精神を独立させる

マアルック・ウォーレン・ジョーンズ  /  読み終えるまで18分  /  アクティビズム

文化、覚醒、主体性について語るユピック族の哲学者。

アラスカ州アンカレッジのすぐ外、チュガッチ山地の近くにあるターンアゲイン・アームで、凍った沼地に立つ著者。ここは秋にブラッククロウベリー(ガンコウラン)の実を摘み、冬にファットバイクに乗るのに格好の場所。Photo:AshAdams(Assistant:SarahPulcino)

Ellange(エランゲ):覚醒すること。その記憶が永遠に残る最初の体験をすること。ellanguq(エラングック):彼は覚醒した/Maaten-gguq ellanguq mat’umun nunakegtaarmun tanqircetqapiarluni camek-llugguq cali nalluami yuucini-llu nalluamiu murilkessiyaagpek’nani/彼女が輝かしく美しい世界を自覚したのは、そのときだったという。まだ何も知らず、自分が人間であることさえ知らなかった彼女は、じっくりと見ることをしなかった。——ユピック・エスキモー辞典第二版(スティーブン・A・ジェイコブソン編纂)より

私は自分が覚醒した瞬間を覚えています。それはアラスカ州ノームの外れ、フォート・デイビスにあるベン爺さんの小屋で、漫画を読みながら眠ってしまったときでした。近くにはノーム川が流れていました。母は、私は子どものころサンタの本で、独学で読み方を覚えたのだと言いましたが、そんな記憶はありません。でも『リバーデイル』のことはよく覚えています。(いつもアーチー・コミックに鼻をうずめていた私のことを、ベン爺さんは「コミック」と呼んだものです。アーチー・コミックは異質な世界、ゆくゆく私が住むことになる世界への窓口でした。)

ラジオからは、ユーリズミックスの「ヒア・カムズ・ザ・レイン・アゲイン」が流れていました。

その曲は私の夢の一部になっていました。まるで赤色のレンズを通して見ているかのように、すべてが赤く染まっていました。私は永久凍土が融解して形成されるサーモカルストの縁にいました。下の方の層が皮膚のように剥がれ落ちていき、私はアーチー・コミックのキャラクター全員と一緒に、その縁を取り囲んでいました。

サーモカルストを中心に、万物がぐるぐると回りはじめました。曲は流れつづけ、私は回り、アーチーのキャラクターたちも回り、私たちは一緒にぐるぐると回りつづけました。そしてそのとき、眠りから覚めました。

その小屋のことは覚えていて、あのとき自分がどこにいて、誰であるかもわかっていました。夢のなかの曲は知らない曲でしたが、いまでも鮮明に覚えています——エラングック(ellanguq)——私は覚醒したのでした。それは独自の覚醒、私だけにしか認識できない誕生日のようなもの。あの瞬間より前の記憶もありますが、それらは静止画か動画のコマのようなものです。自分に関するさまざまな話を聞いたのでその背景から過去を思い出すこともできますが、自分が誰であり、どこにいて、何をしていたかを認識できる最初の記憶はあのときです。あの瞬間、私は覚醒したのでした。

覚醒はユピック文化の中心的な信条です。それは唯一の信条ではありませんが、アメリカ文化の中核を成す個性のように重要なものです。そして個性の必然的帰結が自由であるとすれば、覚醒の必然的帰結は責任であり、その責任は重大です。

「この部分は、犬と何ら変わりないんだ」と、私の体を示しながらおじは言いました。「『ユウヤラック(Yuuyaraq)』とは、神の姿に似せて作られた自分自身の一部を発展させることを意味している」おじはユピックの伝統的な信条を私に唱えていました。筋肉を鍛えるのと同じように精神と魂を成長させることについて語り、考えるべきことと考えるべきではないことに注意するよう、私に忠告しました。

おじはアメリカ先住民の行動規範について私に教えようとすることもありました。それは古くからの知恵のようなもので、長老やおじやおばや親戚から聞くこともありました。しかし私が最も興味をもっていたのは、ユピックの信条と体制でした。

