森の中の雪は良い

新谷 暁生  /  読み終えるまで11分  /  スノー

ニセコの新谷暁生が語る、
雪崩とカヤック遠征と(文字通り)生きるためのルールについて。

ニセコを象徴するダケカンバの森の中でこの朝最初のターンを刻む新谷。

全ての写真:二木 亜矢子

10年ほど前、ニセコの花園ハーモニーリゾートで開かれたK2スキーのイベントのゲストとして、ワイオミングのジャクソンホールからコーキー・ワードが来た。コーキーは当時ジャクソンホールスキーパトロールの隊長だった。彼はその集まりに少しとまどっているように見えた。スキービジネスの未来を語るイベントなのだから参加者は洒落たビジネスマンや冬季スポーツをリードする著名な男女、そして地元の議員などだ。私もなんとなく居心地が悪かったが、きっとコーキーもそうだったのだろう。そもそも私たちが取り組む安全の問題は経済活動の阻害要因でしかない。投資家や経営者は安全への投資を抑えたいといつも思っている。私とコーキーは賑やかなパーティの片隅で用心深くこの問題を話しあった。

彼はニセコにもコース外滑走のルールがあるのを知って驚いていた。そして「ジャクソンホールもルールを作ったが、お前はどれくらい時間がかかったのか」と尋ねた。私が「20年くらいだ」と答えると、コーキーは笑って「こっちは30年だ」と言った。「毎朝、なだれ情報を書くのは仕事か」とも聞かれた。「酒代とタバコ銭くらいにはなるよ」と答えた。私はこれに費やす時間とその対価は考えないようにしている。コーキー同様、私はボランティアではない。仕事としてこの問題に取り組んできた。

ジャクソンホールではコーキーはロープをくぐる「無法者」の追跡が30年つづいたという。無法者を捕まえて説教するのがコーキーの仕事だった。しかしあるとき考えを変えた。「コース外を滑らせよう。あの生意気なガキどもを死なせないためにも彼らが納得するルールを作り、それを守らせるほうが良い。勝手は許さないが自由は尊重しよう」彼は無法者に根負けしたのではない。それは長くこの問題に取り組んだコーキー・ワードの結論だった。

森の中の雪は良い

ロッジ・ウッドペッカーズのドアを通ってきたスキーヤーは数知れず、イヴォン・シュイナードもそのひとり。そのドアに彼が「C」と記したのは1985年のこと。そのロゴはのちに「幻のダイヤモンドC」と呼ばれるようになった。

私は1974年、27歳のときに札幌からニセコモイワに来て森を拓き小屋を建てた。それまでは北海道の山を年中登っていた。冬の日高や大雪、知床や利尻に入り、夏には道のない沢を登った。夢はヒマラヤに行くことだ。夢がかなったのは1969年だ。私は横浜から船でネパールに旅立った。当時の若者が皆そうだったように、私もヒマラヤに憧れていた。しかし夢だけでは生きられない。生きる糧を得なければならない。それで日本に帰り山小屋を始めることにした。金は勿論なかった。ボッカや土方で金を作った。工場でも働いたがすぐにやめた。チャップリンの映画のようだからだ。私は歯車にはなれなかった。

ニセコモイワの宿泊者の多くは学生や子供だ。朝の食事を出したあと、学生たちと滑った。道具は皮の登山靴と山スキーだ。スキー靴は買えなかった。雪が解けると地元の農家の手伝いをした。イモや野菜を分けてもらい、イワナを釣って暮らした。農家の家や倉庫の棟上げには腰袋にカナヅチとノミを入れ、祝いの一升瓶をぶら下げて出かけた。おかげで少し大工仕事の腕が上がった。こんな暮らしをつづけながらも、1978年にはカラコルムのバツーラ2峰登山隊に参加した。

80年代に入りニセコで雪崩事故がたびたび起こるようになった。リフトが山頂直下まで延びたことで、新雪を滑る人が一気に増えたからだ。事故はおもにニセコ町側の沢で起こった。私は役場に頼まれて捜索を手伝った。やがて事故のたびにその指揮を任されるようになった。他に経験者がいなかったからだ。

森の中の雪は良い

50年近く前に建てられた新谷のロッジには、いまだに鍵は必要ない。地元に生息するキツツキにちなんで名づけられ、外装は周囲の森の色調に合わせられている。

1991年1月、吹雪で減速運転中のアンヌプリゴンドラに乗り、先行者のトレースをたどってアンヌプリ大沢に入った若者が死んだ。この日、吹雪が雪を風下に吹き溜めることによって出来るスラブ、つまり吹き溜まりが急速に発達していた。成長中の吹き溜まりは不安定だ。少しの衝撃で亀裂が走り、厚いガラスが割れるように瞬時に破壊して雪崩を起こす。私はこの日もなだれ情報を各スキー場に送った。しかし役に立たなかった。山小屋のおじさんの言うことに耳を傾ける人は、今もそうだが当時も少なかった。これは日本最初のスノーボーダーの雪崩死亡事故だった。

