マントック0における不完全なる登攀

ジャック・クレイマー  /  読み終えるまで12分  /  クライミング

アラスカで危機一髪の経験から得た教訓。

「ボーリング場」に出向くグラント・クリーヴス。アラスカ州イェントナ氷河

全ての写真:Drew Smith

最初に落ちてきた石は教科書ほどの大きさだった。白っぽい花崗岩の塊は見とれてしまうような速度で宙を舞い降り、岩に当たって跳ねかえった。2つ目の岩が落ち、俺の左足首を強打した。その衝撃で無様な旋回をさせられた俺の体はアンカーにだらりとぶら下がった。

こりゃあフェアじゃないぜ、と思った。ここにいるはずじゃなかったんだ。

マントック0における不完全なる登攀

飛行機内から見たアラスカ山脈第2の高峰、マウント・フォレイカー(別名スルタナ)。

2021年4月のアラスカで、俺たちは無名峰の雪に覆われた東面の中間あたりにいた。少なくとも東面だと思っていた。だが腕時計を見ると、とっくに正午を過ぎているにもかかわらず、まだうだるような日差しのなかにいた。上の方の斜面も同じ太陽光をガンガン浴びている。この最初の落石が最後であるという保証はまったくなかった。

ここに来た目的はマウント・ラッセルに新ルートを開拓することだった。この三角形の大山塊はアラスカ山脈中部の南端にそびえ立っていて、古い写真と衛生画像と地元のうわさ話から、その未登の北西面を登るお手頃なラインがあることを確信した。

最小限の努力で最大限の栄光をつかむことを見込んだ。あとはそこに行くだけだ。

数か月間のトレーニングと準備を終えて目的地に向かう小型飛行機の機内で、俺たちの士気はどんどん高まった。だが岩壁の下にあるチェドトロットナ氷河の積雪が不十分で、パイロットは着陸を取りやめて俺たちを約15キロ離れた場所に大きく広がるイェントナ氷河に降ろした。距離は克服できたかもしれないが、いくつかの氷河に妨害されたせいでマウント・ラッセルでの登攀は現実的な選択肢から外さざるを得なかった。しばし己をあわれんだが、すぐに無数の可能性に囲まれていることに気づいた。それでラッセルにこだわるのは止め、イェントナ氷河の周りにある無名峰のひとつに登る計画を立てることにした。

マントック0における不完全なる登攀

マントック0への早朝スタートの前に光のショーを鑑賞。

予定外のベースキャンプでの初日、俺たちはこの地方への過去の遠征記録に目を通した。情報は少なく、クライマーが数年に一度くらいのペースでイェントナ氷河のメジャーな場所を訪れる程度だった。2000年代後半にフレディ・ウィルキンソンと並みいるパートナーたちが最も良さげなルートを何本か登頂していたが、スキーで軽く偵察するとまだまだ数多くの未登ルートが残っていることがわかった。

ドリュー・スミスとグラント・クリーヴスと俺は、新雪の海に浮かぶ岩の島に座って計画を練った。アメリカ西部の田舎の労働者階級家庭で育った2人は物腰がやわらかく心底親切で、それは日常的に不機嫌な俺の性格をいい具合に中和してくれた。

ともにクライミングをしてきたこの10年間、ドリューは一貫してこぎれいで冷静で前向きで、雪洞を共用するには理想的な相手だった。対照的にグラントは平地では歩く災いのようなところがある。だが急峻な氷壁でグラントほどすばやく優雅に動く人間には、これまで出会ったことがない。

バターとココナツで強化したコーヒーを飲みながら無名の尖峰にタグを付ける構想を練った。お目当ての峰はマントックⅡとマントックⅠを過ぎた稜線上にある。だから「マントック0」と呼ぶことにした。東面の一連の雪斜面と狭いクーロワールをリンクしながら登って薄氷に覆われた尾根に到達したら、そこから頂上を目指すという構想だった。

マントック0における不完全なる登攀

「上を向くと、電子レンジほどの大きさの凶器が宙を落ちてくるのが見えた。それは一度跳ねかえって複数の小さな塊を飛び散らせ、グラントがアイスアックスにしがみついている場所の数メートル上の雪面に衝突した」

夜、不気味に輝く弱いオーロラの下を出発した。不安が俺たちを無口にさせ、たまに吹き降りる突風の音以外に聞こえるのは一定のリズムで自分たちのスキーを滑らせる音だけだった。強い疑念と楽観が交互に俺の頭をよぎった。北極近くでわずかにのぞく太陽は上には昇らず、地平線を横に滑っていく。夜明けが永遠につづくかのようだった。

岩壁の基部に着き、慣れた作業に思考がめぐると正常が戻った。アプローチに予想の倍の時間がかかったことを冗談のネタにしながらハーネスを締め、クランポンを付け、ロープを積み重ねた。ギアラックを装備するグラントの横で、ドリューが聞いてきた。「アラスカにしては、ちょっと暖かくないか?」