赤ん坊はまだ覚醒していません。妻のサーシャと私は、昨年4歳になった息子のマユックはまだ覚醒していない、ということに同じ考えです。

マユックはたいていは理解できることを話し、読むふりをし、家族やお気に入りのキャラクターらしき絵を描きます。何度も何度も映画を見て覚え、おもちゃを使って場面やシナリオを克明に再現します。しかしまだ覚醒していません。覚醒のときはまもなく訪れることでしょう。

覚醒した人とは、意思疎通の取り方が変わります。いったん覚醒した人には、現時点ではできない方法でものごとを教えることができるようになります。もちろんそれまで学んでいなかったわけではありませんが、それまでは私たちがすることを観察し、まねしているだけです。私たちの言葉やその意味は解析できないものの、私たちの行動には注意を払っています。

私の知るかぎり、覚醒する時期はひとりひとり異なります。私の長男は赤ん坊だったころのことを覚えています。3歳のとき、母親の胎内の様子を話しました。マユックはまだ覚醒していないので、自分の行動に責任をもつことはできません。伝統的なユピックの社会では、子どもに対して決して声を荒げたり腹を立てたりしません。それは私が目指すことです。

自分の文化を学べば学ぶほど、それが昔ながらの世界観だけではないことに気づきます。覚醒の過程は、一生涯を通して起こるものです。

ユピックはすべてに魂「イインルック(iinruq)」があると信じます。人間の魂は「アネルネック(anerneq)」と呼ばれ、それは息吹を意味します。人の名前と特徴は、その人を名をもつものの種類に位置づけ、また多くの名前や特別なあだ名をもっている場合もあります。現代でもさまざまな文化で、公式な証書であるかないかにかかわらず、複数の名前をもつ人は少なくありません。ユピイット(ユピックの人びと)は先祖にちなんだ名前をつけ、私たちはその名前と先祖の特質を受け継いでいきます。私の名前はマアルックで、誰の名前の繰りかえしなのかはわかりませんが、何度も何度も使われてきた名前です。どれほど昔に遡るのかもわかりませんが、古くからの名前です。言葉そのものはもはや使われず、そして私が尋ねたかぎり、その意味を知る人もいません。しかしそれがどこに由来するかはわかっています:マミエ・セトン。私が死んだら誰かがこの名前を受け継ぐでしょう。私は人間の連鎖の一部であり、生と死のなかで築かれた命と関係性の連鎖の一部なのです。

その次にあるものは人の精神です。精神は行動するための情報のしくみであり、世界に関する一連の想定であり、行動のために蓄えて利用する規則と形式です。これには私たちが同調する物語も含まれます(私たちはなぜここにいるのか、どうやって来たのか、など)。精神は重要なものであり、自分の行動を支える公理的な仮定に注意することも大切です。こうした仮定の多くは経験からではなく、誰かから教えられるものです。

人の体は物質界につながる節点であり、魂と精神の媒体です。体は驚くべき道具ですが、体はあなたのすべてではありません。不運にも指を1本失ったとき、指と一緒になくなるのはあなたのどういった部分なのでしょうか。残るのは誰なのでしょうか。

あなたはあなたの思考や精神でもなければ体でもありません。これは私たちイヌイットの、自分自身や他人の見方を反映しています。あなた自身もあなたと関わる人たちも、思考や行動そのものではなく、思考や行動の発信元なのです。これは決定的な違いです。なぜならそれにより「人」がその言動や行動から切りはなされるからです。

思い出せるかぎり昔のことを振りかえってみてください。最初の記憶でなくとも、幼いころの記憶でかまいません。あれは誰だったのか。もちろん別人に見えることもありますが、それはあなたです。いつでもあなただったのです。変化しているのは私たちの情報のしくみ、つまり経験と内在的な枠組みであって、あなたがあなたである核心部は変わらないのです。「エラングック(覚醒した)」というのはあなたの成長の出発点であり、自分自身と周囲の世界に対する覚醒は生涯を通して進展しつづけます。いまの自分や自分の理想にそぐわない、かつての思考や行動に覚えがあるでしょう。精神は変わることができ、変わるものなのです。イヌイットがもっている人の概念はこれを認め、成長の余地を作ります。

