鷹とともに生きて

谷山 宏典  /  読み終えるまで10分  /  カルチャー

種を超えた生きものとの深い関係性のなかで

今年訓練をしたアカケアシノスリ。羽を広げると130センチほどになる中型の猛禽類。通常のノスリと異なり、指の付け根まで白く短い毛でおおわれている。

全ての写真:遠藤 励

東北地方のクマタカを使った鷹狩の起源は定かではない。一説には、身分の低い武士たちの鷹狩が土着化し、農村に伝わったのではないかと言われている。

東北の山あいは冬になると深い雪に閉ざされる。かつて農民や猟師たちは鷹狩でウサギを獲り、肉や毛皮を売って現金収入を得たり、不足しがちな動物性タンパク質を補うために自分たちで食べたりしていた。

クマタカによる狩りができるのは、12月下旬ごろから4月下旬ごろまでの、山々が雪に覆われる季節である。藪が雪の下に隠れることで、自由に山を歩けるようになり、鷹も獲物を発見しやすくなるためだ。

鷹とともに生きて

鷹狩りのために山に入るときは1日中何時間も、鷹を腕に乗せたまま山を歩きつづける。

山形県天童市の山あいの集落、田麦野に暮らす鷹匠の松原英俊は、そんな鷹狩に魅了され、50年近くもの間、毎年冬になると鷹とともに狩りに出る生活を送ってきた。

鷹狩は、4000年以上前、中央アジアから西アジア周辺で発祥したと考えられている。日本に伝わったのは、古墳時代中期の4世紀半ばごろ。以後、歴代の天皇や貴族、戦国大名、徳川将軍家など、それぞれの時代の権力者たちに愛好され、彼らの下で鷹の飼養や訓練を行ったのが「鷹飼」「鷹師」「鷹匠」と呼ばれる人たちだった。明治時代に入ると、将軍や大名、上級武士のみの特権だった鷹狩が民間人でもできるようになり、2つの潮流が生まれた。ひとつは、古来の鷹狩文化を受け継ぎ、鷹の飼養や訓練を行う人々の流れ。そしてもうひとつが、主に東北地方の農民や猟師の間で広まった、クマタカを使った実猟としての鷹狩である。

現在の日本では、鷹やハヤブサなどの猛禽類を飼養・訓練して、鷹狩をする技術を持っている人を総じて「鷹匠」と呼ぶことが多い。ただ、鷹匠を名乗る人たちの中にあって、松原が唯一無二の存在であることは間違いない。大型の猛禽類であるクマタカを使って実猟ができる鷹匠は、かつては東北地方の山間部の農村に大勢いたが、今では松原ただひとりを残すのみとなったからだ。

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鷹小屋。手前はクマタカ。奥に見えるのがイヌワシ。どちらも大型の猛禽類だ。

少年時代から生きものが好きだったという松原が、東北の鷹匠の存在を知ったのは、10代のはじめのころ。『老人と鷹』というドキュメンタリー番組を見たのがきっかけだった。その番組の中で、松原はあるシーンに心を奪われた。それは、囲炉裏の前に座った老鷹匠が腕に鷹を据えて、お椀でぬるま湯を飲ませている場面だった。

「ペットとして鷹を飼っているのではなく、人間と鷹が一体になって生きている姿、種を超えた濃密で深い関係性を、子供ながらに感じ取ったんだと思います」

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「森の王者」と呼ばれるクマタカ。このクマタカで実猟ができる鷹匠はいまでは松原ただひとりと言われている。

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松原が飼養するもう1羽の大型の猛禽類、イヌワシ。

大学生時代、松原は日本各地の山を登り、山間の村々を旅してまわった。そのうち旅だけでは飽き足らず、住み込みで働かせてもらいながら、山村に滞在するようになった。当時、山間の村々には自然とともにある昔ながらの暮らしが色濃く残っていた。そんな日々を通じて、松原の中には「自分も、自然に囲まれた環境で、生きものたちとともに生きていきたい」という思いが芽生えてきた。そう心を決めたとき、蘇ってきたのが『老人と鷹』の記憶だった。そして、「鷹匠になろう」という気持ちが、自然と湧き上がってきた。