今日のニセコの事故防止はパトロールの熱意に負うところが大きい。彼らには雪崩事故の経験とニセコを訪れるゲストの命を守ってきたという自負がある。隊長が良ければ若いパトロールも成長する。事故がニセコのパトロールを育てたといえる。私は冬のあいだ毎日彼らと話す。一方でパトロールの仕事はゲレンデの安全管理であり、コース外の救助は本来の仕事ではなく、救助は警察や消防が行うものだという意見がスキー場と世論の間に根強くある。しかし冬の捜索は一刻を争う。すぐ救助に向かえるのはパトロールしかいない。警察の救助隊の到着を待っていては助かる命まで無くしかねないのだ。

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ロッジ内の壁には著名なアルピニストの三浦雄一郎のような、日本の伝説的な登山家たちに敬意を捧げる写真が飾られている。

林野庁は公式にはスキー場からのコース外滑走を認めていない。ゲートを設けてスキー場外を滑ることを条件付きで認めたニセコルールはあくまでも特例であり、国も現行のきまりを変えるつもりはない。役所にとって雪崩問題は小さなことだ。彼らには原発や環境、医療問題など取り組むべき課題が山ほどある。現状で問題はしのげるのだからと、これ以上この問題に深入りしない。たとえ総理大臣が雪崩が重要な問題であることに賛意を示したところで、国が仕組みを変えないかぎり出先の役所は慣行に従うしかない。あらゆる問題で日本はこの体質の弊害に晒されている。雪崩のような小さな問題でも真摯に対応してくれる人が役所にいたら、現場はもっと楽になるのにと思う。

ニセコには5つの会社がそれぞれ別々のスキー場を開いている。利害がぶつかる各社が雪崩の問題では歩調を合わせている。ある意味それは奇跡に近い。過去の苦い体験とそこから生まれた危機感がそうさせているのだろう。しかしそれは風化し始めている。事故が減れば危機感も薄れる。ニセコが独自のルールを設定していることから、外国人や一部の日本人は欧米との比較でそれを問題視する。ニセコルールは完全ではない。しかしこれはこの土地の実情を踏まえて議論し、時間をかけて作られたものだ。

森の中の雪は良い

山間の小さな町ニセコで暮らしている新谷だが、彼の経験と知識は北海道をはるかに超えている。

私は事故のたびに現場に出た。雪崩捜索は重労働だ。雪崩のデブリはアルミスコップでは歯が立たないほど硬い。出始めのころの雪崩用ショベルはすぐに折れた。当時は捜索用ビーコンも普及していなかった。遭難者は時間を経て雪の中に体温を出し尽くす。そしてまわりの雪を解かし、やがて凍る。2日目以降に発見される遺体は全身ザラメ氷で覆われ、まるでツタンカーメンの棺のようになっている。

ほとんどの事故は悪天候の中で起こる。そんな日にはスキー場から外に出さなければ良い。2007年以降、私は毎朝なだれ情報を書く。内容は雪の降り方とリスクについてだ。リスクは千差万別だ。風の強さと向き、標高と降る雪の量、気温等すべてが同じではないからだ。私は天気図をはじめ各種気象図と、山に置かれている6か所の自動観測測器のデータを見る。灯台のデータもある。海は障害物がないので気圧配置を正確に反映する。等圧線は嘘をつかない。それから雪上車で山に上がり、現況と見比べてリスクを考える。

ニセコルールの考え方に納得する人は確実に増えている。ネットでの「ニセコなだれ情報」へのアクセス数は毎日5000件を超える。用心すればそう簡単に事故には遭わない。この当たり前の考えを理解する人が少しずつ増え始めている。そもそも安全な山などない。雪崩は自然現象であり、そこに人がいなければ事故は起きない。私が情報を出す目的は人びとに考えるきっかけを提供することだ。

森の中の雪は良い

ニセコのバックカントリーへのゲート脇に立つ新谷。ここを通過するため、スキーヤーやスノーボーダーたちは毎朝列を成して待つ。

ここに来てから50年近い。私は大勢の人に出会った。なかでもパタゴニアの創業者、イヴォン・シュイナードとの出会いは忘れられない思い出だ。彼をガイドしたのは、1985年冬のことだ。ファーストトラックをゲストに譲るのが私たちのポリシーだ。それでイヴォンに最初に滑るようすすめた。私は若いころにヒマラヤのシェルパの生き方からそれを学んだ。イヴォンが無事に滑り降りたのを見届けてから私も滑り出した。イヴォンは登山靴で滑る私を「アーミービンディングチャンピオン」と褒めてくれた。彼はモイワの雪と白樺の森を気に入ってくれた。それは私がニセコなだれ情報で良く使う「森の中の雪は良い」、というフレーズに当てはまる日だった。

