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パタゴニアックを撮ろう

ジェニファー・リッジウェイ  /  読み終えるまで11分  /  コミュニティ

本領を発揮:高い机の後ろに座り(下には1人か2人、子供がいたかもしれない)スライドを選別するジェニファー。使いたい写真を選び、残りは送りかえし、取っておくものはキャスター付きカート(毎晩、耐火金庫に押し込んだ)に収めた。Photo:Patagonia Archives

パタゴニアは写真のスタイルをどのように見つけたのか

ジェニファー・リッジウェイが70 歳の誕生日を目前にして癌で亡くなったのは、1年前の先週のことでした。私たちはパタゴニアの創業メンバーであり、35 年ものあいだ私たちの社会に欠かせない不変の存在だった彼女が恋しいです。最近引退した彼女の夫リックはパタゴニアのグローバル・アウトリーチを指揮し、彼らの3人の子どもたちのうち2人もパタゴニアに勤務しています。ジェニファーはイヴォン&マリンダ・シュイナードのよき相談役であり、彼らの子どもたちにとっては叔母同然でした。ジェニファーの後任者となったジェーン・シーバートは、彼女が多くのパタゴニア社員にとって「スピリチュアルな母的存在であり、禅マスターでもあった」と言います。

パタゴニアの初代アートディレクター兼写真編集者として、ジェニファーはイヴォンとともに「パタゴニアのイメージ写真」を確立しました。カタログ上でウェアをまがい物のように表現していた当初のぎこちない試みをすべて払拭したのです。そのスポーツに関してまったく無知である著名な写真家に、彼らが訪れたこともない場所で、その決定的瞬間をとらえてもらおうとするのではなく、カメラの使い方を知っているダートバッグ族を育てたのです。そしてそんな輩たちの多くは、ジェニファーが授けた簡潔なルールを手に素晴らしい経歴を築いていきました。彼女は撮る人も予期していなかった、思いがけずも説得力のある1 枚を選び抜くことのできる慧眼の持ち主でした。それはクライマーやサーファーがスポーツに取り組んでいる場面だけでなく、農家や音楽家、野鳥調査員などの活動にまで及びました。

彼女の一周忌にあたり、私たちは彼女の古典的エッセイ「パタゴニアックを撮ろう」をいよいよオンラインで掲載するときが来たと思いました。これは1986年のパタゴニアのカタログに初出し、のちに「Unexpected: 30 years of Patagonia Catalog Photography」に再掲載しました。ここに掲載しているのは、彼女自身によるわずかな修正以外にはほとんど手を加えていない、オリジナルのままのエッセイで、私たちの記憶どおり、魅力的です。—編集者

話をはじめるのは、私の人生のこの章のはじまりからとすべきでしょうか。1981年の春、カルバン・クライン製品用のシルクを見るためにバンコクを訪れた私はニューヨークへ戻る途中、デリーでの乗り継ぎ便に乗り遅れてしまいました。空席のある次の便までの3日間をデリーで過ごす気にもなれず、キャット・スティーブンスの歌からひらめいて、私はちょっとカトマンズまで探索に行ってみることを思いつきました。その日はたまたまエイプリルフールでした。私は「ヤク&イエティ」という名前のホテルのロビーでジントニックをすすりながら、このエスケープに我ながら上機嫌でした。と、ある男が1杯のジントニックを差し出しながら自己紹介をしてきました。

「僕はリック・リッジウェイ。いま『ナショナル・ジオグラフィック』誌の特集で、エベレスト(サガルマータ)国立公園について取材をしているところなんだ」私は3日間の気まぐれ旅行で来ているのだと言いました。すると驚いたことに、彼は迷いもせずに私を3週間の「トレッキング」の旅に誘ったのです。

「経費でルピーの札束がたくさん残ってるから、君のためにシェルパの大軍を雇うよ。一緒にナムチェ・バザールでレミーマルタンを飲んで、クンブ氷河のうえでヤクのステーキを食べようよ」

