好きでする仕事
ハワイの伝統的なコア製カヌーの復元。
大ざっぱに訳すと「ハレイワの若く美しい女性」を意味する「カ・ワヒネ・ウイ・オ・ハレイワ」は、ここオアフ島ノースショアのハレイワにある〈マヌ・オ・ケ・カイ・カヌークラブ〉の自慢の種だ。
1本のコアの木から彫り出された「ウイ」は、ビッグアイランド(ハワイ島)のマウナ・ロアの標高約1,650メートル地点の斜面で育ったもの。この木は1980年代半ばに伐採され、カヌーの形におおよそ削られてから2年間保存処理されたのち、ビル・ローズヒルとキモ・ブラケンフィールドの力を借りて、タヒチ人の木彫職人パウニホ・タウタハがコナの古いカヌー小屋でウイとして仕上げた。船縁も座席もマヌ(先端部)も、構成要素はすべて同じ1本のコアの木からできている。ウイは海に出るとすぐにとびきり速いカヌーという評判を得て、1989年にはマウイで開催された州選手権でも勝利を収めた。
ウイは最終的に〈マヌ・オ・ケ・カイ〉の前メンバーだったチェリッシュ・ランスフォード・アルメイダの寛大な寄付により、同クラブの所有物となった。チェリッシュは子供のころ、クラブの創設者であるアンクル・ランディ・サンボーンの指導を受けていた。当時のクラブは子供たち(その多くが低所得世帯の出身)にとっての憩いの場所でもあった。
「〈マヌ〉の創設当初、土曜の夜は子供たち全員がクラブに泊まったのよ。日曜のレースに遅れないためにね。朝になると、子供たちにフレンチトーストを食べさせて、小型トラックの荷台に乗せて、レガッタに連れていったの。難しい家庭環境で育った荒削りな子供もいたけれど、少なくとも週に何時間かここにいるあいだは、問題に巻き込まれる心配はなかったわ」と、アンクル・ランディの妻アンティ・アロハは昔を思い出して語る。
チェリッシュは〈マヌ・オ・ケ・カイ〉で過ごした時間から大きな喜びを得て、そしてアンクル・ランディの夢がコア製カヌーを手に入れることだとわかった。そこでその機会が巡ってきたとき、彼女はウイを購入してクラブに寄付した。その後年月を重ねるにつれて、木製カヌーには避けられない運命として、ウイの船体は変形しはじめ、やがてハワイのレース基準を満たすことを確認する年次の水位線試験に通らなくなった。それ以来ほぼ10年間、ウイはビーチにあるクラブのハーラウ・ワア(カヌーの家)に保管されていた。歳とともにウイには汚れやシミができ、彼女の鼻は僕の鼻と同じくらい曲がってしまっていた。
けれどもウイの叫びは強く、練習の前にクラブに行くたびに、彼女がふたたびレースに出たがっているのが僕にはわかった。それまでの数年間、僕はウイの復元を提案していた。そしてほぼあきらめかけたとき、ついにアンクル・ランディの許可が出た。僕の家の近くに仮設のハーラウ・ワアを建ててウイを運び入れると、熟練のカヌー建造者であるマイロン・ヴァン・ギーソンとエリック・スーがオアフ島の西側から毎日車でやって来て、作業を手伝ってくれることになった。
僕が作業に携わることを、長年の経験を積んだベテランのマイロンとエリックがどう思うかについては、一抹の不安があった。でもその心配は作業を開始した初日に消えた。ウイのロッカー(中心線の反り上がり)を水位線の基準に合うよう修理するためには、魚をさばくように船体を縦にまっぷたつに切断しなければならなかった。アンクル・マイロンは手引きノコギリで船縁に最初の切れ目を入れるときも、まったく動じていない様子だった。しかし船体は頭から尾まで全長約14メートルあり、僕はテーブル用の板を切るのに使うトラックソーで切断することを提案した。僕はビッグウェーブに乗るときのような、アドレナリンによる震えを覚えたが、アンクル・マイロンは笑顔で「やっちまいな」と言った。それ以来、互いに気兼ねなく作業を進めるようになった。
その後8か月間、こつこつと復元をつづける僕たちに、クラブのメンバーからは毎日差し入れのランチが届いた。アンクルたちはそんなたくさんの食べ物のせいで太ってきたと嘆いた。州選手権が近づくと、ウイをレース仕様の元の姿に戻すためにマイロン、エリック、マリオ・ガルザ、その他のクラブメンバーたちと僕は週5日休みなく働いた。
やがてついに元通りとなり、ダン&ペイジ・エイチソンによって素晴らしい仕上げ加工が施されたウイを、僕たちはオアフ島選手権の水位線試験に連れていった。一筋縄ではいかなかったが、測定、議論、そして綿密な再測定を経て、審判はウイの10年ぶりの合格を承認した。それは多くの人たちの時間とマナ(魂の力)を借りながら、好きでする仕事をようやく完成させたあとの、忘れられない瞬間となった。そのあとすぐに短い祝福の儀式を済ませると、「ハレイワの若く美しい女性」は海に出て活動を再開した。
それから2週間後、最初の復帰レースとなったハワイの州選手権で、ウイは〈マヌ・オ・ケ・カイ〉の12歳の少女たちとともに金メダルを獲得した。ウイはふたたび誇り高く鎮座し、僕たちのクラブは究極の目標を達成した。
このエッセイはMay Journal 2019に掲載されたものです。