「『自然に囲まれて生きたいというなら、農業や猟師でもよかったんじゃないのか』と聞かれることもあります。でも、鷹匠以外の選択肢はなかったです。私にはまず、生きものと深く関わりたいという気持ちがありました。だからこそ、鉄砲ではなく、鷹とともに狩りをすることに魅力を感じたし、鷹匠という生き方に自分が求めているすべてがあるような気がしたんです」

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防水・防寒のための毛皮を羽織り、身支度をする。深い雪山を歩くため、足にはかんじきを履き、腰には木製の餌箱をぶら下げる。

慶応義塾大学文学部を卒業した松原は、山形の鷹匠・沓沢朝治の下で1年間、鷹の訓練の方法を学んだのち、山形県北部の山麓の山小屋に移り住み、自分と鷹だけの暮らしをはじめた。山小屋にはガスも電気も水道もなく、明かりはランプやロウソクだけ。いちばん近くの民家までは、歩いて2時間半ほどかかった。普通の人の目には、そんな山小屋での生活は不便で寂しいものに映るかもしれない。しかし、山の中で鷹と狩りをして生きていきたいと望んでいた松原にとっては、まさに理想の場所であった。

そのころ、松原が手にしていた1年間の現金収入は、夏の3か月間、近くの集落の農家の手伝いや工事現場のアルバイトで稼いだ約25万円だけだった。そのお金で米や調味料、缶詰など最低限の食品を買い、あとは小屋の近くに畑を作って野菜を育てたり、山で山菜やきのこを取ってきたりして、毎日の食事をまかなった。まさに自然の恵みによって支えられる暮らしだった。

「お金がなくても、自分は自由だし、幸せだと感じていました。誰にも束縛されず、憧れていた生活を送ることができていたからです」

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お椀でアカケアシノスリにぬるま湯を飲ませる松原英俊。

鷹狩は、狩猟の中でも特異な手法だと言える。一般的な狩猟は、銃やわなといった人間が作った道具で狩りをする。かたや鷹狩は、鷹やハヤブサを使って、ほかの鳥や小動物を狩る――つまり、「生きものを使って、生きものを狩る」行為である。

鷹が獲物を見つけて襲いかかるのは、動物としての本能に基づいている。しかし、鷹匠の腕から飛び立ち、狩りをすることは鷹の本能には刻まれていない。鷹狩をするには、パートナーとなる鷹の体調管理や訓練を行い、異体同心とも言える親密な関係性を築かなければならない。

松原は現在、クマタカ、イヌワシ、オオノスリ、アカケアシノスリ、ハリスホークの5羽を飼養している。そして、今年の冬の狩りのため、松原はアカケアシノスリをパートナーとすべく訓練をした。

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淡いろうそくの光の中で行う「据え」。

訓練は毎年10月下旬ごろにはじめる。鷹を腕に乗せることを「据え」と呼び、まずは真っ暗な室内で据えを行い、暗闇に慣れてきたら、ろうそくを灯した淡い光の中で人がいることに慣らしていく。室内の明るさに慣れたら、その後、日中の室内、夜間の屋外と環境を変え、最終的に日中の屋外でもおとなしく据えができる状態までもっていく。

何の訓練も施していない鷹は警戒心が強く、人がそばにいるとバタバタと暴れて抵抗するため、腕に乗せることすらままならない。人と光に徐々に慣らしていく据えの訓練は、鷹狩を行うための基礎中の基礎となる。

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日中でも氷点下の田麦野の冬。雪の中を「据え」をしたまま毎日歩くのも訓練のひとつ。

据えの訓練と同時に「絶食」も開始する。絶食とは与える餌の量を調整することで、鷹の体調を整えつつ、適度な飢餓状態に追い込んで狩猟本能を研ぎ澄ましていく。据えができるようになると、松原は腕に鷹を乗せ、風の強い日以外は毎日近所を散歩する。また、自宅の周りや近くの里山で、餌を使って、鷹を鷹匠の腕に呼び戻したり、獲物を捕まえたりするための訓練も行う。

