ文化を称賛する姿勢は変わらない。その証拠にこれは、フランスのセユーズに向かう道中の閉まっていたガソリンスタンドで野宿し、雨に降られて目覚めた姿。Photo: Ken Etzel
アレックスは世界最高のクライマーのひとりかもしれないが、クライミングのダートバッグ文化を称賛する姿勢は変わらない。その証拠にこれは、フランスのセユーズに向かう道中の閉まっていたガソリンスタンドで野宿し、雨に降られて目覚めた姿。Photo: Ken Etzel

「ペルフェクト・ムンド」はアレックスにとって分岐点となったようだった。それは彼が失敗の恐怖に直面し、1つのルートに継続的な努力をつぎ込み、自分のやり方から離れて、最終的には正当に難しいルートを完登することができる、という印である。それは興奮に値するものだった。

「ペルフェクト・ムンド」を登った日、アレックスは電話で私にこう話した。「傲慢に聞こえるかもしれないけど、いままで自分が登ったなかで、これがはじめてのハードルートだった。ある意味で、僕のハードルートの出発点になると思う」 この発言は疑問を提起する。3週間で5.15cに成功したということは、3か月あるいは3年を費やしたらいったいどれほど難しいルートを登れるようになるのだろうか。5.15cがハードクライミングの出発点だとすれば、彼はどこに行き着くのだろうか。どこに行き着くことを期待しているのだろうか。しかしその一方で、3週間のプロジェクトが彼を二日酔い状態にし、いまもそれが夢に出てきて次の大きな目標に挑むことを妨げているならば、何年も要するプロジェクトを耐え抜くことなどできるのだろうか。

これまではルートをすばやく登るのがアレックスの最も顕著な特徴で、彼はそれで有名になった。ルートのオンサイトは長期のプロジェクトとは正反対だ。オンサイトは事前に情報を一切もたずにルートに行き、偵察はそのとき地面から見上げる程度で、ロープを付けて登りはじめる。難易度の高いルートのオンサイトはクライマーの熟練度を示し、神聖な価値がある。アレックスは2013年に世界初の5.14d(9a)をオンサイトし、さらに知名度を上げた。オンサイトが彼の若いころからの得意分野だったのは、最初のトライでルートを正しく登ることを重視するクライミングコンペの経験に大きく由来する。(クライミングコンペのルートは難易度が増すように設定され、原則的に最初のトライで最も高くまで登ったクライマーが優勝する。)

アレックスは5歳のとき、彼の父親(大学のプログラムでギュリッヒからクライミングを学んだ)からクライミングを教わって間もなくコンペに参加しはじめ、8歳ですでに地元の少年コンペで優勝していた。13歳で地方選の少年チームの一員となり、そこで出会った2人のクライマー、ディッキー・コーブとパトリック・マトロスは、いまもアレックスのコーチである。

頭をきれいに剃り上げた53歳のディッキーは強いドイツ語訛りの英語を話し、とても派手な服を好む。(私は彼の花柄のショーツと定番の真黄色のTシャツを見て、アレックスのセンスはここから影響を受けたのだと察する。ディッキーは自分の美的感覚を、プロフットボールとプロ野球で活躍した伝説のネオン・ディオン・サンダースの言葉をもじり、「見た目がよく、肌触りがよく、登り心地がいい」と自負した。)ディッキーがアレックスのクライミングぶりを見たのは、はじめて出会ったその日だった。「すぐにわかったよ。ぶかぶかのシューズを履いてそこに立っているのが、神童だということが。ほかの子供たちもいいクライマーだったけど、アレックスはまったく別のレベルだった」金髪と青い目の、おとなしい華奢なこの子どもは、バンのなかではいつも音楽のボリュームを下げるよう頼み、決して騒がなかった。「この子をしっかり育てなきゃならんぞ、と思ったんだ」とディッキーは言う。

