純粋な生活
沖縄に暮らすサーファー、原田祥吾はうねりと共に世界を旅している。「でかい波」に乗ること。そのためすべてを捧げる17歳の生活について。
プエルト・エスコンディード、メキシコ
サーフィンをスポーツと捉えるか、あるいは単なる趣味として嗜むか、その深度によって見える景色は違う。どれほど深く耽溺しても、その先には見果てぬ風景があり、同じ波は二度とやって来ない。だから行けるところまで行こうと考え、追求する種族にとってサーフィンはウェイ・オブ・ライフとなり、地球上で起こる波のサイクルに合わせた生活を送ることになる。
2022年、17歳の夏、原田祥吾はメキシコにいた。
オアハカ州の海沿いの町、プエルト・エスコンディードには、メキシカン・パイプラインとも称される、ビルのように巨大なうねりが割れ、チューブとなる波が立つ。予定していた帰国のタイミングで新型コロナウイルス感染症に罹患してしまい、どうせ帰れないならと、プロトライアルなど日本での試合をキャンセルし、滞在を2ヶ月延長することにした。都合3ヶ月の間、ひたすら波のための生活を送る。比較的空いている早朝から海に入り、気温が上がってオンショアが吹いてくるまでサーフィンをする。昼飯を食べて少し昼寝をし、もしも雨が降れば気温が下がってオフショアに変わるから、もう一度、夕方に海に入る。最後の一人になるまで海に入って、いい波に乗るチャンスを窺う。毎日は、その繰り返し。資金的な余裕はなく、自炊をして節約すればそれだけ長く滞在でき、巨大な波に乗るチャンスが増える。シンプルな生活の中で変化があるのは、波のコンディションだけだったかもしれない。滞在中に、もっとも大きかった波は、15フィート強。特大の波は、「それ以上あったかもしれない。気軽に手を出せなかったです」という1日があった。
1フィート=約30cmなので、単純計算して4.5mという波のサイズだが、原田祥吾が基準とするハワイ式に習えば、波の裏側から測るために日本人の感覚とはまた違うサイズ感になる。とにかく巨大。
日本から携えていった、父がシェイプした5本の板はすべて折ってしまった。地元のリペアマンに頼んで折れた板を繋ぎ、それらの板をまたすべて折ってしまう。最後には見かねたカメラマンが板を貸してくれ、サーフィンをしていたという。ビーチブレイクながら巨大なうねりに耐えられるポイントには、沖に向かう強烈なカレント(流れ)があり、一本目の波で転んでしまったら、沖へと引っ張り出されて、再び目の前で巨大な波が割れる。セットと呼ばれるまとまった波の周期が終わるまで、海の底に引き摺り込まれて、溺れかけるような試練が続く。
「気持ちだけでは、でかい波にいけない」と、原田祥吾は言う。
砂辺、沖縄
メキシコから帰国した後、千葉県の鴨川の旅館でアルバイトをしていたために、沖縄に帰ってきたのは数ヶ月ぶりだという。
沖縄でもっとも有名なサーフポイントのひとつ、「砂辺」近くのカフェで原田親子と待ち合わせをした。17歳の祥吾は、メキシコのビッグウェーブに乗っている写真の人物とは思えないほど、あどけなさが残っている。身長は178センチで、今も成長していると言うが、まだ線が細い。父、泰三の隣で大人しく座り、所在無げにしている。
祥吾がサーフィンを始めたのは、プロサーファーであり、自身もビッグウェーバーである父の影響だった。泰三は大阪で生まれ育ち、10代でカリフォルニアに2年間暮らした後、プロツアーを7年間転戦。引退後にはサーフボードを削るシェイパーとなった。「他のことをやらせるよりも自分が波乗りしたいから」と、子どもたちを海へと連れて行った。祥吾は「家で段ボールをチョキチョキ切って、パンツに入れるゴムでリーシュを作って」遊んでいたが、幼稚園の年長で、徳島県の宍喰でサーフィンを始めた。
大阪から沖縄に移住したのは、泰三に「やりたい波があった」から。当時、祥吾は小学校一年生で、同年代の友人を見つけて、すぐに子どもたちだけで海に通うようになる。泰三は「みんなビッグウェーバーにしたろ(笑)」と、国内外のさまざまなポイントに連れていく。バリ、オーストラリア、カリフォルニアなどへのサーフトリップは、サーフィンへの考え方が意識下に刷り込まれる英才教育の時間だったに違いない。
「技術的なアドバイスは、昔は言ってましたけど、今はまったく言わないですね。ただ、波の話はします。波がわかっている=技量があるってことだから。波が見えていなかったらいくら乗るのが上手くても、そこから上にはいけない。同じポイントでも、『あの時間帯はこっちの波が掘れる』とか、そう言う話をします。多分、僕が思っているよりも、もう見えているものがあるんだと思う。大半の人がお手上げってなった時に、こいつはギュインと波に乗り出しますから」
物静かな祥吾が少し得意気な顔をしたのは、砂辺の堤防から巨大なGTを釣った写真を見せてくれた時だけだった。
