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テキサス州西部の3世代の農家:ジェリー、アーロンとローガン・ボルジャー。3人はラメサの近くの300エーカーの土地でオーガニックコットンとピーナッツを育てながら暮らしている。Photo:Giles Clement
テキサス州西部の3世代の農家:ジェリー、アーロンとローガン・ボルジャー。3人はラメサの近くの300エーカーの土地でオーガニックコットンとピーナッツを育てながら暮らしている。Photo:Giles Clement

私たちはどのようにしてここにたどり着いたのか:オーガニックコットン

By ミシェル・ビアンキ   |   2021/04/06 2021年4月6日

サンホアキン・バレーは、西にカリフォルニアの沿岸山脈、東にシエラネバダ山脈を望み、南北400キロに渡る堆積層の盆地です。ここは6,500万年前は内海で、1920年代に農業を営んでいた人びとの記憶によると湖や河川だったそうです。しかし1995年にパタゴニアの社員が見た景観は、そのようなものではありませんでした。パタゴニアは、一般的な栽培法のコットンとオーガニック農法によるコットンについて、そしてそれらの栽培方法を学ぶために複数年に渡り社員教育の一環として、この地域で見学ツアーをはじめました。

コットンの栽培は、第一次世界大戦後にセントラル・バレー広域を変えはじめましたが、カリフォルニアがコットンの主要な生産地となったのは、州および連邦政府の一連の水管理プログラムが灌漑を拡張しはじめた1930年代でした。もうひとつのブームは第二次世界大戦後、農家が新しい除草剤と殺虫剤を広範囲に使えるようになった1950年代にやってきました。それは「農薬の黄金時代」として知られるようになり、その後数十年にわたり、農家は収穫高を上げるために化学薬品に強く依存しました。そして1990年代中頃までに、その景観は河川と湖にあふれていた頃とはかなり異なるものになりました。何十年も農業で酷使された結果、かつては肥沃だった土壌と豊富だった地下水は失われ、盆地は荒廃した月面のような景観に変わり、大気はアメリカで最も汚染されたものとなりました。

見学ツアーがはじまる何年も前、パタゴニアでは一般的な栽培法で育てられたコットンの使用をやめる必要があるなどとは誰も思ってもいませんでした。当時、アメリカのコットン生産者と輸入業者が資金提供していた非営利企業コットン・インコーポレーテッドは、コットン原料を「我が人生の生地」と盛んにマーケティングしていました。コットンは化繊に比べて自然で健康な選択であるという評判を持っていたのです。植物としてはじまったものが悪いわけはないでしょう?

一握りの社員がコットンの本当の姿を掘り起こすまでには、下準備や研究、発見に数年を要しました。

スノータイヤを搭載済み。1990年代半ばのパタゴニア ボストン・ストアのスタッフ。Photo:Patagonia Archives
スノータイヤを搭載済み。1990年代半ばのパタゴニア ボストン・ストアのスタッフ。Photo:Patagonia Archives

1988年、パタゴニアのボストン・ストアがオープンすると、社員が製品を棚に並べた直後に頭痛を訴えはじめました。その原因は、不十分な換気と衣類から放出されるホルムアルデヒドのガスにあると私たちは判断しました。この一件は私たちに責任感を目覚めさせました。

その数年後、パタゴニアはコットンを含む衣料に最もよく使われる繊維の環境への影響について第三者評価を委託しました。そして世界の耕作地の2.5%を占める一般的な栽培法によるコットン畑が、農業で使用される化学防虫剤の22.5%と殺虫剤の10 %を占めていることを学んだのです。

私たちはまず1枚のTシャツからオーガニックコットンの検証に取り組みました。その後、ベネフィシャルTという無地のTシャツを生産し他の企業に卸売り販売しました。そして、私たちはコットンの栽培方法に影響を及ぼすためには、もっと大きなコミットメントが必要であることに気づいたのです。

サンホアキン・バレーのコットン畑への初の社員見学ツアーに参加するイヴォン・シュイナード。Photo:Zack Griffin
サンホアキン・バレーのコットン畑への初の社員見学ツアーに参加するイヴォン・シュイナード。Photo:Zack Griffin