アレックスは休みを嫌い、1日の終わりにクライミングをやめるのも嫌がった。「やる気満々だった」と、当時を振りかえって彼は言う。「とにかく毎日岩場に行って、クライミングがしたかった。昼休みに家に戻ってバックパックを準備し、学校が終わったら、家に入りもせずにドアから学校カバンを投げ入れ、クライミングのパックを担いで自転車に乗り、駅まで行って電車に乗って、岩場に行った」この習慣は何年もつづいた。ディッキーのおもな仕事は、アレックスのペースを抑え、腱や関節が筋肉の成長についていけるよう、体の基礎を作らせることだった。「アレックスの天分はモチベーション。本質的なモチベーションだ」とディッキーは言う。彼はアレックスに休息日の説明をしたときの様子を再現してみせた。「ダメだ、アレックス。今日は休息日だ。『えっ、何?』休息日だよ。『休息日って何?』休息日ってのは、クライミングをしない日だよ。『ええっ? そんなの嫌だ!』アレックスは聞く耳をもたなかった」

世界初の5.15、「バイオグラフィー」を繰りかえすアレックス。この数年前、彼は同じルートに3度挑戦している。フランス、セユーズ Photo: Ken Etzel
世界初の5.15、「バイオグラフィー」を繰りかえすアレックス。この数年前、彼は同じルートに3度挑戦している。フランス、セユーズ Photo: Ken Etzel

ほかの子どもたちが、パッドの敷かれたクライミングジムで色別のホールドで示されたルートをたどっているあいだ、アレックスはギュリッヒがかつてそうしたように、幾分忘れ去られたハードルートを探しながらフランケンユーラの森を歩いた。「そうすることで、彼は異なるムーブのさまざまな感覚を非常にたくさん学んだ」と、アレックスの父親ヨルゴスは言う。「頭のなかに図書館があって、数千の異なるムーブのやり方が壁の棚に入っている。コンペではその棚から適切な本を取り出してくればいいんだ」

ヨーロッパ全域のコンペに出場しはじめると、アレックスの強さは圧倒的だった。同い年のチェコの強力選手アダム・オンドラの存在にもかかわらず、彼は2年連続でヨーロッパのユース選手権に優勝し、2009年から2010年にかけては、ヨーロピアン・ユース・カップで前代未聞の10中9勝を制覇した。その記録はいまだに破られていない。こうした成功の数々は、クライミング熱とモチベーション、そしてアレックスのシンプルな切望である「勝つこと」を駆り立てた。「子供ながらに自分が優れていること、特別な才能をもっているという感覚に気づいていた」と父親は言う。「そして多くの成功が、自分が正しい道にいるという決定的な証拠になった」

しかし神童であることには欠点もある。アレックスの両親はコンペで彼が競う姿を、緊張しながら見たと言う。期待や不安が大きかったからではなく、万一勝たなかったらアレックスは何日も不機嫌になったからだ。「一言も話さなくなるのよ。病気のようなものだったわ」と母親のアナは言う。両親にはどうすることもできなかった。

18歳のときユース部門をはなれ、経験豊かな成人と競うようになると、アレックスは勝たなくなった。決勝出場を逃すこともしばしばあった。敗北を大きな打撃として受け止めた彼は、その後何年間もコンペに出場しなかった。大会に燃え尽きたと推測する者もいたし、負けることに耐えられなくて止めたのだと言う者もいた。「生まれつき何かに非常に長けている人がいる。それほど優れていると、最初はいいが、ダメな状態を受け入れる過程が学べないんじゃないかな」と、クルーンは言う。「才能があるというのは不幸でもある。才能がないことを学ぶのは、ずっと難しいから。壁にぶつかったときそれを乗り越えるためには、失敗への対処方法が身についていなければならない」

アレックスはアウトドアでのクライミングに焦点を移した。そしてプレッシャーがやや少なく、競技がより個人的で、勝利も敗北もそれほど明らかではない環境で、頭角を現した。2009年に自己初の14b(8c)を完登し、その1か月後には初の14c(8c+)を完登した。そして世界中のクライミングのメディアで、わずかなトライで高難度のルートに成功する若者として、頻繁に取り上げられるようになった。その当時のアレックスは、できないルートはさっさとあきらめて次のルートへと移っていった。

それから2013年、19歳になったアレックスはスペインにある有名な石灰岩の岩場、シウラナへと旅した。その2日目、5.15a(9a+)のスタンダードである著名なルート「ラ・ランブラ」を探していたとき、ガイドブックを読み違えて、クリス・シャーマの「エスタド・クリティコ」の前に出たことに気づいた。スタートはさほど難しくない別のルートと同じだが、約20メートル地点で名高い5.14d(9a)のルートに分かれる。9aをはじめて登ったのは、1991年に世界で最も有名なスポーツクライミングのルート「アクション・ディレクト」を初登したヴォルフガング・ギュリッヒである。