「でも、私が歩いたことのある最長距離は…」と私は抵抗しました。「フィフス・アベニューでタクシーを降りてからバーグドルフ・グッドマンの入口までなのよ」

そのとき私が持っていた靴のなかで底がいちばん平らだったのは、7.5センチ丈の皮製のブーツでした。だからもしその彼の誘いに乗っていたら、私たちの子供たち、カリッサ(3歳)とキャメロン(3か月)はこの世に産まれていなかったことでしょう。振りかえってみると、それからの物語の展開にはいまでも驚かされます。何しろリックは、技術的に最も登攀が困難とされているK-2を登頂したことのある人だったのですから。

「そうか、じゃエベレスト国立公園に一緒にトレッキングに来れないんだったら…」彼はしつこくねばりました。「僕がアメリカに戻ったら遊びにおいでよ」

「どこに住んでるの?」

「モンテシートのすぐ南にちょっとしたビーチハウスを持ってるんだ」

それが賢い方法で呼んだベンチュラのまたの名だったと気づいたのは、実際に3か月後に彼を訪ねたときでした。私はビバリーヒルズのニーマン・マーカスで展示会の仕事をしていたのですが、サンタモニカからベンチュラ/オックスナード行きの飛行機は2時間も遅れていました。だから私が到着するころには空港内にあるバー「レッド・バロン」のハッピーアワーが終わるころで、私を迎えてくれたイヴォン・シュイナード、ナオエ・サカシタ、そしてリックの面々は、すでにそれぞれ4杯の特大マルガリータを消費していました。

仕事が終わってから着替える暇もなかった私の方は、カルバン・クライン製のシルクのバレリーナドレスとパールのアクセサリー、13センチのヒールという出で立ち。彼らに迎えられたときに最初に私の頭に浮かんだのは、「これじゃ、3人の酔っ払いの小人に出迎えられているみたいだわ」でした。

そしてゴーファーモービルと呼ばれるシュイナード・イクイップメントの社用車、つまり「錆びついて穴だらけでドアはひとつしか開かない1969年ダットサン」の油染みだらけの座席に乗り込んだとき、もうひとつ別の浅はかな思いが浮かびあがりました。「私の着ているドレスは少なくともこの車の4倍の値段はするんじゃないかしら…」

そんなことにもかかわらず、リックは私の心をつかむことに成功して(彼はしつこいって言いましたよね?)、5か月後には私たちは婚約を交わし、1982年のバレンタインデーに結婚したのでした。その後の計画として、まずは私がマンハッタンのアッパー・イーストサイドのアパートからモンテシートの古めかしいコテージ──実際はホッタテ小屋と呼ぶ方がふさわしいかも──に引越してくることでした。それは別に問題ありませんでした。けれども私は仕事がしたいと思いました。「コテージ」で植木に水をやりながら何となく過ごすのではなくて、自分の仕事が欲しかったのです。けれどもベンチュラでは、私に合う仕事は見つかりそうにもありませんでした。

「親友のイヴォンに何か仕事を探してもらおう」とリックは言いました。

「何をするっていうの? ピトンだとか何だか知らないけど、山に登るときに必要な金具類でも作れってこと?」

「いやいや、君にはパタゴニアで働いてもらうのさ」

そしてパタゴニアの専務だったクリス・マクディビットとの面接を取り持ってもらうことになりました。10代のころからこの会社で電話での卸売り注文を受けていた彼女は、1日に注文がありすぎるときはそれらは無視してしまうという手腕家だったそうです。

「12歳のころにモデルをはじめて、高校、大学時代とつづけてきました」と、私は自分の経歴を説明しはじめました。「大学卒業後にニューヨークに出て、サックス・フィフス・アベニュー、バーグドルフ・グッドマン、バーニーズ、ニーマン・マーカスなどでカルバン・クラインの新着デザイン展示会の仕事をして、ニューヨークやパリ、ミラノ、東京などをまわりました」

「素晴らしいわね。では、広告部に入ってもらうわ」

「広告?」

「そう、広告部を組織立てて作っていくような人材が必要なのよ」

「でも私、広告のことなんて何も知らないんですけど」

「大丈夫、ここにいる人も誰も知らないから」

そしてその年、古いビルの上階にある「ザ・ボックス」と呼ばれる3メートル×1.5メートルの拷問部屋を、他の4人とシェアしながら仕事がはじまりました。そのうちの1人は食パンにピトンでマヨネーズを塗りたくったサンドイッチを、カロリー摂取量を保つために1日10個も食べるような貧乏クライマーで、セロリとトマトジュースで育った私のような人間には好奇心をそそる光景でした。その夏の室内温度は45度を超え、温度計が1度上昇するたびに、モンテシートは北へと遠のいていくように感じられました。そしてその秋、リックは七大陸最高峰に挑みはじめました。その結果、彼がどれだけ家を留守にしていたかは想像できるでしょう。

