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ディネ居住区の北端にある砂岩群。Photo: Ace Kvale
ディネ居住区の北端にある砂岩群。Photo: Ace Kvale

なぜ走るのか

By ミーガン・ブラウン   |   2019/04/27 2019年4月27日

この問いに答えることがなぜそれほどまでに難しいか。それを解明する一助となる、ディネ居住区北部の片隅に流れる時間。

少女は目を覚まし、光に向かって走る。黒髪が、朝日に向かって走る彼女の後ろを流れる。家族や友人の祈りを胸に、小さな足はやわらかい地面を飛び跳ね、足首のまわりに立つ赤い土埃は、窪みに溜まる。遠くへ走れば走るほど長生きすると、彼女は教えられている。だから遠方にそびえ立つ砂岩の聖塔が炎のような夜明けの光に照らし出されるなかを、できるだけ遠くへと走りつづける。そしてこの日、彼女はもはや少女ではない。

走ることについて書こうとすると、どうしても何かがしっくりこない。孤独の共感や苦痛の快感をうまく置き換えてとらえることができるような体験は、他になかなか存在しない。そこには逃避があり、神の摂理があり、対立がある。あるいは抑えられない興奮や、たんなる慣習でしかないことも。なぜ走るのかと、ランナーはいつも聞かれるが、その答えが複雑すぎる理由はまさにここにある。ほんの1歩に100 万の理由が秘められているかもしれない。その質問をする人が完全に理解することも決してないだろう。なぜなら答える人にもわからないから。ときにそれは、ただ走るということ以外の何ものでもない。

キャシー・ネズツォシーは、兄弟や従兄弟たちと一緒に午前4時に祖父に起こされて走っていた朝を思い出す。「外はまだ暗くて、私たちが起きるのを拒むと、顔に冷水をかけられることもありました」と言う彼女は、ディネ(ナバホ族)居住区の北東部の端にある、やっと目に見えるぐらいのベアーズ・イヤーズという双子のビュートの方を見渡す。緑色のフーディを耳までかぶり、ジッパーを顎まであげて、淡々と語る。「従兄弟も、兄弟も、皆で走りました。祖父は私たちに自制心を教えようとしていたのだと気づいたのは、あとになってからです。私たちに強い心臓と強い心をもってほしかったのです」

結婚後、キャシーは北部のナバホ・マウンテンへと移り住んだ。その山はユタ州とアリゾナ州をまたいでそびえ、一番近い食料品店までは145 キロメートルほども車を走らせなければならない。電気や水道が通っている家はほとんどない。学校はあるが、それも1974 年に学生と保護者が平等な教育を求めてサンファン郡当局を訴えた結果できたものだ。ナバホ・マウンテンはナバホ語で「ナアチッサーン」とも呼ばれ、周囲には曲がりくねった斜交層理のキャニオンが広がり、羊や牛の群れが放牧されている。標高3,166メートルの山頂は、マグマが堆積岩に貫入して上面をドームのように膨らませた、ラコリス(餅盤)状になっている。

馬と一緒に柵を修理中。
馬と一緒に柵を修理中。

1864 年、ディネの一団が、浸食によって形成されたキャニオンの迷路に身を隠した。現在では「ザ・ロング・ウォーク」として知られる強制移住によって、他の部族民たちがボスク・レドンドへ徒歩による移動を強いられていたなかでの出来事だ。昨年、その流刑の終焉の150 周年記念として、数名のランナーたちが同じルートの約650 キロメートルを段階的に縦走した。

ここでは星が野生に満ちた輝きを放つ。ニューメキシコを舞台に物理学とスピリチュアリティについて書かれた不思議な本『Fire in the Mind』には、次のように述べられている。「「黒の神」が天に星の結晶で星座を並べ、それらに火を点けた。けれども神がそれを終える前に、コヨーテがその残りを盗み出し、お構いなしにばら撒いた。」

ネズツォシー家の牧場は実際にはアリゾナ州内にあるが、ナバホ居住区の全土はユタ州の時間帯に準ずる。そのため州境の周辺をたった数メートル歩くたびに、携帯電話の時間が1 時間前後ずれることがある。北西には、州境をはさんでレイク・パウエルがある。ここはヘイデュークやゼイン・グレイの世界。野性的で、荒々しく、無情で、息を呑む美しさが広がる土地である。

キャシーと彼女の夫はここで子供を育てた。現在では息子のイーライが家族の土地を管理している。そして彼もランナーである。

牧場を囲む柵を走りながらチェックするイーライ(と、彼のランニングパートナーである犬のトラクター)。Photo: Ace Kvale
牧場を囲む柵を走りながらチェックするイーライ(と、彼のランニングパートナーである犬のトラクター)。Photo: Ace Kvale

少年は目を覚まし、バスに乗るために、家族が所有する土地のでこぼこ道を全速力で駆ける。牛の群れを通り過ぎ、路肩の段差を飛び越え、通学の黄色いバスを捕まえるのにぎりぎりの時間にハイウェイにたどり着く。彼の目的は別にある、と言うのは彼の母親。しかしまだ子供の彼にとって、走ることは意図的ではなく、必要不可欠な行動である。