オンサイトに挑むクライマーは、ホールドを確認するために見晴らしの利く地点を探したり、小さな手がかりを探るために双眼鏡を使ったり、またムーブを読み解くために1時間以上を費やすこともある。スポーツクライミングのありとあらゆるトリックである。しかし、アレックスは一切トリックを使わない。それらは彼のクライミングの世界観、ドイツ語で言えば「ヴェルタンシャウン」の対極にあるからだ。ニーバーをやるためのスティッキーラバーのニーパッドも、スティッククリップも、特別なクライミングシューズも、こしゃくな逆立ちの裏技なども使わない。できないことがあれば、「弱点を解消して、より強くなる」といういつもの解決策で対応する。結局のところ、「力がありすぎて困るということはない」というのもギュリッヒの名言のひとつだ。

最初のボルトの位置を見つけると、アレックスはシューズを履いて、2つのルートのどちらを登るかを決めないまま取りついた。「ルートの分岐点に着いたとき、一瞬、簡単な方をやろうと思った。オンサイトできる可能性が高いからね」しかしハードなルートをやるためにスペインに来ていた彼は、難しい方のルートをフォールするまで登り、つづきをチェックしてから速いスピードで登り直そうと考えた。「だからロングフォールしないように、登りながら全部のクイックドローにクリップしたんだ」そして気づくと、最後のボルトに着いていた。「完全にパンプしていて、もう限界だった。ふと上を見るとアンカーがあった」彼はそれにクリップした。「登り終えるまで、気づかなかった」

沈みゆく太陽とともにフォール。Photo: Ken Etzel
沈みゆく太陽とともにフォール。Photo: Ken Etzel

史上初の9aのオンサイトだった。アレックスはとくに何も言わなかったが、シウラナでクライマーのキャンプを運営するトニー・アルボネスが誰かからその話を聞き、スペインのクライミング誌『Desnivel』に知らせた。同誌はアレックスに電話をし、この偉業を記事にした。アレックスは翌日いつものようにクライミングに行った。その晩キャンプ場に戻ると、「大騒ぎだった」とアレックスは言う。「この出来事ですべてが変わった」

アレックスがいまだに「ペルフェクト・ムンド」の夢を見ると言った翌日、私たちはまだエアランゲンにいて、アレックスの目下の課題のあるフランスのセユーズの天候が回復するのを待っていた(少なくとも名目上は)。その間アレックスはトレーニングに集中する。訓練はたいていひとりで、ニュルンベルクのクライミングジムとトレーニングに適した別のジムの2か所で。アレックスのトレーニングを見るのはなかなか面白く、少なくとも他の誰のトレーニングよりも興味深い。とくにアレックスの懸垂は格別で、フィンガーボードの深さ6ミリ以下の極小のエッジに指をかけ、そこから体を30センチほどはなして懸垂する。体は少しも揺れずに空中浮揚している状態で、あごが手と水平になっても引き上げるのを止めず、胸郭が水平になると止める。またアレックスは、攻略の詳細に関して並外れた記憶力をもっている。私はあるとき、彼が3分間で45ものムーブのシークエンスを考案し、暗記した様子を見たことがある。その翌日、彼はそのすべてを憶えていた。

「トレーニングはハードルートにトライするよりも精神的に楽なことに気づいた。頭が休まるから」とアレックスは言う。「ロボットのように4、5時間ひたすらトレーニングして、ジムから出た瞬間、それで十分。満足感があって、頭はもうフィンガーボードのことは考えていない」

一方、困難なプロジェクトに挑むときの彼の思考様式は、「ハードルートをやろうとすると、絶えずそのルートのことで頭がいっぱいになる。四六時中休む間もなく。クライミングを終えて家に帰っても、またそのルートについて考える。ベッドに横になっても、気になって眠れない。夢にも出てくる。目が覚めてもまたそのルート。頭がひっきりなしに 1 つのことに支配されるのは苦手だ」