1994年、パタゴニアの創業者イヴォン・シュイナードはパタゴニアのスポーツウェア製品全体(当時166製品)を18か月以内に100%オーガニックコットンに移行せよという指示を全社に出しました。そしてそれを達成できなければ、パタゴニアのビジネスの3割を占めていたスポーツウェアの販売を停止すると通達したのです。

オーガニックコットンに移行するという決断は社員の間で静かな反乱を起こしました。それはパタゴニアが独自のサプライチェーンを構築しなければならないことを考慮すると当然のことです。それまで私たちは工場に直接発注し、工場は仲介業者からコットンを購入していました。これにより私たちは、糸を編む紡績工場や生地を織る繊維工場、ビジネス上関係のなかった農家と直接関わることになったのです。

そしてその過程には答えのない多くの疑問が存在しました。すべての製品を生産するために十分なオーガニックコットンの供給源が存在しないのなら、どこでそれを見つけたらいいのでしょう? 私たちの顧客がオーガニックコットンの衣類を要求していないのであれば、敢えてより高いお金を払ってくれるでしょうか? そしてその価格は? この試みが失敗して損失を出したら、それはビジネスにどんな影響を及ぼすのでしょう? そして誰が余りある仕事を行うのでしょう?

全社員がオーガニックコットンへ移行することについて同意すること。そのための最善の方法はパワーポイントのプレゼンテーションではないと判断したのです。当時、生地の研究開発で働いていたジル・デュメインが言ったように、「ロケに行く必要」があったのです。

噴霧の際には殺虫剤の噴煙と滴が大気によって予期せぬ場所に降りかかる。一般的なコットン栽培においては、それは他の農家、水路あるいはトラック一杯の食物を意味する。カリフォルニア州セントラル・バレー Photo: Zack Griffin
噴霧の際には殺虫剤の噴煙と滴が大気によって予期せぬ場所に降りかかる。一般的なコットン栽培においては、それは他の農家、水路あるいはトラック一杯の食物を意味する。カリフォルニア州セントラル・バレー Photo: Zack Griffin

見学ツアーで社員が発見したことは恐るべきことで、嗅いだ化学薬品は目をヒリヒリさせ、吐き気をもよおすものでした。それらは第二次世界大戦中に開発され、神経ガスとして使われたのと同じ化学薬品を吸っていたのです。そしてそれは農場労働者にも当てはまることでした。

当時POP(店頭購入)ディレクターだったテリー・レインは1990年半ばにコットン畑のツアーに参加しました。彼女は一般的な栽培法のコットン農場の調整池を見学するためにツアーガイドがバスを道路脇に停車させたことをよく覚えています。バスがアスファルトの道路から未舗装路へ移動すると、バスの車軸まで埋まるほど土表面が崩れたのです。そしてその地面があまりにも有害だったため、バスから降りてタイヤを掘り出す作業を誰も手伝うことができませんでした。地元の農場労働者が重機で牽引してくれるまで、バスの乗員はいつ帰宅できるのかと思いながら何時間も待機したのです。

セレンを含んだ排水が流れ込む調整池に到着すると、赤いトラックの脇で折りたたみ椅子に座りライフル銃を持っている男性が目に入りました。ライフルはこの有害なスープに鳥が着水しないように脅すためのものでした。

デュメインは農薬散布の飛行機がコットン畑の上空を舞い、枯葉剤を噴射しているのを見たことを思い出します。約半分の枯葉剤はコットン農場に降り注ぎましたが、残りは他の農場や水路、さらにはスイカを満載に積んだトラックの荷台に降り注いだのです。

「郊外で育った私は、政府の規制が私たちを安全に保護してくれているのだと信頼していました。でもそれらの規制はあまり施行されていないようでした。これらの化学薬品が何をしているか知っている人はいるのでしょうか?」と彼女は報告書に綴りました。

人の健康がかかっているとき、それはただ普通の野外見学ではない。カリフォルニア州サンホアキン・バレー Photo:Corey Rich
人の健康がかかっているとき、それはただ普通の野外見学ではない。カリフォルニア州サンホアキン・バレー Photo:Corey Rich

