挑戦を重ねて
真夜中近く、コンビンクト・キャニオンの登山口で駐車場に車を入れる。2019年5月29日。木々は静かに揺れ、暗い空は薄い雲で覆われ、星ひとつ見えない。カリフォルニアのトラッキーから3時間半をかけてワープしてきた後、両足をストレッチする。この春、こんなドライブをもう十数回は繰り返してきたが、今ではカフェインに任せて、ぼんやりとポッドキャストを聴き、東シエラの前衛の暗いシルエットに思いを馳せるうちに過ぎてしまう。風は日の出までに静まる予報だが、時おりの突風からは、そうは思えない。
翌朝に向け装備を整え、シュラフを広げ、数時間の休息を取ろうと横になる。気が昂るのは、新しいラインでの大事な日を控えていると、いつものことだが、なぜだか嫌な予感を振り払うことができない。本能的に直感には耳を傾けるべきと強く信じているがゆえに、山での真剣な企てに保証はなく、不安がもたらす当然の懸念を払しょくすることにしばしば苦労している。ようやく眠れても、不穏な気持ちと明晰夢のはざまで、若い女の声が「引き返しなさい」とささやきかけてくる。目が冴えたので、起き上がり車を見ると、それは強風に煽られ、左右に激しく震えている。夜明け前に登山口でポンデラに会ったら、この嫌な予感を伝えるべきかどうか思案しているうちに、ついに眠りに落ちた。
コンビンクト湖の上に高くそびえるモリソン山の稜線は圧巻で、マンモスレイクの街の外側を走るハイウェイからはよく目立つ。記録によると初登頂は1928年のノーマン・クライドまたはジョン・メンデンホールのいずれかで、たぶん東斜面からだろう。そのトレードマークは、見るからに頑強な北東壁で、急こう配の細いY字型のクーロワール(岩溝)に切り裂かれ、終着点は大きな崖である。フォールラインの分析に取り付かれた者にとって、このラインの美しさには磁力がある。何度も近くを通ったことはあったが、このラインを滑降の現実的な候補と見なすには、数年の歳月とそれなりの判断力が必要とされ、というのも私は常に登攀能力よりも野心が勝るからだ。かつてこのルートがスキー滑降されたことがあるのか、いやそれが可能なのかさえ、何の手掛かりもなかった。フォトグラファーでマンモスレイクの地元民でもあるクリスチャン・ポンデラに電話をかけたことで好奇心はいっそう高まった。
東シエラと言えばこの人、「ポンド」である。この20年間、この山域での彼の偉業や文献はさまざまな世代に影響を与えてきた。私があのY字についてたずねると彼はさらりと答えた。「ああ、『死の岩溝』だね。」モリソン山の悪名高き浮石と安全確保のしづらさからそう名付けられたこの回廊に至る比較的安全な唯一のテクニックは、運に恵まれることだ。この60メートルの岩場が氷に覆われるには、融雪と凍結を繰り返す必要がある。だがそれは、そのタイミングを正しく計らなければならないということでもある。なぜなら、反対側の南斜面の暖気が、遅くなるとこのクーロワールの銃身に注ぎ込むからだ。暖かい日中の気温が氷点ということは、雪崩の可能性があり、それは一瞬にして、モリソン山の肩の埃を払うように、クーロワールから私たちを一掃することを意味する。
メンデンホールはこの山を初めて攻略したわずか数年後にも、このルートを登攀したとされる。現在、このクーロワールに来る者を拒む核心部は、1931年の昔は、崖下に続く雪の緩やかな斜面だったらしい。近年では、コンディションは今とほぼ変わらず、噂ではイヴォン・シュイナードが70年代にこのルートを登攀したようだが、詳細は定かでない。情報をかき集めるうちに、ついにその源であるシュイナード本人に電話を掛けた。「自分の思い出も無駄ではない」と最初にうなずくのは彼だが、他にもダグ・ロビンソンともう1人の友人が同行したとシュイナードは教えてくれた。しかも登頂に成功しただけでなく、山の裏側を滑降するためにスキーを担いで登ったのだ。