翌日には、サーフィン中の写真を撮らせてほしいと南部のポイントで待ち合わせをした。波のサイズは胸くらい、オンショアが吹き、コンディションはそれほど良いとは言えない。それでも「ずっとバイトをしていたから海に入るの久しぶりなんで」と言って、祥吾は嬉しそうに沖へと出ていった。沖について波待ちをしている姿勢がいい。背筋が伸び、泰然としている。形の悪い波には手を出さず、じっくりと選んで軽々と乗り、美しいラインを描く。ほとんど肩慣らしのような1時間ほどのセッションはしかし、彼のポテンシャルを十分に感じさせるものだった。同行したカメラマンの三浦安間は、今までに数多くのサーファーを撮影しているが、「あれだけ撮影を気にせずゆったりと構えられるのは、心が強い証拠だよ」と言った。
海から上がって着替えた祥吾は、昨日よりもほぐれたさっぱりとした顔をしていた。大きな波に乗ることに恐怖心はないのかと尋ねると、「怖い気持ちはある」と答えた。
「でも、“乗りたい”が勝つんです。ハワイに行くまでは、試合に勝ちたいっていう気持ちでやってました。でも2021年の1月に初めてハワイに行って、見たこともない波が割れていて、ハワイアンはでかい波を楽しんで乗ってて、すげえって。かっこいいなって思ったんです。やっぱりパイプラインは見たこともない波だったから、自分も乗ってみたいんです」
世界中からトップサーファーが集まる冬のハワイ、ノースショアに滞在し、波乗り人生のボルテージがまた一段階上がったのかもしれない。彼の生活は、実にシンプルで、余計なものがない。それゆえに剥き出しの自分が試される。
インタビューの際に父、泰三はこんなことを言っていた。
「上手いとか試合に勝つとかよりも、グッドサーファーになって欲しい。波がギュンっと本気になってもクールに決められて、世界中どこでも旅ができること。やっぱり旅ができないとダサいから。誰かに連れて行ってもらうんじゃなくて、行ったことのない場所の地図を見て、風を読んで、波に乗って安全に帰ってくる。最初から最後まで自分の力だけでできなければ。僕は旅をして、波を予測できる。でも、本物のビッグウェーバーは二世代かけて完成なのかもしれないですよね」
父が体験し、築いた土台の上に、現在の息子のライフスタイルはある。祥吾はその話を聞きながらも悠然として表情も崩さない。「そんなことはわかってる。ただ、自分がやりたいことに集中しているだけだから」。時折、キュッと真剣になる眼は、そう言っているようだった。では、本人はどんなサーファーになりたいのか。
「理想は、試合も勝って、フリーサーフィンでも自分の乗りたい波に乗って、世界中トリップして。パイプラインとかタヒチとか、チューブのでかい波だけじゃなくて、ワイメアとか、そういう波も乗りたい。全部できる感じ。世界のすごい人しか乗れない波に自分も乗りたい。それができたら、グッドサーファーだと思う」
彼が言う「試合」は、世界有数のビッグウェーブで開催されるような大会を指す。明確な目標というよりも、とにかく上手くなりたい。でかい波に乗れるようになりたい。その純粋さが、全ての原動力になっているように聞こえた。
パイプライン、ハワイ
沖縄で会ってから2ヶ月が経った頃、祥吾はハワイにいた。相変わらず、波乗りにどっぷりと浸っていた。朝5時に起き、6時半の日の出と共に海に入り、昼過ぎまで波乗りをして、ランチを食べてまた海へ。延々とその繰り返し。通信制高校の課題は、卒業までの分はすでに終えてある。生活費は鴨川の旅館でアルバイトをして貯めた金と、父からの援助でほとんどを賄っている。外食する余裕はなく、ほぼ毎日チキンを焼いて、野菜炒めを作っている。
「今シーズンはずっと波があるけど、まだ自分が納得できる波には乗れてないです。やっぱり世界中から人が集まってるから、隙間を狙ってスペースを探しているんですけど、なかなか難しい。でもすごい波を一本決めたら、周りの見る目も変わるし、もう少し乗りやすくなるかもしれない。とにかく、乗らないと。そのチャンスをずっと狙っている感じです」
飄々と話す印象そのままに、パイプラインの海に入っているのかもしれない。殺伐とした雰囲気さえ漂う巨大な波の割れるポイントで、メンタルを整えるコツのようなものがあるかと聞くと、「考えたことないです」と答える。人と競って波を取るよりも、空いている時間帯、隙間をつくような瞬間、誰も手を出さなかった波を良いタイミングで乗りたいと言った。「ガツガツせずに、余裕があるのは世代のせいもあると思う」と泰三は言い、その通りだとも思うが、祥吾からはもっと本質的な純粋さを感じる。
「でかい波に乗ったり、チューブがメイクできたりすると、達成感があるんです。それでまた次のもっと大きい波ってエスカレートしていく感じ。中毒性はありますよね。でかい波に乗ったら、きっとまた違うものが見えるはずだから」
繰り返す生活で、波のコンディションと、折れた板の数だけが変化しているかのように思える。だが、少しずつ確実に、祥吾は螺旋を上がっている。シーズンを終え、ハワイから沖縄に戻る頃には、彼は確実に“グッド・サーファー”に一歩近づいているはずだ。ただし本人はそれを自覚もせずに、さらに巨大になった「納得のできる一本」を追い求めて、また旅をするのだろう。