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脱原発をめざす首長の輪:第五首「地域での暮らしを問い直し、自分なりの楽しみを創り出そう」

曽我 逸郎  /  読み終えるまで9分  /  アクティビズム
脱原発をめざす首長の輪:第五首「地域での暮らしを問い直し、自分なりの楽しみを創り出そう」

◆「日本で最も美しい村」

中川村は、「日本で最も美しい村」連合に加盟している。「最も美しい村」はフランスに発し、イタリアやカナダ、ベルギーにも広がる運動だ。日本では2013年3月時点で49の町村と地区が加盟しており、福島県飯舘村もその仲間だ。 飯舘村では、「までい」を合言葉にして村づくりの努力を積み上げてきた。「までい」とは「両手で、手を抜かず、念入りに」といった意味だそうだ。 飯舘牛として有名な畜産をはじめとする産業振興、教育、女性の活躍など、数々のユニークな取組みが重ねられていた。しかし、それらのすべてが、東京電力福島第一原発の放射能災害で台無しにされてしまった。

テレビの報道で忘れられない場面がある。春浅い裏山の小さな祠に隣組の数軒の家族が酒や料理を下げて集まってくる。日が傾いた頃、「もうこのお祭りも二度とできないかもしれないなぁ」と呟いて、一家族、二家族と去っていき、最後に祠だけが残った。計画的避難区域に指定され、訪ねる人もなくなり、祭りは途絶え、見かけは変わらぬ季節の移ろいのまま、しかし放射能にまみれて、この祠は朽ち果てていくのだろう。 おそらく江戸時代かもっと古くからかもしれない、ささやかでもその土地で大切に受け継がれてきた祭りや伝統、文化を、放射能は無残に断ち切ってしまう。その瞬間をまざまざと示す象徴的な場面だった。 地震や津波だけなら、生き残った人たちは、復興をめざして心を一つに団結することができる。しかし、放射能汚染は性質が悪い。お年寄りの、先祖代々受け継いできて自分も手塩にかけて守り育ててきた農地や屋敷から離れたくない思い。その一方で、幼い子供の健康が不安でたまらない若妻。子供と妻を連れて避難したものの、仕事が見つからず、やむなく一人汚染地に戻り原発事故収束作業に仕事を求める父親。 放射能は、家族や地域をばらばらにする。無責任な言辞で人々を混乱させ、何を信じるべきか、争いの種をまいた「専門家」もいた。孫たちの避難の足手まといになりたくないと言い残して自殺した、百歳を超えるおじいさんもいたそうだ。

◆一番大切にすべきもの

飯舘村の裏山の祭りと同じような祭りが、中川村の私の暮らす地区にもある。サクラやレンギョウが咲き競う春、りんご畑の中の四阿(あずまや)にお年寄りから赤ちゃんまで隣組が集まって、五平餅を焼いて手料理を廻し、都会に出た若い者の様子や身体の調子を気遣い合う。 このようなそれぞれの地域ごとに古くから受け継がれてきた文化と、そこに寄り集う人々の暮らしこそ、一番大切にすべきものではないのか。まさに日本を「美しい国」たらしめるものだ。しかし、原発災害は、一瞬でそれを破壊する。その原発を、安倍首相は性懲りもなく再稼働させようとしている。その理由は何なのか。目先の経済か、核に絡む何か密約でもあるのか。いずれにせよ、真の意味の「美しい国」や人々の平穏な暮らしを犠牲にして許される理由はない。

◆「専門家」の知見とは

ドイツの脱原発の決断は、「安全委員会」ではなく「倫理委員会」によるという。キリスト教の聖職者や哲学者などがそのメンバーだった。原発は、ウラン採掘現場や原発内部で働く労働者、原発周辺の広い範囲に暮らす住民、そして、数十万年先の生態系にまで、被曝のリスクを負わせる。永劫ともいえる未来の人々に、放射性廃棄物安全管理の責務を負わせる。そんなことを今の我々の経済や利便性を理由に正当化することはできない。それが「倫理委員会」が脱原発を決めた理由だ。 日本では、原子力の科学技術者や経済学者に安全性や経済性を分析させ、それで専門家の知見を聞いたことにしている。しかし、それらの専門領域だけを選んだ背景には、当面の安全性を主張できれば再稼動させよう、経済的有利さが言い繕えれば再稼動させようという意図が、あらかじめ隠されているのではないか。