俺の野心が現実を否定するための口実を探しているあいだ、ドリューの疑問は宙を漂った。沈黙が俺にその現実を受け入れさせる前に、ドリューはルート確認の質問を口にして沈黙を破った。話題が変わって俺はほっとした。数分後、グラントが最初のリードに着手した。

山の下部を登っていると、周りの印象的な景色が見えてきた。氷と岩が四方八方に広がり、未登の尖峰が次から次へと姿を現した。人間の存在を示すものは俺たちが残したスキーの跡だけだった。

ふくらはぎまで埋まる雪を突き進みながらグラントとドリューがそれぞれ長いリードを終え、俺の番になった。ほんの数分で汗が出はじめる。ウェアを脱いでベースレイヤー1枚になったが、それでも汗は止まらない。暑さは否定できなかった。俺は上へと進みつづけた。

マントック0における不完全なる登攀

マントック0での危機一髪の数日後、3人は別の未登峰に挑んだが、ルート上で一昼夜を過ごしたのち、ふたたび撤退を余儀なくされた。

そのうち傾斜がきつくなり、頭上にあるやや手強そうな箇所に備えて小さなスラブの基部でピッチを切った。グラントとドリューが近づいてきた。そのとき最初の落石が起こり、俺の足首に当たった。痛みのあとに安堵を感じたものの、山はフェアじゃないという理不尽な不満が湧き上がった。立ち上がって足首を動かしてみた。当然ながら痛みはあったが、まだ機能する感じがした。

「このスラブの下なら大丈夫だと思ったんだけどな」と俺は謝った。「全然、安全じゃないな」

12メートルほど左にある急峻な岩壁に走るクラックを、ドリューが指差した。グラントはすでにそこに向かうべく、トラバースしはじめていた。しなやかな筋肉質の体がロボットのように規則正しく、効率よく動いた。左手のアイスアックスを打ち込んで、左足を移動する。右手のアイスアックスを打ち込んで、右足を移動する。繰りかえし、繰りかえし。

半分ほど進んだところで、グラントはチリ雪崩に足止めを食らった。サポート精神旺盛なチームメイトのドリューと俺は、細かい雪がグラントの襟や袖に入りこんでいくのを見て声を立てて笑った。ようやくチリ雪崩が止むと、グラントは猛進した。だが別の岩が落ちるズシンという音で、ふたたび止まった。

上を向くと、電子レンジほどの大きさの凶器が宙を落ちてくるのが見えた。それは一度跳ねかえって複数の小さな塊を飛び散らせ、グラントがアイスアックスにしがみついている場所の数メートル上の雪面に衝突した。雪煙が舞い上がり、ぞっとするようなうめき声が聞こえた。

ドリューはだらりとした体が落ちてくるのに備え、衝撃を弱めるためにロープをしっかりと握った。だが雪煙がおさまると、グラントはまったく同じ場所にいた。

「グラント!大丈夫か?」と俺は叫んだ

沈黙。

「グラント!返事してくれ!」とドリューが訴えた。

さらなる沈黙。

「うーん……オ、オレ」とグラントが口ごもった。「大丈夫だと思う」

グラントはゆっくりと頭を左右に動かした。

「よかった!」と俺は叫んだ。「じゃあ、そのまま登るんだ!」

「どこへ?」とグラントが聞いた。

ドリューと俺は不安げに視線を交わした。

「そのまま左に」とドリューが落ち着いて言った。「クラックの方へそのままトラバースして」

「ああ、そうだった」とグラントは思い出した。「ちょっと待ってくれ」

グラントは長く深く息を吸い込んだ。そしてトラバースを再開した。それまでのロボットのような正確さが不規則な動きに変わったように見えた。

マントック0における不完全なる登攀

日差しがそれほど強くない日のアラスカ山脈での登攀。

ドリューと俺はグラントの進み方に愕然とした。グラントがクラックの基部で雪を蹴りはじめると、俺たちはまたしても不安な視線を交わした。明らかなクラックにアンカーを設置するのに四苦八苦しているのが一目でわかった。待つのは苦痛だった。ますますどうしようもない遅れから気を紛らそうと、ドリューはロープの結び目を何度も結びなおし、俺はハーネスをいじくった。グラントが「ビレイ解除」と叫ぶやいなや、俺たちは大急ぎで向かった。

グラントのところに着くと、砕けたヘルメットと大きく裂けたバックパックが目に入ったが、グラントはいつもと同じ優しい微笑みを見せた。そしてさらなる落石から俺たちを守るオーバーハングの岩の下に、なんとかビレイアンカーを設置していた。ドリューがグラントの頭と肩をじっくり調べたが、小さなすり傷がひとつあっただけだった。俺がいまどこにいて何が起きたかを聞くと、グラントはすべて正確に答えた。妙な静けさに包まれた。ほんの少し前、俺たちは未登の岩壁を600メートル登ったところで落石に遭った。いまは安全だ。