しかしジムにいても、セユーズの未完のルートはアレックスの脳裏を離れない。クライミングジム「カフェ・クラフト」の比較的人の少ない135度の壁の上方には、印の付いていない一連の特別仕立ての木製グリップが並ぶ。(クラフトはドイツ語で「力、パワー」の意味。そもそも「カフェ・クラフト」は、ギュリッヒとその仲間が入り浸ったフランケンユーラのレストランの名前だった。)ホールドはアレックスのプロジェクトであるV13(8B)のボルダリング課題の核心の複製で、言うまでもなく脅威を感じる。5.14を登って核心にたどり着き、核心のあとには5.15の18メートルのルートがつづくのを考えると、完登は不可能に思えてくる。

アレックスはホールドに軽く触れる。「難しいプロジェクトだと思う。『ペルフェクト・ムンド』よりハードなのは確実で、たぶんこれまでにやったどのルートよりも厳しいだろう。いまはそれしか言えない」

進歩はいつも直線とはかぎらない。いまからしばらく前、アレックスが「ペルフェクト・ムンド」に取りかかった2週間目のある日、私はケン・エッツェルからビデオメッセージを受け取った。ルートの核心にトライするアレックスを撮ったものだった。右手のワンフィンガーと左手のピンチ、135度の大きなルーフのリップ付近の右手のピンチをともなう、V10かV11のボルダリング課題だ。ケンはアレックスと一緒に映像を見ながら携帯電話をラップトップの画面に向けていたので、それに対する2人の反応も聞こえた。

アレックスは右手中指を第一関節まで核心の浅いワンフィンガーに入れて3、4、5回調整し、左にバックステップしながらフットホールドを変え、左手のピンチに体を投げ出す。それは極小の石灰華の隆起のある石灰岩の変形した小球のような出っ張りで、溶けたアイスホッケー用パックほどの大きさしかなく、それに触れたことのない私の目にもひどく見えたが、135度の壁の上で唯一使えそうなホールドだ。アレックスはこのピンチまで左手を大きく、おそらく1メートル以上伸ばす。

ホールドをつかみ、足を壁に戻し、再調整を試みる。右手中指の腹は腰の位置でワンフィンガーに入ったまま。アレックスが止まり、ホールドをつかんだ左手、そして足をいぶかしげに見る。指先の皮膚は砂粒の100分の1の大きさの質感の違いと、そして塊のどのひだが最適な位置に当たっていないのかを感じることができる。アレックスは正確にホールドをつかんでいないことを察知する。そこからはなれることができない。しかしたんに飛び降りる代わりにいったん停止して、カメラを持っているケンに振りかえると、鼻で左手を指しながら「ホールドの指をしくじったのがわかる?」と、非常にドイツ人的に自分の状況を説明する。そして岩にしがみついたまま、無力にあたりを見まわす。「クソッ、動けない」ふたたび止まり、頭を振る。「ダメだ。テイク!」と叫ぶ。その声が上がるとともに、アレックスが画面から消える。

時計を見ていれば、アレックスがおそらく世界で2番目に難しいこのルートの核心のホールドから手をはなすまでに、13秒以上あるのがわかる。全力でのジャンプから一瞬の沈思、そして困難な状況に対する驚くほど理性的な分析まで。このビデオの最後には、映像を見ながら大笑いしているアレックスとケンの声が聞こえる。

アレックスにとってまだまだ先は長いが、ビデオの最後の笑い声はアレックスが失敗との関係を向上させた良い兆候を示している。困難なプロジェクトで10日間以上苦闘しながらも、自分の努力を見て、その不条理さを笑う余裕があったのだ。数日後、アレックスはルートを完登した。

私たちはようやくセユーズに到着した。その前にアレックスはさらに数日間トレーニングをし(マンチェスターで即興にテイラー・スウィフトのコンサートも見て)、ふたたびルートに挑む準備が整っていた。この旅ではルートの完登は実現しなかった。しかしある日、アレックスは完璧な石灰岩の下に座り、前途について省察した。

「目標はできるだけハードにクライミングをすること。それが何を意味するにしても。僕はまだ自分の限界に達していない。だから試してみたいんだ」しかしアレックスはこう言ったそばから目標を得難いものにする。「自分のクライミングに満足することはないだろう。いつももっとハードなクライミングができるはずだと思ってしまうから。まあそれも仕方ないけど」

現在までアレックスはこのプロジェクトのために3回セユーズに行ったが、まだ完登は実現していない。そのあいだに怪我をして回復し、当面は2020年の東京オリンピック夏季大会出場資格の獲得に集中している。

このエッセイはSeptember Journal 2019に掲載されたものです。

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