◆問われる暮らしのあり様、人生の価値

東京電力福島第一原発による災害は、安全か否かとか、損か得かといったレベルを突き抜けた問いを私たちに突きつけている。倫理的側面からのドイツの判断は、それに対する一つの答えだろう。しかし、原発災害が突きつける問いの射程は、単に原発をどうするかには留まらない。私達の暮らしのあり様、人生に何を価値とするか、といった深いテーマが問われている。 原発が停止して太陽光発電や小水力発電など自然エネルギーへの意欲が高まった。行政にも太陽光発電への補助を望む声が増えた。自然エネルギーによる発電に取り組む自治体も多い。しかし、原発がダメなら自然エネルギーで、という発想は、問題意識として間違ってはいないだろうが、射程が短いのではないだろうか。 原子力発電を太陽光発電に置き換えるだけでは、暮らしを深く見直すことにはならない。私たちはどんな生き方を望むのか。この問いこそ、今、突き詰めて考えねばならない。 私たちは、これまで、豊かさを「より便利で快適で欲望を叶える消費をすること」と考えてきたのではないか。大量に消費すること、より高価な商品、サービスを消費すること。それが個人のステータスでもあったし、社会の「経済成長」でもあった。しかし、それは我々に、幸せ、真の豊かさをもたらしたのだろうか。 国民の幸福感は、GDPや一人当たりGDPとは関連が薄く、平均所得が低くても格差の少ない社会ほど、幸福感は強い、という調査があった。また、韓国、フィンランド、日本の学生を対象に他者への信頼感、警戒心を調査したところ、日本の学生は、他者への信頼感が格別に低く、警戒心が強いのに対し、フィンランドはその逆、韓国は両国の間、という結果が出た(木村忠正「JFK大学生比較調査」)。 原発災害が破壊したものを目の当たりにし、このような調査結果と中川村の暮らしとを繋いで考えると、我々の今の社会への反省と、これから目指すべき社会のあり方について、深い思いに至らざるを得ない。

◆競争で淘汰される社会か、違いを受け入れ支えあう社会か

毎年三万人が自殺する日本では、子供たちの教育から労働に至るまで競争を強い、淘汰される恐怖で人々を駆り立てて、社会の効率化、スピードアップを図っている。自分を殺して働き、得た賃金で商品やサービスを消費することを喜びとして、精神のバランスをとっている。労働と楽しみとが異なる時間と場所に分断されているのが、今の日本の社会だ。数値化される生産と消費が多いほど、経済統計上は豊かな社会かもしれない。しかし、人は幸せなのか。 それに対して、原発災害によって破壊されることで気づかされたのは、互いに違いを受け入れあい支えあい、しばしば金のやり取りなしに営まれる地方の暮らしだ。 誰もが、自分にできる範囲、できるやり方でご近所社会に貢献し、思い遣りあう。かつ、ご近所社会の一員であるだけでなく、個人としても自分の好きなこだわりにいそしむ。

◆操られた欲望でない、自分らしい楽しみ方

例えば、誇りにできる農作物をつくることに情熱を傾ける農家がある。山菜やキノコをとってきてふるまう人もいる。子供たちのスポーツ指導、音楽や美術、工芸などの文化活動など、それぞれが自分の好きなことに熱心に取り組む。中川村ではおばあさん達の「ふみの会」が、日々の暮らしを綴った文芸誌をもう二〇年以上発行し続けている。ここでは、商品やサービスを金を払って消費することではなく、みずから何かを生み出すことを楽しみにしているのだ。 商品化の埒外にあるこのような楽しみは、金額換算されて産業生産高に貢献することは少ない。しかし、広告で操られた消費の楽しみよりも、自分らしい楽しみ方ができる。また、このあり方であれば、仕事と楽しみが分断される度合いは低い。 先日は、梨の品評会で何度も表彰されているおじいさんが、膝の手術をした退院の翌日、もう梨の剪定をしていた。丹精込めた木の様子に気もそぞろなのだ。 それに対して、原発が象徴するのは、大規模集中型の経済だ。大量のエネルギーを生産し、贅沢にそれを消費する。数値化された経済規模については拡大していくだろうが、その中で暮らす人々を細切れに分断し、労働を自分を殺しながら耐え忍ばねばならないものにする。生み出し育てる楽しみを、広告で操られた消費の欲望へと貶める。 そして、ひとたび原発で事故があれば、放射能災害は、支えあいの地域コミュニティーをばらばらに壊し、受け継がれてきた文化や伝統を根絶やしにしてしまう。

◆アンチテーゼとしての地方

数値化によってはこぼれ落ちてしまう本来の豊かさを取り戻すためには、原発を再稼動させないだけでは不十分だ。原発が象徴するところの、大規模化と集約による大量生産・大量消費の経済にアンチテーゼを示す必要がある。地域の伝統文化を受け継ぎ、共助の精神が残り、農業や文化活動やスポーツなどみずから生み出す楽しみの盛んな地方の農山漁村は、それになれる。 勿論、都会に暮らす人々も含めて、この時代のみんなの生き方が一挙に変わることはあり得ないだろう。しかし、地方に暮らす我々が、外部資本に頼らず、地域の良さ、可能性、資源を活かし、自分達の得手とする能力を持ち寄って、自分たちの裁量でことを進め、贅沢はできなくても手応えのある日々を過ごしていけばどうだろうか。原発が代表する古いライフスタイルを都会で送る人たちも憧れてくれるのではないか。 そんな風に、今とは別の、目指すべき本来の生き方を提示し、人々に生き方を見直すきっかけを提供できる村に、中川村はなりたい。

この記事は影書房刊行の『脱原発で住みたいまちをつくる宣言 首長篇』からの転載です。本書の詳細はこちらをご覧ください。

脱原発をめざす首長の輪:第五首「地域での暮らしを問い直し、自分なりの楽しみを創り出そう」

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