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地球が私たちの唯一の株主

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イヴォンの手紙を読む

ラジョダダ初登頂の回想

福田 倫史  /  2018年5月2日  /  クライミング, スポーツ

「次はどこに行こうか。アマダブラムかカンテガか。それとも未踏の峰々か。」

これは2015年、19歳で経験したヒマラヤのアイランドピーク遠征の報告書に寄せた隊員エッセイの結びの一文である。大学から山を初めて1年が経過していた僕は、エベレスト街道で見上げた峰々に大いに触発され、興奮冷めやらぬままいたことを鮮明に覚えている。それゆえにまるで5歳の少年が宇宙飛行士を目指すのと同じように、もはや夢とすら言えないようなあこがれを抱いていたのであろう。もっとも、当時の僕自身もそのことに薄々勘付いていたわけではあるが…。

キャラバン

「かれこれ10時間はたったはずだ。」2017年9月23日。僕とパートナーの萩原鼓十郎、鈴木雄大の3人はネパール中部の山道でチャーターしたバスに閉じ込められ、時計とにらめっこしていた。カトマンズから7時間ほどで目的地に着くと聞かされていたが、目的地の30キロ手前でバスが泥道にスタックしてしまったのだ。目的地はソティコーラ(Soti Khola)、僕たちが目指す山「ラジョダダ(Lajo Dada 、別名:ラングジュヒマール(Langju Himal))」のトレイルヘッドである。

「ラジョダダ」は2014年に解禁された未踏峰で、ヒマラヤで最も隔絶された渓谷の1つとされるツムバレー(Tsum Valley)に聳える6,426メートルの独立峰である。1年半かけて未踏峰リスト104座を余さず調べあげてようやく見つけ出した山だった。未踏峰リストとはいっても開示されているのは「山名・山域・標高・緯度・経度」のみであり、1つ1つ調べるのは気が遠くなるような作業であった。それでもなんとか「ラジョダダ」に目星をつけたが、いくら調べようと山容を鮮明に捉えた写真は1枚たりとも見つからなかった。果たして取り付くことができるのかどうかさえわからないまま、いてもたってもいられず5万分1地形図1枚のみを握りしめ日本を出発していたのであった。

やがてバスは泥道を抜け出し、カトマンズを出て17時間後、日付が変わった頃に目的地へと到着した。よほど疲れていたのだろう。翌日からキャラバンが始まるのだという期待よりも睡魔が勝り、ベッドに転がるとすぐに眠りに落ちた。

標高570メートルのソティコーラからベースキャンプ(以下BC)予定地までは片道100キロのキャラバンとなる。気温40度に迫ろうかという暑さに苦しみながら、黒部峡谷を5倍に引き伸ばしたような渓谷沿いを進むことになった。轟音とともに流れるブヒガンダキ(Budhi Gandaki)川が深く刻んだV字渓谷の両脇の断崖は500メートルを超え、その頂きからは大小様々な滝がいくつも落ちていた。いまにも上空に翼竜の生き残りが飛び出てきそうな光景に、未開の地に踏み込むような冒険心を掻き立てらる。いよいよ「ラジョダダ」へと。14頭の馬とともにキャラバンが始まったのだ。

キャラバン4日目になり、ツムバレーへと入る。ここはこれまでの渓谷沿いとは打って変わり、青い草原と田園風景が広がる楽園だった。草原を自由に馬が駆け回り、牛が日向ぼっこをしている。牧歌的という言葉がこれほどまでに当てはまる場所は珍しい。僕たち3人はすぐにこの地が気に入った。この日泊まるのは、ラマガアン(Lamagaon)という村でそれは僧侶の村という意味だった。その名に違わず大きなチベット寺院に寄り添うように住居が立ち並ぶ。その中の一軒の家に頼んで泊めさせてもらうことになった。突然訪問した言葉の通じない僕たちを、非常に手厚くもてなしてくれる彼らの優しさが身にしみた。

5日目の9月28日にはBC予定地までで最後の村となる「ムグンバ(Mu Gumba)」に到着。標高570メートルから出発したこのキャラバンも 3,700メートルを超えた。ツムバレー再奥の地とも言えるこの村には寺院があるのみで、住人は10人前後の僧侶に加えて、この地を訪れる旅人にダルバート(ネパールの定番食でカレーのようなもの)を振る舞う女性のみであった。我々は数日この村に滞在し、BCが建設できる場所を探ることにした。

2日後なんとか標高4,600メートル付近にBC適地を見つけられたため、10月1日にBCを設置する。小川の流れる草原の中には、滞在用テントとBCキーパーのネパール人ガイド2人用テントに加え、ダイニングテント、キッチンテント、さらにはトイレテントまで計5つのテントが立ち並び、ひとつの町が出来上がった。BCまでいけるかという不安が解消され、ようやくあこがれの「ラジョダダ」に取り付くことができるのだと士気が高まった。

山頂へ

ヒマラヤの高所登山や氷河上での経験が乏しかった僕たち3人は、極地法での登山を選択し、ルート工作や荷揚げを繰り返しながら登ることにした。5,200メートルに設営したC1までは、氷河の状態に恵まれ容易に到達することができた。しかし、そこから上部が問題だった。氷河上は無数のクレバスが口を開け、クレバス帯を越えると今度はアイスフォールが幾重にも立ちふさがっていた。

