ゆったりした心で生きる
ジェリー・ロペスを遠く離れた島の懐かしい感情へと連れ戻した、奄美大島への旅。
僕がホノルルで生まれたのは1940年代後期、ハワイが州になる前のことです。あのころの暮らしはゆったりしていました。それは「アイランド・スタイル」と呼ばれ、皆……少なくとも僕らが知っていた人たちは皆、そんな島流の生活を送っていました。動物園の向かいにあるビーチは、僕らが放課後や週末を過ごす場所でした。ホテル周辺やクイーンズ・サーフで日曜に開かれるルアウでは観光客を見かけたものの、ワイキキ・ビーチやカピオラニ公園などはほぼ地元の人しかいませんでした。そんなある日、母が僕と弟をベビー・クイーンズにサーフィンに連れて行ってくれました。まさかそれがその後の人生を大きく変えることになるとは、母も含めて誰も想像していませんでした。あの日僕ら兄弟はサーフィンの虜になりましたが、先にのめり込んだのはビクターでした。
ビクターの学校の友だちだったスタンフォード・チョンと彼の家族は皆サーファーだったため、いつしかビクターは自分のサーフボードを手に入れ、いつも一緒にサーフィンをしていました。チョン一家はオアフ島イーストサイドのクラウチング・ライオンとチャイナマンズ・ハット(モコリイ)の中間あたりにビーチハウスをもっていて、スタンフォードの姉マーリーンと僕が同級生だったこともあり、僕も週末をよくそこで過ごすことになりました。
彼らの大きな家には広い庭があり、屋外バーベキューと焚火台を囲むようにハウ(オオハマボウ)の木が生い茂っていました。ホノルルの町からパリを越え、カネオヘの町を通りすぎ、右手に海、左手に雄大なコオラウ山脈が見えるウィンドワード側をドライブします。イーストサイドは毎日のように雨が降るので、あらゆるものが緑に覆われていました。朝、よくビーチを歩きながら、日本の漁船から漂着したかもしれないガラスの浮き玉を探したものです。早起きで、探すべき場所を知っていた大人たちにいつも先を越されていましたが。朝食後、チョンさんは子どもたちをボートに乗せて釣りに連れていってくれたり、チャイナマンズ・ハットを探索させてくれたり、家の前のリーフでスピアフィッシングを教えてくれることもありました。
いつの間にか、そして自分でもわからないうちに、僕はこの島のイーストサイドが好きな少年になっていました。そこにはまるで魔法にかかったような、特別な感覚、雰囲気、匂い、独自性がありました。貿易風が吹いたら、カツオノエボシに気をつけて、刺されないようにすることを学び、暗い夜には、町の明かりに邪魔されることなく、星がどれだけ明るくはっきりと輝くのかを知りました。
当時はまったくわからなかったのですが、のちに年を重ねてから振りかえってみると、いかにあのころの生活がのどかなものだったかに気づきました。若いころの人生は、その若さゆえの疑問や不安で揺れ動いていました。しかしイーストサイドで過ごした時間には、日焼けした肌にアロエジェルを塗るときのような独特な癒しがあり、僕は毎回行くのが楽しみでなりませんでした。
ある意味、人生は父親の車に似ています。旅に連れていってはくれますが、進みつづけるにはどこかで止まって給油する必要があります。
チョン家のビーチハウスで過ごす週末は、そのガソリンスタンドでの休憩時間のようなものでした。けれども万事が変化していくように、いつしか僕も異なる種類の燃料で走るようになりました。サーフィンが頭をもたげ、それが僕の燃料タンクを満たすようになったのです。僕はサーフィンが燃料に取って代わったことに気づいておらず、取って代わるということがどういうことなのかもわかっていなかったと思います。サーフィンはひたむきな努力を要するため、必然的に時間の一部だけではなく、すべてを使うことになります。深い情熱が芽生え、サーフィンはやりたいことのすべてであると同時に、心のなかに大きな炎を燃やし、さらにそれを求めて……そう、人を突き動かすのです。
チョン家での早い段階での調和が関係しているのかもしれませんが、気がつくと、僕はイーストサイドの外れにあるカハルウに住んでいました。サーフショップを経営するために町へ出て、夏はアラモアナでサーフィンをし、冬は波を追ってノースショアまで遠出したりと、車に乗る時間が多くなりました。助手席に乗っていれば、通りすぎるチョン家に目をやることもありましたが、誰も見かけませんでした。車を停めて見に行ったことも何度かありましたが、がらんとしていて、少年時代に抱いたあの甘ずっぱい思い出はもうありませんでした。でもサーフィンが僕の燃料タンクを満タンにしていたので、寂しくはありませんでした。