かなり長いあいだ、私は夢に出てきた曲を間違って記憶していました。あるときシャワーを浴びているとあの記憶が強烈によみがえり、その曲が聞こえてきました。あわててシャワーから出るとコンピューターの前に座り、YouTubeでユーリズミックスを検索しました。リストの最上位にあった「スイート・ドリームス」を聞きましたが、シャワーで曲を鮮明に聞いたばかりだったのですぐに違うと気づきました。そして次の曲を聞きはじめると、前奏の時点ですぐにこの曲であることがわかりました。「また雨が降る、思い出のように頭上に降り注ぐ」

長いあいだ忘れていた記憶がよみがえってきました。同世代の大半の子どもがそうであったように、私たちは長い夏の日も短い冬の日もノームのあちこちを当てもなく散策しました。春は野草を集め、野鳥の卵を探しに行きました。海岸ではサーモンを獲る網を仕掛け、母と父が魚をさばき、塩水に浸けてから日干しにしました。いくつもの棚にのったサーモンは涼しい沿岸の風で乾かしました。兄弟もいとこたちも私も、食べられると教わったものはすべて食べました。野生のセロリは苦味が強く、めったに使わない小道には背の高い草のなかでナグーンベリーがひっそりと生えていました。ジリスを巣穴に追いやると、別の穴から頭を出して私たちを叱るように鳴きました。

普通の子どもと同じように学校にも通いましたが、冬のあいだも野外での遊びはつづきました。氷の穴からトムコッドを釣ったり、網を仕掛けてタラバガニを獲ったり、アザラシの脂をバターのようにして食べたりしました。ベーリング海を見渡すノームの岩の防波堤の後ろには、商店や飲み屋が並ぶフロント・ストリートがありました。私たちは小遣いがあると駄菓子屋に行き、それから海岸沿いの氷の塊のあいだを飛び跳ねたりして遊びました。猟師はアザラシやセイウチなどの獲物をもって帰宅しました。こうした場面のどれもが、私の身近にいるほとんどの人たちのありふれた日常でした。

私の父方の先祖はグウィッチンです。エドワード・チャールズ・ジョーンズの家族はフォート・ユーコンとネナナの出身です。私はベアトリス・オブライアンの子として、1977年に生まれました。実の父親が名づけるのを待つよう指示したので、母はしばらく待ちました。しかし彼は現れませんでした。母は私が彼のような歩き方、話し方、笑い方をすると言いましたが、会ったことは一度もありません。

おばやおじたちは、私が赤ん坊のころから私のことを「ミスター・ジョーンズ」と呼びました。私のユピックの名前はマアルックですが、やがてはウォーレンという英語の名前を与えられました。ウォーレン・リチャード・ジョーンズ。母を守る小さな戦士としてウォーレン、私が生まれる前に死んだ父方のおじにちなんでリチャード、そしてフォート・ユーコンに暮らし、私の父方の曽祖母メアリー・ロデリックと結婚した白人の先祖フランク・チェスター・ジョーンズから取ったジョーンズです。フランクの兄弟はネナナの初期の白人入植者でした。

母方はナパリャーミウト出身のユピックです。フーパー・ベイという湾に流れ込む潮汐沼地であることから、それが村の英語名として使われています。私はイヌピアックである継父の家族と一緒にノームで育てられました。ノームはベーリング海沿岸に位置し、長いあいだ人びとが暮らしてきた「シトナスアク」として知られる場所です。のちにゴールドラッシュで有名になり、1900年の国勢調査では人口が12,000人に上りました。ノームはキング島の学校が閉鎖され、その住民の多くが移住してきた場所でもあります。現在はおもに先住民の町ですが、それ以外の人たちのかなり大きな共同体もあります。

私たちがマタヌスカ・スシトナ・バレーのデナイナの土地に入植者が作った、活気ある小さな町パーマーに移住したのは1980年代後半でした。私は森や山や氷河や川で思春期を過ごし、ここで育ったいとこたちから、すっぱくて美味しいスグリの実を森のどこで見つけるか、また夜の畑からウサギのようにニンジンやキャベツを盗むことなどを教わりました。パーマーは道路網につながっていて、アラスカで最も人口の多いアンカレッジから車で近いこともあり、ノームとは地理以外の面でもずいぶん異なりました。