その夜イヴォンは小屋のノートに「betterthanColoradopowder」と書いた。イヴォンが冗談でCとマジックで書いたドアは今も使っている。幻のダイヤモンドCだ。それからイヴォンは私をパタゴニア本社に誘ってくれた。1986年のチャムラン遠征のあと、私はカリフォルニア州ベンチュラに行き、ボブ・ジャレットのウッドショップで家具とハンガー作りを手伝った。それらは今もどこかで使われているだろうか。

森の中の雪は良い

すべてはパウダーを指して。山と温泉はもちろんのこと、なによりもその素晴らしい雪のため、世界中から人びとがニセコを訪れる。

私は冬の仕事が終わると5月から知床半島でカヤックガイドをする。対岸には国後島が30キロを隔てて横たわっている。そこは戦後75年以上も、ロシアに占領されたままだ。漁民は島が帰るのを願い、この過酷な海で漁をつづけている。私もまた30年間にわたりこの海を漕ぎつづけてきた。半島は日本では稀な原始景観と生態系を保っており、2005年に世界自然遺産登録地となった。

海は怠け者の私に合っている。なによりも空気が濃い。荷物はカヤックが運んでくれる。海も山も同じ冒険のフィールドだが、座ったままある種危険な遠隔地で冒険が出来るとは何と素晴らしいことか。英国の登山家ビル・ティルマンもそれで海に転じたのだろう。もっともティルマンは帆船で私は手漕ぎ舟だが。私は1996年からホーン岬を2度まわった。ティルマンのヨット、ミスチーフの足跡をたどり、パタゴニアのカルボ・フィヨルドに彼のキャンプ地を探したこともある。私は知床での経験を身に付けてパタゴニアやアリューシャン列島へと出かけた。アリューシャンはカヤックとアリュート文化が生まれた土地で、2000年代以来、この列島に7度の遠征を試みた。

森の中の雪は良い

この地域にある多数の天然温泉のひとつから眺めるニセコアンヌプリ(左)とニセコモイワ(右)。

海は危険だ。ときに山以上に恐ろしい。知床にはヒグマが多いが私はそれよりも海のほうがはるかに怖い。そして人はもっと恐ろしい。

海で私たちは外来者だ。知床で私たちはよそ者であり、そこにはお互いに折り合いを付ける知恵が要る。行く先の不安を取り除くのはそこを訪れる私たちの責任だ。住む人に不安を与えてはならない。相手の身になって考えること。それが私たちの自由なカヤック行を保証する。

1969年、ネパールの山奥でチベット難民の家族と暮らしたときのことを思い出す。中国の迫害を逃れてヒマラヤを越えてきた人たちだ。彼らの願いはいつかダライラマに拝謁することだ。家族は毎日経を唱え、ヤクの乳を搾りバターとチーズを作っていた。私も子供たちとともにヤクを追った。そのときの少年が年月を経てダライラマの住むインドのダラムサラにいることを最近知った。願いがかなったのだ。

私たちはダライラマ14世が話されたように目の前の仕事に真面目に取り組まなければならない。法王はそれがやがてチベットと世界を救うことにつながると言われた。しかし大多数が思考せず体制に盲従すれば、人が本質的にもつ狂気や悪が、やがて私たちの中に現れる。そして凶悪なものの出現を許す。考えなければならない。無知であってはならない。ニセコの雪崩問題などは小さな問題だ。だが私はこの土地に住む者の責任として、これを放置できない。


ニセコルール:

  1. スキー場外へは必ずゲートから出なければならない。
  2. ロープをくぐってスキー場外を滑ってはならない。
  3. スキー場外では、安全に滑走するために、ヘルメットと雪崩ビーコンの装着が最低限必要と考える。
  4. ゲートが閉じられている時はスキー場外に出てはならない。
  5. 立入禁止区域には絶対に入ってはならない。なお、捜索救助、調査活動は除外される。
  6. 小学生のみのスキー場外滑走を禁止する。
森の中の雪は良い

新谷はニセコなだれ情報を書く前、気象データを確認して雪上車で山に入る。そして明るくなった窓の外を不安げに眺める。

私たちはこの物語のフィールドである北海道が過去にアイヌ民族の生活圏であったことを確認し、先住アイヌ文化に敬意を表します。

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