Door to Door:日常と冒険の心地よい曖昧さ
家を起点とし、いつも見上げている山々を一度に繋げて自分の脚で駆け巡る。初夏のある日、上野朋子は総距離116km累積標高6700mの身近な冒険に出かけた。
すべての写真:三井 伸太郎
「山頂も雲の中で、ガスがかかっているかもしれないな」
この日、玄関を出て見上げた太郎山はうっすらと雲に覆われていた。しかし、南西の美ヶ原方面は雲の隙間から薄日も差していて、天候は回復するだろうと予想した。どこの山に出かけるかの判断も含めて、山の様子をみながら想像し「イメージ」することは、朝走り始めるときの日課でもある。
私が暮らす上田市は長野県の東部にある。北には菅平高原と四阿山、東には湯の丸高原と浅間山、南東には八ヶ岳連峰を見渡すことができる。ここ数年、夏の日中は35度を超える日もあるが、朝晩は心地よい涼しさを感じることが多い。千曲川を挟んで四方に里山が広がる盆地のため、真冬になると市街地でもマイナス10度を超える寒暖差の大きいエリアだ。
標高1164mの太郎山は上田市の真北にあり、普段からよく足を運ぶ山のひとつ。山頂に登ると、先に挙げた名だたる山々に加えて、近隣の里山が一望できる。日頃から特定のトレーニングコースは決めておらず、気候や山の様子を見ながら、走りつつイメージしていく。そこに身体のコンディションを掛け合わせ、ルートが決まる。
そんないつも見上げている山々を一度に繋げて自分の脚で駆け巡ってみたい。それが今回のチャレンジを決めたきっかけだった。いくつかの山へ入ったことはあるものの、すべて繋げて一気に辿ったことはない。できるだけ山間エリアを繋げたい、走って気持ちよいと感じられるルートを描きたい、どのコースから入るのがよいだろうか……など、地図を見ながらイメージを膨らませた。
当初は2022年に行う計画だったが、天候やスケジュールの都合で翌年に持ち越しとなり、その分じっくり時間をかけてコースを完成することができた。
状況をイメージし、デポバッグを用意する
5月20日朝5時、近所にある大星神社をスタートした。
いつものように太郎山に向かって走り始める。特別に気負うことはなかった。違いがあるとすれば、普段より格段に長い距離を走るためにパックに水と食料、ウェアをしっかりと詰め込んでいること。
計画したコースは、自宅から見て北に位置する太郎山をはじめに登り、上田市から坂城町、筑北村、青木村、東御市の里山を反時計回りにまわる総距離約140km、累積標高8000mの道のりだ。麓は日常の生活圏でよく知る町並みで、公共交通機関もある。しかし、一度トレイルに入れば1000mを超える山深いエリア。あまり人が入っていないルートも多く、決して油断はできない。必要な装備をパックに入れて携帯し、コース上の3箇所に水と食料、着替えを入れたデポバックも用意した。
スタートして約1時間で標高1000mを超える稜線に出る。思ったよりもガスは濃く、5月なのに蒸し暑さを感じるほどだ。スカッと晴れた青空の下のトレイルも気持ちよいが、ガスの中を走るのもまた神秘的で好きなコンディション。天気がよければ街が見渡せるのだけどな……と少し残念に思ったが、それはまた後半のトレイルの楽しみに取っておくことにした。足元は朝露で濡れ、足から上は汗でびしょ濡れになりながら気持ちのよいシングルトラックを走り抜ける。
今回、このコースをぜひ走ってもらいたいと思い、ぐんま県境稜線トレイルを一緒に踏破した八木康裕さんに声をかけた。2年越しの計画を以前から相談していたこともあり、すぐに快い返事をもらった。
このコースはいつでも走れるように見えて、実はそうでもない。終盤にアタックする烏帽子岳は、例年11月頭には初雪が観測され、ゴールデンウィーク近くまで山頂に雪が残る年もある。里山エリアも冬場は低温によりトレイルが凍結路してしまうことが多い。さらにこの地域は日本有数の松茸産地で、6月~11月頃にかけて入山制限がかかる山もある。そうした山の事情を考慮すると、一年を通して全コースをスルーできるのは春先の約2ヶ月しかないのだ。スキーヤーでもある私にとって、なかなかタイトなスケジュールといえる。
山は麓より季節の移り変わりが早い
千曲川を見渡しながら、対岸の里山へと入っていく。一ヶ月前にコースを確認したときには走りやすいシングルトラックだったが、今年は雪解けも早く、暖かい日が多かったせいか、すっかり草木が伸び背丈を超えていた。
人が入らなければ、山は自然に還ろうとする。それはこれまで何度も経験してきたことだが、このトレイルにも一ヶ月前の面影はなかった。トレースはほぼ消え、ルートを探すのに時間がかかる。半袖、ショーツの手足は草で傷だらけ、クモの巣まみれとなり苦戦を強いられた。麓で季節の移り変わりを感じる以上に山の変化のスピードは早い。まだまだ山の状況をイメージする力が足りていなかったことを実感した。
徐々に気温が上昇してくる。標高差600m〜700m程度を何度も登り下りするので、麓に出るたびに山の上との気温差を感じる。正午頃、子檀弓岳の登山者休憩所でしっかり休むことにした。いつもは通過してしまうことが多い場所だが、この日はデポバックを置かせてもらい、休憩スペースとして利用させてもらった。窓から入る心地よい風を感じながら、水分、食料を補給する。あまりに快適なのでこのまま休んでいたいという誘惑に駆られながらも、先は長いため出発した。