ここでは、私は他の面であまりうまくできませんでした。文化的な変化は家族皆にとってむずかしかったのだと思います。ですがバレーは住み心地のよい環境や体験を提供してくれました。それでも、私は高校1年生と2年生のときに停学処分を受け、そのころは周期的に施設にも入りました。3年生と4年生の成績は良かったものの結局中退し、その後一般教育修了検定を受けて合格し、コミュニティカレッジに進学して数学を専攻しました。夏場は缶詰工場や波止場や漁業関連の仕事をし、冬場は万能クロスやマジックペンを売りながらあちこち旅してまわりました。1990年代後半になると、荷物をまとめて仲間2人と一緒に車でシアトルに行きました。最初はパイク・プレイス魚市場で働きました。ワシントン州で大学を卒業するつもりでしたが実現せず、やがて私は妹から海兵隊に入隊するよう勧められました。

継父、妹、そして私は海兵隊に勤務した経歴があります。私は軍隊の適性試験で高得点を得たのでいくつかの選択肢を与えられましたが、歩兵を志望しました。危険な任務に就きたくて入隊したので、ロケット弾を発射したり、手榴弾を投げたりしたかったのです。それで第1軽装甲偵察大隊の兵士に落ち着き、2002年から2006年まで勤務しました。そこでは多くを学び、全米から集まった善良な男女とともに働きました。また数人の真の戦士に出会い、彼らの下で軍務に就きました。彼らは真の戦士精神を教えてくれたばかりでなく、戦争を美化しないことや戦う理由を教えてくれました。

妻に出会ったのはそのころでした。ロサンゼルスのパーティ会場に入ってきた美しいアルゼンチン人の女性に、私の目は釘づけになりました。海兵隊を退役してアラスカの大学に通うようになってからも、彼女と長距離恋愛をつづけました。その後2人でシアトルに移住することを決め、そこで最初の子どもが生まれました。私は学業をつづけましたが運命のめぐり合わせで、妻の仕事と私たちの生活を現在4人の子どもと一緒に暮らす、アンカレッジに戻すことになりました。

この12年間私は専業主夫として子どもの面倒を見ています。当時妻は私よりも良い職に就き、当面の見通しも明るかったからです。私は大学に通い、できるだけベビーシッターを頼まずに済むようすべての講義を週2回で受講できるスケジュールを組みました。そのため政治理念の授業を多めに受けることになりましたが、それらは予想以上に興味深く面白いものでした。

自分が誰であり、どこから来たのかについて、より深く探求するようになったのはアラスカに戻ってからでした。植民地制度の歴史を学び、先住民女性に対する暴力の蔓延の実態と規模に関する授業や、教会が地元地域に小児愛者をもたらした暗い過去についての授業を取りました。また自分の家族からも、彼らが見て経験した証言を聞きました。教会は多額の和解金を支払いましたが、子どもやその家族が受けた傷を和らげることにはなりませんでした。おばの話を聞き、そのようなことを許した教会と先住民族の人びとに対する一般社会の態度に、私はやり場のない怒りを感じて涙しました。

大学ではプラトンやアリストテレスを学び、アメリカ合衆国憲法を分析しました。数々の観念の種を論議し、そこには私たちが疑問も抱かず受け入れている私有財産のような、たんに概念のうすっぺらな正当化でしかないと私が考えるものもありました。最終的には西洋哲学や思想家を高く評価するようになりながらも、それらの多くのことについてユピック独自の観念があることにも気づきました。そして私が知るかぎり、私たちの観念にはあらゆる分野で西洋哲学と同じように、またはそれ以上の正当性がありました。

ユピックの統治体制は西洋のそれとは大きく異なります。そのため先住民族に出会った単純な入植者や探検家は、そこには統治体制がまったくないと考えました。私たちの社会は非集中的な体制で、開拓地や定住地は分散していました。誰もが行動規範を理解し、ユック(人間)ひとりひとりが、自分も他人も「ユウヤラック」の法と体制にしたがうことに責任をもっていました。「ユウヤラック」は北方に暮らし、北方の教訓を学ぶ人たちによって培われた何千年もの知恵の産物であり、この土地はここで過ごしたすべての人にとって偉大なる美と深淵な精神的つながりの場所です。