職場に何を着ていけばよいかにはいつも困っていましたが、仕事自体は楽しいものでした。最初の数か月は広告、アート、広報の担当で、カタログのコピーを書くことまでまかされていました。やがて「ポリプロピレン」という語のスペルを正しく書けるようになると、長袖長ズボンの下着(必ずしもファッション性の高いものではありませんでしたが)の広報活動をはじめるために、メディアとの交渉やプロセールス・プログラムの設立、またカタログ制作を管理し、写真部を作りました。そしてその秋、「イメージ写真」を掲載したパタゴニア第2号のカタログを出版しました。それははじめて予定どおりに出版できたカタログでもありました。

その後4年間で会社は10倍に成長し、第1子のカリッサと第2子のキャメロンの誕生とともに、リッジウェイ家も4倍に成長しました。私は仕事の量を減らし、いまは写真家と一緒にカタログや広告やポスターなどに使う写真の収集や編集など、いつもいちばん楽しくやってきた仕事を担当させてもらっています。私たちはパタゴニア専用の写真撮影を写真家に前払いで依頼することはありません。完全にヤマを張った方法で写真家に依頼をしています。それは友人であったり、友人の友人であったりすることが多いのですが、彼らがどのような遠征やサーフトリップに参加するのか、また世界のどのような魅惑的な場所に行くのかを聞き、その旅にパタゴニアのウェアを持っていってもらうのです。それが、私たちが多種多様な写真を手に入れている秘訣です。たった1人あるいは数人の写真家の先見ではなく、何百人、もしくは何千人もの写真家の先見の明が加わるのです。こうした写真を使うのは、机やテレビの前に座ったまま動かない人びとをそこから脱出させるきっかけとなり、また「その世界」にいることを想像させるためです。座ったままでいないで外に出て行こう、というメッセージなのです。

魅力的な世界級のクライマーやサーファー、スキーヤー、カヤッカー、フィッシャーマン、マウンテンバイカー、セーラーたちなどを集めてチームを構成し、スポーツに重点を置いた彼らの写真を提供してもらったり、編集に協力してもらったりもしました。リックはこれらのスポーツのうちフィッシング以外にはすべて通じていたので、彼にも手伝ってもらいました。そして最終編集はイヴォンが目を通しました。チームのメンバーは1人として靴をはくことがなく、私も13センチのヒールやパールを身に着けることを止め、シルクドレスも着ることがなくなっていきました。

私はアマチュアの写真家とプロの写真家の両方と働いています。そして、『パタゴニアックを撮ろう』と題してカタログに一般からの写真を応募しはじめてからは、投稿される写真にはすべて目を通しています。そして正直なところ、ときにはかなりおかしな写真も含まれています。

最も一般的な写真はさまざまな山の登頂を撮った写真でしょう。片手を腰に、もう片方の手を目の上にかざして、征服した領域を眺めている姿です。またなかなかの「ゴンゾ」スタイル(パタゴニアで働きはじめるまでは耳にしたことのなかった言葉でしたが)の写真も目にします。つい先週などは、牛がベビー用のバンティングを身にまとい、鹿がパイル製のバラクラバを頭にかぶっている際物の写真が送られてきました。数年前にベビー用ジャケットを着てゴーグルをしている犬の写真を使って以来、ある種の流行がはじまったようで、いまでは週に最低1枚はパタゴニア製品を身にまとった犬の写真が送られてきます。

けれども、私たちは誰かが夢の瞬間をとらえた写真を送ってくれるのを、まだ待っています。それには3倍、いえもしかしたら4倍もの報酬を支払うでしょう。その私たちが本当に求めている(イヴォンが本当に求めている、と言うべきでしょうか)写真とは、ドクター・ハンター・S・トンプソンがパタロハ・シャツを身にまとい、タバコ用パイプを口にくわえてバイザーを目深くかぶり、そしてテッド・ケネディとビリヤードをしているという写真です。

それが「イメージ写真」というものです。

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