天候は回復傾向で、山頂は見晴らしがよい。これまで進んできた山々を振り返り、この先向かう山を見渡してイメージを膨らますことができるのも、ロングトレイルの楽しみだと思う。
再び気持ちのよいシングルトラックを進むものの、またもや予想外のことが起こった。林道が森林伐採作業により通行止めとのこと。情報収集不足を反省し、迂回ルートを取ることにした。この地域の里山は間伐や植林、松くい虫の対策などを通して保全されると聞いたことがある。山の植生やそうした作業との関連も興味深かった。
もっとも高い山をクライマックスに
別所温泉街へ着いた頃には予定より2時間もオーバーしていた。このあたりでは一番大きい、信州最古の温泉といわれている別所温泉。今回はほかにも2箇所の温泉を通過する。温泉好きな自分ならではのルート選択だなと思う。
当初は塩田平の盆地が一望できるルートを作成していたが、痩せ尾根に鎖場と危険箇所が多いことから、安全第一にルートを繋ぎ、現地で柔軟に対応しながら進むことにした。日頃から心がけているように決して無茶はしない。
結局、田園地帯を辿るルートに変更する。ここは比較的緩やかな起伏で文化的建築物があり、歴史の感じられるエリア。塩田平に広がる田んぼの間からは、暗闇からでも鋭い峰々を見ることができた。地形の変化、夕闇、静けさ、星空……走ることによってあらためてこの土地を味わえたような気がする。水田の蛙の大合唱を聞きながら淡々と走り続ける。
烏帽子岳にアタックする前、仮眠をとることにした。アラームをセットした時刻よりも前に目が覚める。辺りが明るくなりはじめる頃、リスタート。体の動きはよかった。
烏帽子岳をルートに入れたのは特別な思いがあったからだ。家の玄関を出て一番近くに見える2000m級の山。春先には雪がだんだん減っていき、秋になると麓から徐々に紅葉が始まっていく。11月初旬には初冠雪がわかる。太郎山を眺めるのと同じように、烏帽子岳は自分にとって日常のなかにあり、 山の変化は身近なものだった。そんな烏帽子岳をあえてコース終盤に持ってきた。2000m級の山を終盤に通過することへの不安はあったが、楽しみでもあった。
標高差1500mを登るトレイルはなかなかタフだ。途中、カモシカ2頭に出会う。いや、カモシカにしか出会わなかった。山頂への稜線に取りついたとき、これまで辿ってきた里山とは違う風、空気の冷たさを肌で感じた。今回のコースの最高標高地点2066m。しばらくしてガスが抜け、街が見渡せた。
親しみのある山々を自分の脚で一本の線に繋げ、最後の烏帽子岳から見た景色は格別だった。しかし、そんな想いに浸れないほど山頂は強風でウィンドシェルを着ても寒かったため、早々に下山を開始する。
岩稜を下りながら、遠くには真っ白な雪が残る北アルプスが見えた。誰もいない、なんとも贅沢な時間。すでに90km以上走り続けて疲れているはずなのに、いつも以上にペースが上がり、何も考えなくても体が動く。まるで自然に溶け込むかのような不思議な感覚だった。
トレイルランニングはライフスタイルの一部
林道を下るにつれて湿気や気温が高くなっていく。久しぶりにアスファルトの道に出ると日差しが強く、一気に身体の動きが止まりそうになった。ようやく下りてきたという安心感と、まだまだ気が抜けない緊張感が交差する。標高差1000m以上を下ってきたせいか、さすがに脚のダメージは大きかった。あとはスタート地点を目指すだけだ。
今回は純粋に自分の走りたいルートを繋げた。終盤に烏帽子岳にチャレンジしたのは、自分のこだわりだったのかもしれない。単に道を繋げるだけでなく、そこからどんな景色が見えるのか、この山を下りてきた先に自分はどんな走りをしたいのか……そんなストーリーを想い描き、実際に走った際の身体が想像やイメージと一致したとき、なんともいえない喜びがあった。
距離そのものに、それほどこだわりはない。どんなルートで山を巡り、どこを通って先へ向かうのか、自分のなかでイメージを膨らませ進んでいく自由でクリエイティブなアクティビティが、私は好きなのだとあらためて感じた。
大星神社に到着すると、街中の気温は34度を超えていた。スタートから30時間、総距離は約116km、累積標高は6700mほど。当初計画したとおりの形ではなかったけれど、自分の脚で帰ってきたという安堵感に満たされながら、ベンチに腰を下ろした。
「トレイルランニングはライフスタイルの一部である」という自覚はこれまでもあった。終わってみると、それを体現したようなチャレンジだったと思う。アウトドアスポーツでは「非日常」という言葉がよく使われるけれど、もしかしたら自分にとってその境は明確でないのかもしれない。汗だくになったウェアでトレイルランニングシューズのまま家に戻る。それこそが自分にとっての日常だから。
ついさっきまでの冒険は、日常のそばにある。まさにDoor to Doorの1日だった。