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鷹は生肉しか食べない。生きたチャボを自ら絞めて餌を作るのも、鷹匠の重要な仕事。

「禅師あたりなら『鍛えられているのはどちらか』と尋ねそうな話である」

15歳のころに鷹狩クラブを立ち上げ、狩りができるように鷹やハヤブサを訓練していたパタゴニアの創業者、イヴォン・シュイナードは、こうした訓練について、自身の著書の中でそう語っている。

鷹の訓練は、まさに鷹と寝食をともにする日々だと言える。据えの訓練をしているときは、寝るときと風呂に入るとき以外は、ずっと鷹を腕に乗せたままにしておく。食事のときも、本を読むときも、日常のあらゆることを、鷹を腕に据えた状態で行う。鷹は通常、鷹小屋で飼養しているが、訓練がはじまると松原の部屋にとまり木を設けて、昼夜を問わず、同じ部屋で一緒の時間を過ごす。

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一見なんでもない光景に思えるが、鷹が心から鷹匠を信頼していなければ実現不可能。

絶食させているときは、鷹の些細な変化にも気を配る。例えば、口の中や足の指の色、瞼や羽の様子、糞の色や出かたなどから鷹の体調を判断し、生と死の境目を見極めて、鷹の狩猟本能を最大限まで高めていく。そうした鷹を見る目は、何年も鷹を見続けているからこそ磨かれていく。

訓練はだいたい1か月半、人に懐きにくい鷹では2、3か月かかる。そうした長い時間をともに過ごすことで、鷹と心を通わせることができる。

「人間と違って、鷹は言葉を発しないし、表情やしぐさで何かを表現することもありません。でも、鳴き声を聞くと、『今、怒っているな』『警戒しているな』などと、鷹の気持ちがわかるようになってくるんです」

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獲物を襲ったあと、この鋭い爪で窒息死させる。

そうして多くの時間をともに過ごし、訓練した鷹がはじめて獲物を獲ったときのことは、今でも忘れられない。それは山小屋で暮らしはじめて3年半もの月日が流れた、ある冬の日だった。雪に覆われた山の中、松原の腕から羽ばたいていったクマタカが、ウサギに向かって一直線に飛翔し、その鋭い爪で獲物を捕らえた。

「その瞬間、言葉にならない感情が体の内側から押し寄せてきて、私は声を上げて号泣してしまったんです。ほんとうにうれしくて、『自分はこの日のために生きてきたんだ』と心の底から思いました。おそらく、あれほどの感動は二度と味わうことができないでしょう」

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「生きものと深く関わって生きたい」と、その人生の50年以上を鷹とともに生きる松原。

山小屋で暮らしていたころ、自らの不注意で鷹を死なせてしまったときには、「自分もあとを追って死にたい」と思うほどの悲しみや絶望感を味わった。また、左目を失明するなど、松原自身の身に苦難が降りかかることもあった。しかし、だからといって、鷹匠をやめようと考えたことは一度もない。松原の生活の中心には常に鷹がいた。松原にとって、鷹とともに雪山に入り、狩りをすることは「生きること」そのものだと言っても過言ではない。

「少しずつ時間をかけて訓練した鷹と、誰もいない雪山を歩く。獲物を探して、鷹とともに山奥へと分け入っていく。そんなとき、『ああ、自分は幸せだな』って思うんです」

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遠くから鷹匠のところへとまっすぐに戻ってこさせる訓練。

獲物を見つけると、鷹は松原の腕から矢のように飛んでいく。その瞬間、松原は鷹と一体になったかのような不思議な感覚につつまれるという。

71歳になった松原は、この先も鷹とともに生き、狩りを続けるのだろう。

「私にとって鷹匠とは『鷹とともにある』ということです。鷹と一緒に生きて、ともに山を歩き、狩りをすることができれば十分。ほかには何もいりません」

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山の向こうを指す松原。松原を見つめるアカケアシノスリ。

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