それでも1つ1つ着実に越えて行き、最初の荷揚げから1週間後の10月12日、氷河上5,730メートル地点にアタック・キャンプ(AC)を建設することができた。しかしACでの宿泊時に僕に高度障害が出たこともあり、アタックに備えて体を休めるため、一旦BCに下ることにした。

10月17日。いよいよ夢にまで見た「ラジョダダ」へのアタック日。起きてすぐテントの口を開けると、新月の夜空に無数の星が輝いていた。無風快晴。これ以上ない好機だ。早朝3時20分に出発。氷河上に3つのヘッドランプの光が一列に浮かび上がる。タイトロープで結び合ったそのか弱い光に頼もしさを感じつつ進んでいると、そのうちの1つ、先頭の鈴木の光が、突然斜面下に向かって滑り出した。雪崩だ!

幸い鈴木は自力で雪崩から這い出すことができたため、事なきを得た。その後は慎重に雪崩地形を避けながら高度を上げ、チョーシンヒマール(Chossin Himal)稜のコルへと上がる。すると、これまで姿を現さなかった「ラジョダダ」が深い氷河を挟んで目の前にいきなり現れた。夜明けの空をつくように聳える山頂部分を朝日に染め、ヒマラヤ襞で飾られた北東壁を眼下の氷河にストンと落としていた。「本当にあったのか…!」1年半思い焦がれていた「ラジョダダ」との初対面にしばらく茫然とした。

数分後ようやく自分を取り戻し、チョーシンヒマール稜を詰めていくとⅢ級ほどの岩場が出てきたが、これを問題なく登りきり、6,200メートルの無名峰に到着した。「ラジョダダ」頂稜の取り付きへはここから一旦下り、緩やかな雪原を辿るだけであったが、この雪原が誤算だった。雪が吹きだまっており、膝上ほどのラッセルでペースを落とした。直線距離で1キロほどの雪原の通過に時間を取られ、頂稜取り付きに到着した時には14時になっていた。明日まで続く好天予報だったためビバークを覚悟し、前進を決意する。頂稜は高低差250メートルほどのアイスクライミングになると予想していたが、快晴のため気温が上がり、スクリューの効かないグサグサの雪稜となっていた。プアプロテクションであることに加え、雪稜の斜度は平均60度、最大75度。さらにクライマーズライトは雲海の下まで2,000メートル切れ落ちていたため、緊張を強いられるクライミングとなった。

コルから鈴木リードで3ピッチロープを伸ばすと、またしてもラッセルとなった。ここへきての胸ラッセルは体力的に厳しかったが、萩原が粘りのラッセルで切り抜けた。その後傾斜50度の雪壁を2ピッチ登り切ると、360度の大展望が開け、リードの鈴木の右手が差し出されていた。AC出発から14時間のアルバイトの末、ついに、世界で初めてラジョダダの頂に立った瞬間であった。

時刻は17時30分。夕日が西の空を赤く染め、西にそびえるスリンギヒマール(Shringri Himal)の陰に隠れようとしていた。余韻に浸る間もなく下山を開始。暗闇のなか懸垂下降5ピッチで取り付きに降り立った。その後も夜通し下山を続け、ACを出発してから26時間後にACに到着した頃にはすでに朝になっていた。ACで3時間ほど仮眠した後、テントを撤収する。ACを後にするのを見送るように、チョーシンヒマール稜の向こうからラジョダダが顔を覗かせていた。もう二度と目にすることはないだろうその姿を目に焼き付け、下山を開始。途中のフィックスとC1を全て回収したため、膨れ上がったザックの重量は40キロほどあっただろう。日没後の19時30分、BCに到着し、全員で固い握手を交わした。「おめでとう」などとあえて言葉に出さずとも、お互いの顔を見るだけで十分だった。ザックとともに肩にのしかかっていた重圧のようなものがふっと何処かへ飛んで行った。その後は、すでに寝ていたBCキーパーのバクタとカンツァを叩き起こし、登頂報告をした。僕たちの無礼にも嫌な顔一つせず、大いに喜び、祝福してくれた。

2018年3月、東京

地図が1枚。これだけで海を越えて旅に出るのはファンタジーの世界の海賊ぐらいかもしれない。もちろん海賊でも山賊でもない僕らは、本当にあるかも分からない「ラジョダダ」を目指し、ただ一生懸命登った。今振り返ってもそんな記憶しかないし、事実そうであったに違いない。経験も知識も乏しい僕たちを、登らせた原動力は何だったか。月並な言い方になるが、それは「あこがれ」であった。19歳の時に抱き、2年半育み続けた「あこがれ」が、6,200メートルでのラッセルもの苦しさも、2,000メートル切れ落ちた頂稜の恐怖すらも忘れさせ、ただ一生懸命に登らせてくれたのだ。そしてかつての「あこがれ」は、今では「思い出」に変わり、僕の心の「宝物」となってくれている。

「次はどこに行こうか。」この問いを今の僕に投げかけても正直次の目標は固まっていないし、候補全てを挙げるには文が少々長くなりすぎた。そこで、問いの答えとして「山の詩人」ガストン=レビュファの言葉を借りて、ペンを置こうと思う。

「わたしは思い出よりもあこがれが好きだ」

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