私たちは世界を入れ子構造の多元的共存だと考えました。世界は「魂」の住処であり、すべてのものに「魂」があります。物質界とそのすべての法も存在しましたが、それらはより大きな構想、つまり物質界を支える「霊的宇宙」の一部に過ぎません。「魂」という言葉はユピックを説明するのに最も近いかもしれませんが、厳密にすべてを含んでいるわけではありません。すべての物質には存在感があり、大なり小なりその意志を宇宙に広げます。山はその完全な存在に意志があり、山に登ったり山の上や周囲で暮らしたりする私たちは、山が占める領域に示される山の意志を理解します。ユピックは山には意識があり、どのように扱われるかをみずから認識すると考えました。

アラスカで大学に行ったことで、他の地域にはない見解と機会を得ることができました。連邦主義者に関する論文も反連邦主義者に関する論文も読みました。私は〈ファースト・アラスカンズ・インスティテュート〉のガバナンス・フェローとして、人間が世界を構築した方法を探索し、概念と着想はどのように体制と機構へと展開するのかを学びました。そしてもしユピックの統治体制と機構が独自に展開していたら、現代社会でどのように映るかを考えはじめました。私の覚醒はさらに発展していきました。

先住民以外の講演者から文化や関わりの欠如をテーマとした講演を聞いたこともあります。これは驚くべきテーマでした。それまでの私はどのように西洋文化に対応するかを学び、大学では西洋文化の歴史と起源を学ぶことに大半の時間を費やしていたのですから。ところが講演者はその存在自体を否定しているのです。彼らは西洋文化に対する無知を強調しているだけではなく、存在しなかったと言っているのです。これは文化とその意味を探求する私の旅のはじまりとなり、私がおもに取り組んでいる文化の保存と復興の重要なテーマとなりました。食や芸術なども文化の重要な一部ですが、文化とはそれを超越するものです。人びとはビーズ手芸の様式や食料保存の方法をめぐって争ったり死んだりしてきたわけではありません。これらは、より根本的なものを表しています。

私は恵まれた環境で育ちました。土地から教訓を学んで、幼少時代に私の世界観を築きました。歴史を読んでいた私は、先祖の世界をうまく理解できないことはわかっていました。また曽祖父の時代の物語は、私には再現できない世界に彼らが存在していたことを明白に示しました。私は現在44歳で、先祖が生きた人生と背景を理解し、その視点から教訓と世界観を見ようとしています。いまではばらばらになってしまったかつての世界の遺物を体験したことがあるのは、私の一族ではおばとおじたちだけになりました。彼らの話を聞くとき、情報の時代、ソーシャルメディアの時代、情報がすさまじい速さで(そしてデマはさらに速く)流れる時代に生きることが、彼らにとってどれほど不可解であるか、私には想像もつきません。私自身でさえ、人間の能力では追いつけないほど大量の情報に圧倒され、自分は未来の世界に暮らしているのではないかと感じることがあるのですから。

私の存在は「ヌナ(nuna)」、つまり土地と深く結びついています。初期の探検家は、この土地で人びとが暮らしているのを発見し、驚きました。私のごく最近の祖先が地面から現れて彼らを迎えたような土地だからです。母は兄弟姉妹たちとその世界で育ちました。おじは「たったいまツンドラから出てきたような気がするときがある」と言います。

私の頭のなかにある知識の大半は、出どころがさまざまです。実体験や文献や植民地の歴史的記述に基づくものもあれば、ヒッチハイカーや酔っ払い、そして企業のリーダーや、おばやおじの話から得た知識もあり、その分野のいくつかは交差します。そして彼らの多くは、自分の知識はいまの世界においては重要ではないと、過小評価しています。

宣教師がやって来るずっと前から、私たちは神のような存在について理解していました。自分たちが住んでいた環境、厳しい教えを受けた環境から得た理解があったのです。それゆえ、私たちは喜びや滑稽さにも満ちあふれているのです。世界はすでに厳しく、私たちはそれを認識しています。私の文化が築かれたるつぼは変化しており、おそらくそれは良い方向に向かっています。しかし世界はまったく同じ教訓とともにそこにありつづけるのです。

このストーリーは、パタゴニア Fall 2021 Journalに掲載しています。

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