俺たちは日が陰って近くの斜面がふたたび凍るのを待つことにした。そのおぞましい場所に身を置きながら、暑さにもかかわらず登攀を決めた選択に、俺は愕然とした。皆、感情的になっていた。雰囲気はよくなったが、アドレナリンの効果が消えると会話は途切れた。それにつづく沈黙のなかで、俺は自分の誤りをじっと考えた なぜ、あれほど明白な前兆を無視したのだろうか。

認めにくいが、山の極端な暑さを無視したのはじつはこれがはじめてではなかった。3年前、よどんだ大気と直射日光が巨大な落石を引き起こし、パートナーの脚を打ち砕いた。近くにいた数人のクライマーの助けとアルゼンチン陸軍のヘリコプター、そして辛く長時間にわたる救出により、彼女は辛うじて生き延びた。自分がその苦い経験から学ぶことができなかったという思いは、直視できないほど腹立たしかった。俺のリスクに対する許容度は、 なぜこんなにも狂っているのだろうか。

一部のギャンブル中毒者のあいだでは、カジノにはじめて行ったとき最もラッキーな人間が得ることができるのは有り金すべてを失うことだ、という信念がある。最初の損失のあまりの痛手に、その後一生涯カジノテーブルやスロットマシーンには近づかなくなるからだ。

マントック0における不完全なる登攀

この旅2つ目の未登峰のまだ見ぬ世界に足を踏み入れるグラント・クリーヴス。

その論理からすると、俺が山で過ごした最初の10年は極めてアンラッキーだったと言える。年々ますます低くなる勝算に対して、俺は着実な成功を享受した。そしてその感覚がさらなる成功への飽くなき意欲を助長した。

目標にともなって技量が上達するうちはそれが可能だった。だが最終的に技量は追いつかなくなった。俺はその不足をリスクを負うことに置き換えた。それでもう少しのあいだ成功を味わうことができていた。

その置き換えは簡単だ。セーフティギアの数を減らしたり、ロープなしで登ったりするのは、スピードを大幅に速める解放感に満ちた選択であり、そうした選択が成果を上げると、たいていは称賛される。

あの朝、俺たちは快晴の天気予報と異常に暖かい気温を無視するという選択をした。無視したことにより、登るべきではないとわかっていながら、その日に決行する機会を得た。この誤りがどのように危うい惨事につながったかに焦点を当てるのは簡単だが、それ以上に恐ろしいと思うのは、この同じ誤りがどのように成功に終わったかという点だ。落石が起きたとき俺たちがほんの数十メートル上にいたら、俺たちと頂上のあいだに障害物はほとんど存在しなかった。俺はもうひとつのギャンブル、もうひとつの大当たりに近づいていた。

俺がこのことに気づいたとき、周囲の影は濃くなっていた。それ以上の落石はなく数時間が過ぎ、俺たちはためらいがちに下降を決めた。まずは俺がアンカーと足首への負荷を最小限に抑えながら慎重に懸垂下降をした。グラントとドリューもそれぞれの物思いに耽りながら無言でつづいた。懸垂下降とクライムダウンを繰りかえし、氷河の安全な場所に戻った。

翌日はゆっくり寝ていようと思ったがテント内の気温はあっという間に熱帯レベルに達した。目が眩むような日光の下で、助かったことを祝してシャンパンで乾杯した。手にした金属製のカップにはコーヒーの染みがあり、コーヒーの酸味が甘い泡を台無しにした。俺たちの高揚感も、消し去ることのできない敗北感という酸味に台無しにされた。

マントック0における不完全なる登攀

(左)濡れた足を乾かす。(右)ベースキャンプで日光浴をする著者。

俺はいまもあの奇妙なカクテルについて考えている。それは喜びと悲しみが配合されていた。落石を逃れて登頂に成功していたら、あの雰囲気はどう違っていたのだろうか。成功のオーラは意思決定に関する懸念など覆い隠していただろう。

逆に、危険な暑さを認めてベースキャンプで引きかえしていたら、祝杯をあげることはなかっただろう。正しい選択だったのだろうが、それを裏づける反応は得られなかっただろう。

登頂という点ではこの旅は失敗だった。だがその事実にともなう失望に対して、俺はますます感謝の念を深めている。それはもちろん不快な感情だが、リスクに対する俺の心構えを矯正する貴重な反応だ。山頂を目指すことを止めるつもりはない。だがもう少しの運ともう少しの失敗で、山でより賢明に賭けをすることを学ぶかもしれない。

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