クリーネストライン


夜明け前、セロ・チャルテン(フィッツロイ)東壁の基部にアプローチするコリン・ヘイリー(2018年) Photo:Austin Siadak
夜明け前、セロ・チャルテン(フィッツロイ)東壁の基部にアプローチするコリン・ヘイリー(2018年) Photo:Austin Siadak

単独行

By コリン・ヘイリー   |   2020/06/11 2020年6月11日

1年半前、僕はチャルテン山群にある主要な11座を完登した最初のクライマーになった。だが、いつもこのような記録の達成をある意味ばかげたことのように思っていた。11座のピークに登った最初の人間になった理由を述べるならば、チャルテン山群が僕を最も魅了する山域であり、数々のシーズンをここで過ごし、ここで登り、どうしてもすべてのピークを踏破したいと思ったからにすぎない。

僕にとって重要な山群は、チャルテンのスカイラインの象徴的景観である7つの突出したピークだ。2006年の2度目のパタゴニア訪問までに、これらの象徴的な7つのピークをすでに完登していた。ただし、ほとんどは最も簡単なルートだった。そして2011年には、その7つを単独登攀した。それは素晴らしい旅であり、有意義な学びと体験だった。

チャルテンというそれ自体が、超難関の最も記憶に残る山群だ。それは2009年1月、パタゴニアへの5度目の旅の終盤のことだった。チャルテンのスーパーカナレタの単独登攀を狙っていたのだが、帰路のフライトが近づいても、好天は巡ってこなかった。

帰路のフライトまで残すところあと数日になった頃、僕はトーレ渓谷にハイキングへ出かけた。落胆のあまり、天気予報のわずかな回復でさえ、僕をトライする気にさせた。メテオグラムの風予報は秒速9メートルと10メートルばかりで、チャルテンを目指すには賢明ではなかったが、あいにく僕は24歳で、賢くはなかった。

午前3時、トーレ渓谷のキャンプ場を出発した。真っ暗で、まだ風があり、雪もちらついていた。その日はまず、シッティング・マン・リッジまで1,000メートルの中難度の単独登攀だ。シッティング・マン・リッジのピークからチャルテン西壁の基部に降り、スーパーカナレタの下部をキックステップで登り始めた時も、まだ少し雪が降っていた。

スーパーカナレタの最初の1,000メートルは比較的簡単で、急こう配の雪面と容易な氷壁の登攀が交互する。雲と降雪に不安を感じはしたが、この地形は快適で、淡々と登った。雪と氷のクーロワール(岩溝)を登りきると、そこから精神的なストレスも含め、本当の苦難が始まった。難しい最初の数ピッチの後、7年前に亡くなったベルギー人クライマーの遺体に遭遇した。ずっと発見されることのなかったこの亡骸は、岩溝の氷に覆われたままだった。僕は遺体を見て動揺した。ここは生きた人間が誰もいない果ての場所であり、その亡骸のベルギー人クライマーも単独行だったのだ。事の重大さを痛感した。

荷物の軽量化を図るために60メートルのロープ1本しか持たなかった。1ピッチごとに「賢明な下山」は遠ざかる。登頂を果たしフレンチ・ルートで下山することに望みを託した。最短ルートだし、エキサイティングな懸垂下降のアンカーが多い。登れば登るほど、疲労し、ストレスが溜まっていった。

高度を稼ぐにつれて、岩は霧氷に覆われていく。核心部で使用するためにバックパックの底に入れてきたロックシューズが死ぬほど重く感じる。まず食料が尽き、やがて水も尽きた。フリーソロで登ったり、背中のバックパックを引っ張り上げたり、複数のカムで自分を固定したり、ロープを使ったり、あらゆるテクニックを駆使した。最終ピッチは最難関で、そこでは伝統的なロープソロの技術を用いた。この技術は、セルフビレイ(自己確保)し、プロテクションを設置しながらピッチを登り、懸垂下降で起点に戻ってボトム・アンカーを撤去し、もう1度そのピッチを登る。嵐が迫るチャルテンの山頂近くに1人きり、持参したウェアをすべて着尽くし、そびえ立つ斜面を行ったり来たりしていることが、まったく滑稽に思えた。

午後8時20分にチャルテン山頂を踏破。チャルテン山塊よりも辺境の山群をいくつも訪れたが、高度3,000メートルで、これほど下界の人間との距離を感じたことはなかった。すでに身体は凍え始めており、急峻で壮大なこの山を脱出するのに1本のロープしか持っていない、それにもうじき暗くなる。この装備では、フレンチ・ルートの30メートルの懸垂下降しかできない。50メートルのオーバーハングの懸垂下降を避けるために、敢えて通常のルートから逸れて、2つのバリエーション・ルートを取らなければならなかった。やっと氷河にたどり着いたのは午前2時頃だったと思う。肉体的にも精神的にもボロボロになった。そのときはじめて、2つあったアイスアックスの1つがハーネスに見当たらないことに気付いた。アバラコフ・アンカーをセットしている時に氷に差したままうっかり置いてきたのか、それとも夜間下山中にいつのまにか金具が外れて落ちてしまったのかと考えた。
(その7年後に1組のクライマーがそのアイスアックスを発見した。それは標準の下山ルートから逸れた2つのバリエーション・ルートの一方で、まだ氷に刺さっていたらしい。)

滑落すれば必ず死ぬ地形からやっと解放され、氷河を離れ長い下山を開始し、街に向かって歩きだした。肉体的な消耗のせいでウェアを全部着ていても寒さは治まらなかった。ほぼ30分ごとに立ち止まってバックパックに腰掛け、座ったままウトウトと眠った。凍えて目を覚ましては立ち上がり、よろめきながら前へ進んだ。ようやく街に着いた時、人生の最も強烈な体験を自分はやり遂げたことを知った。

スーパーカナレタ単独行から数日後、僕はシアトルの大学のキャンパスで学生に囲まれて座っていた。クラスメートから冬休みはどうだったとたずねられたが、スーパーカナレタの単独登攀について話したところで仕方ない。あの体験の緊張感、ストレス、恐怖、高揚を伝えることは無理だと分かっていたからだ。

「冬休みは楽しかったよ。そっちは?」

「最高」と彼女は答えた。「とんでもない新年パーティに行ったの!すごかったわ。」

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