いるべくして、ここにいる
パタゴニアへは4回行った。アレックス・オノルドとの縦走、ほとんど空振りに終わった旅、そしてジョシュ・ワートンとはふたりでセロ・トーレ山群の北峰、標高2,700メートルのアグハ・シュタンハルトをガンガン登った。しかし、2006年のはじめての旅は、これまでの人生で最も衝撃的なクライミング体験だった。
当時、僕は27歳で、その旅に同行することになったトファー・ドナヒューは、コロラド州エステス・パークで近所に住む幼なじみの兄だった。当初、トファーは彼の父であるマイクと遠征の計画を立てていたが、それがかなう前にマイクは他界した。トファーはパタゴニアのベテランで、僕は初心者だったが、それでも父に連れられロッキー・マウンテン国立公園のロングス・ピークやエル・キャピタンでクライミングをしながら育っていた。
僕らはフィッツロイ山塊の麓で準備し、ロイヤルフラッシュ・ルートに取り付いた。まだ天気予報が簡単に入手できない時代で、登り始めてすぐに風が吹き始めた。濡れた割れ目を20ピッチほど急いで登るが、冷たい雨がひじを伝う。風は遮られていたが(パタゴニアでは風が一方向から吹くことが多い)、僕らは山頂から離れたところに、手押し車ほどの大きさの氷塊が突き出しているのを見つけた。骨まで凍りそうな夜をそこで過ごし、朝を待って出発したが、わずか2~3ピッチ進んだ山頂を仰ぎ見る岩稜の下で引き返した。岩棚の上で、トファーはビンを取り出すとその中の遺灰を、弧を描くようにまき、僕に言った。「これでいつも親父がそばにいる。」
そこから氷河を下り始めた。山が風を遮っていた場所を抜けると、突風に足をすくわれた。風に削られた土地で育っていても、パタゴニアの風はそれまで経験したものとは別格だった。氷河の上に平伏し、滑落防止の体勢を取らなければならなかった。レイヤリングを変えようと外したヘルメットが、吹き飛ばされ視界から消えていった。
撤退は構わない。自分に期待をせず、ここまで登り、そしてこの登攀で僕は自分が強烈な状況に対してどのように反応するかを発見した。その後、トファーと僕は海外のクライマーたちとキャンプをしながら、悪天候の中で1ヶ月間待った。あきらめて手ぶらで帰るつもりでいたら、撤収日の3日前になって運が開けた。
今回は、友人のエリック・ロードを加え、彼がトポ(ルート図)を持っているリニア・ディ・エレガンザというルートをチャレンジすることにした。このルートは2年前にイタリア人パーティが、氷だらけのコンディションの中、エイドを使用し、9日間をかけて開拓したものだ。5時間にわたる氷河のアプローチの途中、立ち止まって山に望遠鏡を向けたとき、トポを失くしたことに気付いた。でも大した問題ではない。もとより絶好のチャンスどころか望みは薄く、すでにパタゴニアではいくつもの手痛い洗礼を受けていた。
再び期待せず出発したが、そこからはただ黙々と登り続けた。乾いた岩では嬉しいことに僕が核心部をリードさせてもらった。我々は夜にかけて登り続け、薄氷が覆う無防備な地点はトファーがリードし、ついにフリーで登頂を果たした。行動時間は50時間、その間に3回のご来光を仰ぎ、再びベース・キャンプへ戻った。
この山行で、すばらしい一体感を経験できた。マイク・ドナヒューの散灰の思い出、トファーの指導とパートナーシップへの感謝、尊敬するクライマーたちと過ごした待機期間。まさに自分がいるべくして、ここにいるという感覚だった。
それまでの人生には常に少しの違和感があった。スポーツ・クライミングでさえ何か違うと感じていたし、しっくりとしなかった。パタゴニアは僕にとってすべてが完璧だった。この冒険では、みずからの知恵や技術を駆使しなければ乗り越えられない逆境や、仲間との連帯感を僕は愛した。そして、そのすべてがまさにこれだと思えたのだった。