午前5時、眠れない夜を過ごした後、駐車場でポンドと落ち合った。この胸騒ぎを詳しく話すことはなかったが、容赦ない風のため、退却してマンモスのステラ・ブリューで朝食を取ることにあっさり決まった。朝食のブリトーとコーヒーを前に、ボンドと彼の友人であり、旧クライミング・パートナーのナザン・ウォレスが、1998年、スキーで下ることを目標に、このルートを意気揚々と登頂したことを知った。しかし懸垂下降用のギアに不備があったため、2人は計画を断念し、シュイナードとその仲間の先例にならい、山の裏側をスキーで滑り降りた。また噂では、90年代のある時期にもこのラインをスキーで滑降した者がいたが、核心部を通らずに、登り返して下山したらしい。ますます思いは募り、好奇心は高まった。それにポンドにとっては未完の仕事だ。もう一度、確実な形で挑まないことには、諦められない。
2週間後、再び私たちは登山口に立ち、太陽が目覚めるずっと前に行動を開始した。山腹の雪の解けた平らな藪を登っていくと、隣接するローレル山のゴツゴツした山肌がオレンジ色の光に輝いている。この数日間、弱く長く降り続いた雪が、上方の尾根筋を覆い、寛大な季節の名残をとどめている。緩斜面のパウダースノーが巻き上がり、雪煙となって切り立った岩面に降りかかり、私たちに「離れろ」と警告する。こうした緩慢で乾燥した雪煙の強さや頻度を、氷瀑の下の岩の窪みに身を潜めていると間近で観察できた。ロープを結びながら葛藤と議論が始まった。雪雲が唸りながら上空を覆ったからだ。山は私たちを拒もうとしている。視界を覆い尽くす白い雲のせいで谷側に吸い込まれないように、ボードを雪に押し込み、しがみついた。
今はここにいるべきではない。溝の反対側斜面の安全な場所へ素早く避難すると、その場所からは巨大なポケットがえぐり取られているのがよく見えた。クーロワールへ進んでいれば、間違いなくこれに巻き込まれていた。成功とは満足することだが、数十年にわたる山での教訓に照らし合わせれば、撤退を決断することが妥当だ。だがこんなはずではない。野心が勝れば、危険を冒すことは許されるのだろうか。いや、このラインには決してたどり着けない何かがあるのではないか。
暖かくなるにつれて、岩の裂け目からは冬がゆっくりと剥がれ始める。コンビンクト湖に釣りのシーズンが到来し、夜間に気温が氷点下になるのに十分な時間はなさそうだ。しかしこのラインの初挑戦からちょうど3週間後、山は再びチャンスをくれた。最近の雪崩で上部の新雪が流出し、雲が歓迎するかのように山肌を朝の太陽から守っている。
私たちはとりあえず動いた。ポンドが手順を踏んで氷瀑をリードし、安全確保のためにピッチにいくつかのスクリューを打ち込む。ロープを引いて弛みをとり、「素早く、効率的に登る」ためにラジオは止める。私はアイス・クライミングの経験が過去に1度しかなく、相棒が無防備な態勢であるのは分かっており、体の中では虫が湧きだし、騒いでいた。ラインをクリアし、最後のバルジ(岩の丸くせり出したところ)にたどり着き、クーロワールで首尾よくポンドと合流し、抱き合った。山が刻々と目覚め始めていることが分かっていたため、尾根にたどり着くまで私たちの動悸は治まらなかった。
私はボードを装着し、ポンドはスキーを履く。20年間にわたる彼流の締めくくり方がいよいよ終盤に近づき、喜びを分かち合う。苦悶や自信喪失なしに追い求める価値のあるものなど人生にはない。自身の制御できない要因にルートを強いられることは常にあるが、周囲の状況や内なる感覚に飛び込み、耳を傾けることを知れば、難局を安全に切り抜けることができるだろう。