それからの人生は歳月とともに矢のごとく過ぎていきました。2017年、パタゴニアの映画制作班からドキュメンタリー映画のプロジェクトの提案がありました。それはきっと起こるべくして起きたのでしょう。強風に煽られたスピンネーカーのように、一気に展開していきました。もちろん帆に寄ったシワのような問題もなかったわけではありませんが、昨年の春にはプレミア上映の準備が整っていました。
上映ツアーは全米、ヨーロッパ、オーストラリア、日本とつづきました。監督のステイシー・ペラルタもほとんどの場所を一緒にまわりましたが、多忙により日本へは僕だけで行きました。このプロジェクトを進めるにあたっては、新型コロナウイルスのようなものが、あのような影響をおよぼすとは思ってもみませんでした。しかし、世界中が驚愕したため、僕らの上映ツアーの壁も高くなりました。僕が日本を訪れたときは、日本がちょうど入国制限を緩和したところでした。上映地は鎌倉、仙台、東京、大阪、福岡と、いずれも僕がかつて訪れたことのある都市で、そのすべての場所に古くからの友人がいて、上映会はスケジュール通りに滞りなく開催されていきました。
ツアーの最終上映地は、沖縄の近くにある小さな群島のひとつ、奄美大島でした。聞いたことはありましたが、それまで実際に訪れたことはありませんでした。しかし厄介なことに、台風が僕らと同じ目的地を目指して、予測不可能な進路をたどりながら接近中でした。たいていの人であれば、台風の予報が出たら旅の予定を変更するのが普通です。しかし、サーファーにとっては、台風の接近は波が来ることを示す確実なサインであり、障害ではなくむしろ魅力となります。そして我がパタゴニア・ジャパンのチームは皆サーファーでした。僕らは奄美大島に向かいました。
空港への着陸体勢に入ると、上空から見下ろす海は素晴らしいものでした。紺碧の海には強い貿易風によって白波が散りばめられ、スウェルが島に向かって押し寄せていました。窓の外を見つめながら、僕はすでに頭のなかで、ダウンウィンドSUPやウィングフォイルで波乗りを楽しんでいました。
着陸した僕らは、長ズボンに靴という都会の格好のままでした。でも、ターミナルにいた友人たちは皆、短パンとサンダル姿で僕らの到着を待っていました。そう、一目見ただけで、彼らが皆、ゆったりした心で生きていることがわかりました。僕も早く着替えて、彼らの仲間に加わりたい、と待ちきれない思いでした。そして飛行機のドアから出るとすぐに、何かが起こりました……漂う感覚、匂い、緑の茂る丘。それが何かはわからなかったのですが、以前行ったことのある場所に戻ってきたような気がしました。僕は注意深く見渡してみました。草木には見覚えがあり、海は風をはらんでいて、サンゴ礁や砂浜の上で水晶のように澄んだ波が崩れていました……知らないのに、知っているはずのような気がしました。
古くからの友人たち、そしてたくさんの新しい友人たちが、レイをもって僕らを出迎えてくれました。ゆったりと親しみにあふれ、家族といるような雰囲気に包まれました。迎え入れてくれる家やサーフショップへ車で向かう道のりも、まったく不思議なほどデジャヴのようでした。車が停まるとすぐに、この環境に溶け込んでよりくつろぐために、僕は短パンとサンダルに着替えました。
砂と水に触れて海とつながりを感じようとすぐそばのビーチへ歩いていき、吹きさらしの海岸に立つ家屋に特有の風化した外壁を見ていると、僕が抱いていた強い感覚の驚くべき事実が明らかになりました。僕は65年前のオアフ島イーストサイドのチョン家に戻ってきていました。あの愛に満ちた感情は、決して消え去ったわけではなく、それをかつてのままに一気に呼び戻す、しかるべききっかけが必要だっただけなのでした。良い感情というのは、不思議なもので、力強いものです。僕らは普段、それを当たり前のように享受し、それがどれほど深いものなのか、どれほど長くつづくものなのかを考えることはありません。残りのツアーは、家族や友人と過ごすのと同じように、まったくスムーズでよどみないものでした。島の反対側まで車を走らせたときも、その道中のすべてがハワイに見え、ハワイにいるように感じられました。僕らはかけがえのない友人たちと素晴らしい波に乗り、美味しいものを食べ、語り合いました。本当に良い時間でした。
翌日、僕らは地元のサーフ・コミュニティにこの映画を披露しました。彼らは素晴らしい観客でした。その日の夕方、台風が水平線のすぐそばまで迫っているなか、僕らは飛行機で飛び立ち、夜遅くに東京に戻りました。その台風は沖縄を直撃しましたが、あまりに良い雰囲気に包まれていたからか、台風は奄美大島からは逸れていきました。
この旅は、始めから終わりまでずっと「アイランド・スタイル」がつづく素晴らしい旅で、久しく忘れることはないでしょう。あの小さな島と、そして緊密なサーフ・コミュニティをあとにした僕は、ハイオクの燃料で満タンになっていました。あの場にいた他の皆も、そうであることを確信しています。