当時パタゴニアのグレート・パシフィック・チャイルド・ディベロップメント・センター(GPCDC)で働いていたスーザン・ウェルボーンは約40人の社員と一緒に初期のバスツアーに参加しました。コットン繊維から種を分別する綿繰り機を見学しているとき、彼女は機械のあるビルの外に大量のコットンの種が置かれていることに気がつきました。

彼女はそれを指差しながら「あれはどうするの?」と尋ねました。カリフォルニア・インスティチュート・フォー・ルーラル・スタディーズから雇用されたツアーガイドは、コットンの種は餌として付近の酪農場に販売されますと説明しました。また、その種はピーナツバターやマヨネーズなど人間が食べる食品に使われる綿実油としても加工されてたのです。言葉を失い目を大きく見開いたスーザンの顔を探りながら、彼は「たった今、事態に気づいただろう?」と言いました。

スーザンは、毎日3リットル以上の牛乳を飲んでいた当時4歳と8歳の息子たちを思いました。そして牛から採取されるチーズ、バターやその他の乳製品、さらに彼女の家のパントリーにある一般的な栽培法から調達された綿実油を含むかもしれない他の食品に思いを巡らせました。(アメリカ食品医薬局は人間の消費用としての綿実油を規制していません)

「それは啓示でした。その瞬間、私はすべてがつながっていることに気づいたのです」と彼女は回想します。コットン農場のツアーが継続するにつれ、パタゴニアの社内で変化が起こりはじめました。全社内でオーガニックコットンの利点を同僚や正規取扱店、顧客に伝えていく独自の取り組みがはじまったのです。当時、環境プログラムのディレクターを務めていたジル・ジリジェンは、直営店の社員を教育するためにオーガニックコットンのボードゲームを開発し、直営店の子供用コーナーのための塗り絵を作りました。前研究開発システム・アナリストのデーヴ・ガーツマンは、ダブリンや日本の海外の直営店とフランスのパタゴニア・ヨーロパ支社の社員のために、ツアーのビデオを作成しました。「プランB」がないのだから、これを成功させなければならないという意思とともに移行への熱意は高まっていきました。

結果的にはこれらの努力はすべて報われ、1996年の春夏シーズンの製品ラインでパタゴニアは100%オーガニックコットンへの移行を無事に果たしたのです。しかし問題もありました。社外の市場調査会社によると、オーガニックコットンへの移行に伴い価格が高騰したことに対して、顧客は支払いの意思はあるものの、それが2〜10%程度の増加にとどまった結果がでたため利益幅を削減しました。そして取引を開始したばかりのサプライチェーンではオーガニックコットンが不足し、パタゴニアはスポーツウェアの製品数を166から66に減らしました。この移行が成功と見なされたのは、スポーツウェア製品ラインが元のレベルに戻った2年後のことでした。

毎年秋冬シーズンに4〜5回行われたツアーは約10年間継続されましたが、サンホアキンの農家がパタゴニアが絶対に取り扱わないと決めた繊維である遺伝子組み換えコットンを栽培しはじめたとき、そのツアーは終わりを迎えました。しかしツアーの成功とその影響は社内に波及効果をもたらしたのです。

オーガニックコットンへの移行はパタゴニアのサプライチェーンに変革をもたらす最初の継続的かつ広範囲な取り組みでした。そしてそれはまた全社的な環境イニシアチブや社内外での環境教育キャンペーンを行ったはじめての取り組みでもありました。振り返ってみると、社員がこのツアーで経験した感情的かつ本能的な反応が、オーガニックコットンへの移行に必要な変化、努力と成功を鼓舞したことは明らかです。

これらのツアーは、パタゴニアのオーガニックコットンへの移行を促し、ビジネス文化全体をも変えました。私たちは一緒にある体験を共有して、何かを変える必要があることを理解し、その変化を達成するためのリスクを背負いました。そしてその結果、未知の世界へと踏み入れることは、たとえ苦難の道であっても実り得るということを証明したのです。

いまも私たちが使うバージンコットンは100%オーガニックで育てられています。私たちは2度と後戻りすることはありません。

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