ディネには走ることにまつわる儀式がたくさんある。しかしそれについて語ってほしい、あるいは儀式の意味について教えてほしいと頼むことは、宇宙の起源について説明できる人を探すようなものだ。それは不完全で、種類が多すぎ、誰もが少しずつ違うことを信じているから。

ピーター・ナボコフは1981年に出版された自著『IndianRunning』のなかで、ディネにとって「走ることとは、感情とつながること、つまり人生の中心的存在であり……ナバホ族の定着の様式から癒しの儀式まで、絶え間ない動きがモチーフとなっている」という洞察を書いた。あるディネの物語には、競走相手の目をくらませたり欺いたりするために道におしっこをかける、カエルのランナーが登場する。また別の物語では、モーニング・スター(明けの明星)とイブニング・スター(宵の明星)という双子が、ズニ族、アコマ族、ディネ族にトウモロコシを配分するためにレースを企画する。それぞれの部族から一番足の速い男たちが選ばれ、モーニング・スターがトウモロコシを3つに割ると、ディネ族が最初に、アコマ族が次に、ズニ族が最後に完走した。ナボコフの本に記録された物語は次のようにつづく。「モーニング・スターは困ったが、双子の弟はなだめた。『それでいいのだ。ナバホは最俊足のランナーで、つねにある場所からまたある場所へと移動する。トウモロコシの世話をすることはできまい』と。だからナバホ族は、定住民族のプエブロ族とは異なり、いまでも夏と冬の住居を行き来している」

家族の牧場の近くで砂岩が形成した自然のアーチを通過するイーライ。
家族の牧場の近くで砂岩が形成した自然のアーチを通過するイーライ。

思春期を迎えたキャシーは、若い女の子のための儀式である「キナアルダ」に参加した。「変化する女性」という物語をもとにした、祝祭の儀式である。この一環として、彼女は可能なかぎり遠くまで走ってから戻ってくるようにと指導された。この儀式によって、少女は心身ともに鍛えられる。キャシーはこの4 日間、毎朝早朝に起き、昇る太陽に向かって走ったことを覚えている。髪は三つ編みにされ、トウモロコシの粉で作ったケーキが焼かれ、長老たちが彼女を導いた。「あの儀式の意味はまったく覚えていません」とキャシーは言う。「母に聞いてみます」

イーライにとって、走ることは、彼が説明したくない物語というわけではない。彼にとって走ることは、ランニング以外の何ものでもない。それは経済的で、実用的で、基礎的だ。「僕なりのストーリーを話して、それが間違いだったなんて嫌だからね。誰かに9.5 の平方根は何かと聞かれて、きちんと調べたり計算したりせずに適当な数字をでっち上げるようなものだよ」と彼は言う。彼にとって走ることは、自分の生涯を通してやってきた仕事に近いものだそうだ。「牧場主として育ったおかげで、ランニングのベースができた」と語る彼は、祖父母が建てたホーガンの中にある薪ストーブの傍に座る。「決してあきらめない、ということを教えてくれた。外がマイナス18 度でも38度でも。真夜中でも2 日間寝ていなくても、やるべき仕事はある」 イーライは『孫子』を少なくとも2 回は読破し、その本のおかげで彼の戦略的センスと自制心が養われたと言う。「毎日外へ出て、走る距離を伸ばす。たとえ面倒くさいと感じる日でも。そんな日こそ、自制心が大切なんだ」

イーライと同じように、走ることにつねに精神的な意義があるわけではないことを説明するのに苦労するディネは他にもいる。「数年ごとに、ナバホ・ランナーについて誰かが本を書こうとする」と言うのは、〈ウイングズ・オブ・アメリカ〉の事務局長であるダスティン・マーティン。同プログラムはサンタフェを拠点として、ランニングと若者のリーダーシップを奨励している。「僕らはただのランナーなんだ。それに、とても高い競技レベルをもっていることも証明済みだ」と語る彼は、ディネが「順調」にやっている事実をランニングが証明してくれることを願っている。

男は目を覚まし、靴のひもを結ぶ。太陽は地平線から顔を出したばかりだ。彼には仕事が待っている。だが、まずは走る。なじみ深い大地を、彼の故郷に広がる牧場の道路やトレイルが編んだ模様や起伏を、足で感じながら。彼が追うものは、ランニングが必要とする自制心だ。

イーライの子供時代、バスに乗り遅れたときは、バスを捕まえるために実家からハイウェイまでの道のりを走らなければならなかった。大人になった彼は、自分で修理した小型トラックを走らせる代わりに、ひとつひとつの牧柵の入り口を走ってまわることにした。放牧した牛たちが逃げないよう、家族牧場の周囲24 キロメートルに施した柵だ。「僕の人生は必然性に基づいている」と月が昇る様子を窓の外に眺めながら、イーライは言う。「何かをやり遂げる必要があって、それをやる人が他にいなかっただけ」

しかし、そこには彼が言うよりもっと隠喩的な意味がある。イーライは自分の考えを次のように締めくくる。「走ることは、自分の人生に欲しいものを追いかけるということ。はっきりとした展望や目標がなければ、ただ闇雲にさまようだけ。最高のトラックを持っていても、目的地がなければ同じ場所をぐるぐる回るだけ」

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