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知床にて

新谷 暁生  /  2012年10月1日  /  アクティビズム, 環境

北海道東部に位置する知床半島は千島につながり、千島列島はカムチャツカ半島を経てアリューシャンへと続く。アリューシャン列島にはアラスカ半島のコディアック島付近までヒグマが生息している。そこから西のカムチャツカまでヒグマはいない。

知床にはたくさんのヒグマがいる。カヤックで半島を一周すると20頭近くのヒグマを見る。32頭を数えたこともある。正確な数はわからないが、面積あたりのクマ密度はおそらく世界でもっとも高いだろう。しかし昔からそうだったわけではない。20数年前、半島でヒグマを見ることはまれだった。しかし10年ほど前から急に目撃回数が増えた。

北海道では1990年までハンターによる春グマ駆除が行われ、役所はそれに補助金を出してきた。明治期、開拓の障害となるヒグマやオオカミは有害獣として狩られた。オオカミは早い時期に絶滅したが、ヒグマは滅びなかった。駆除の中止は結果的にヒグマを増やした。知床ではとくにそれが顕著だ。1964年に国立公園となり2005年に世界自然遺産登録地となる過程で、ヒグマの保護は当然だった。しかし今日、私たちが予想もしなかった事態が起こりはじめている。

2005年ごろからヒグマの食性が変化しはじめた。カモメの巣からタマゴを獲るクマが出はじめた。怒ったカモメが飛びまわるが、ヒグマはそんなことにはお構いなく片端からタマゴを食べつづける。タコ岩というところではタマゴを探して崖をよじ登り、墜落するクマまで出た。ウミネコやオオセグロカモメの数は明らかに減った。

雑食のヒグマは季節によって食べ物が変わる。春はフキやイタドリなどの新芽を食べ、エゾシカの死骸を食べ、あるいはトドなどの海獣類の死肉を食べる。また海辺でエビやイワニシ(小さいツブ貝)を探し、コンブを食べ、夏になると山に登ってガンコウランやハイマツの実を食べる。マスやサケはヒグマの重要な栄養源だ。夏の終わりの半島先端部近くの川では、ヒグマが遡上する魚を待ちつづける。昼間は子連れの家族が多い。母親は子供に狩りを教える。やがて子グマは上手に魚を獲るようになる。体重400kgを超えるオスの成獣は用心深い。彼らは日が暮れると猟をはじめる。

2008年ごろから沖の定置網まで泳ぎ、網のなかの魚を獲る個体が出はじめた。そしてそれを子供に教えるようになった。彼らは漁師がたくさんの魚を獲っているのを見て学習したのだろう。今年はそんなヒグマが網に絡まって溺れ死ぬ事件が起きた。

このような事例はなぜ増えたのだろうか。死骸を食べてもシカを襲うことがなかったヒグマだが、最近は積極的に生きたシカを狙う。また市街地に現れてゴミや軒先の干魚を漁る個体が急増した。その結果、ゴム弾や爆音弾による追い払いや、ワナ捕獲による奥地放獣が主体だったヒグマ保護対策の転換が余儀なくされている。すでに知床羅臼側の捕殺は40頭を越えた。冬までにその数は更に増えるだろう。

保護による個体数の増加は知床のヒグマ社会に深刻な問題を起こしはじめている。数の増加が餌不足を生み、弱いヒグマは追いやられ、新たな食べ物を求めはじめている。縄張り争いの結果、手負いのヒグマも出はじめた。これを放置すれば、やがては人を襲うヒグマが現れる。シカは人を襲わないがクマは襲う。餌が豊富な知床のヒグマは本来おとなしく、人を襲うことはない。しかしこの先どうなるかはわからない。ヒグマは猛獣だ。

事故を起こさないためにはヒグマとの距離を保つことが重要だ。無用に近づいてはならず、ましてや餌付けなどをしてはならない。しかし写真家やテレビクルーはおとなしいヒグマに近寄って傑作を撮ろうとする。

私はヒグマがいる海岸に上陸することが多い。そんなときには追い払う。ヒグマは人を恐れている。毅然たる態度で隙を見せなければ近寄って来ない。人と食べ物との関係に気づいている個体はそう多くはない。しかしそれも時間の問題のように思う。大勢が不用意にテント場などで食べ物や残飯を放置すれば、彼らはやがて人のそばに餌があることを知る。そして人を恐れなくなる。

野生のヒグマをこれだけ身近に見られる土地は、世界的にも知床以外にはない。ヒグマは日本に生息する貴重な生き物だ。現在、環境省と知床財団は新たな保護対策を模索している。市街地周辺の電気柵の設置やフードコンテナの推奨などがそれにあたる。しかし事故防止のための追い払いや射殺も日常的に行われている。

今年の異常な高温は川に上るマスを激減させた。これによる餌不足で、とくに子グマは飢餓状態にある。海岸で見る子グマはやせ細っている。そばにいるはずの母グマの姿も見えない。人間が行うべきヒグマの適正な数の調整、つまり間引きを結果的に自然が行っているのかもしれない。今年の冬は越冬できずに死ぬ個体が増えるだろう。

私は知床でシーカヤックガイドをしている。1980年代後半からこの海を漕ぎつづけてきた。それまでは山を登っていた。知床の海は山と同様に厳しいところだ。千島へと抜ける低気圧は知床の海でふたたびエネルギーを得て発達する。太平洋高気圧が北に張り出した今年の秋はとくに気圧差が大きく、そのために風の強い日が多かった。風は気圧の傾きが作り、波はその結果生まれる。波は技術で乗り切れる。しかし風に通用する技術はない。海上を水煙が走りまわる海を漕ぐのは危険だ。私は風が落ちるのを待つ。昔のアリュート人は「風は川ではない」ということわざを残した。

The wind is not a river. Sometime or other it is stop.
Slax chiganagulux. Txin atxligan saganax.(アリュート語)

人は自然と折り合いをつけて生きなければならない。ヒグマももちろん大事だ。しかし人間はそれ以上に大事なものだ。そんな当たり前のことを知床は教えてくれる。私は自然を畏怖する。知床はかつてこの土地に生きた海洋狩猟民の生き方を私たちに思い出させてくれる貴重な土地だ。8月、羅臼の海岸に一頭のマッコウクジラが漂着した。たくさんのヒグマがそこに集まって食べはじめた。半月後、クジラは骨を残して皮だけになった。このクジラは、きっとヒグマへの自然の贈り物だったのだろう。

知床エクスペディション ガイド新谷暁生

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