極北の山稜にて

鈴木 啓紀  /  読み終えるまで9分  /  クライミング

ささやかな挑戦を積み重ねることに価値はあると信じたい。そんな思いとともに、3年ぶりにハンター北壁に向かった。

カヒルトナ氷河をハンター北壁へと向かう。写真:岡本 徹也

完全な力不足だった。
迫力にのまれ、まったくもって登り切れるイメージがないまま巨大なハンター北壁に取りつき、「チリ雪崩がひどすぎる」などと言って、わずか4ピッチ登っただけで、そそくさと敗退した。
ヨセミテのビックウォールやヨーロッパアルプスの山でも多少の成果を出し、国内の壁でも相応の手応えを得て臨んだ最初のアラスカ登山は、完全な力負けに終わった。ターゲットにしていたハンター北壁は、その下部に触れただけであっさりと敗退した。2005年の6月の話だ。

2005年の最初のアラスカ以降、2008年、2009年、2019年と、計4回この地を訪れた。2005年はハンターにはじき返された後、ミニムーンフラワーやアイ・トゥース西壁を登った。2008年はルース氷河でグローブナー東壁の第二登を含め、いくつかの素晴らしいクライミングができたが、カヒルトナピークスからカシンリッジの継続を目指した2009年はぼろ負けに終わり、10数年ぶりにハンター北壁を目指した2019年は、悪天のために壁の上部からの敗退を余儀なくされた。ちょっとした成功もあったものの、実現させたいと願っていたアラスカグレードⅥが付与されるような大きなクライミングは、一度も成功させることができていなかった。

私にとってアラスカは、非常に苦しい思いの残る土地でもあった。

コロナ禍もやや落ち着きを見せた2022年、前回のアラスカを共にした大石明弘と私は、再びハンター北壁を目指すことにした。北壁から命からがら降りてきたあの時に、大石と、そして自分自身と交わした、「また二人で大きな山に行こうぜ」という約束を果たさなければならない。

バタバタと日本を出国し、アンカレッジから登山基地となる町、タルキートナへと向かう車中、ふとネガティブな気分に襲われた。
「もし今回もまた登れなかったらどうする」 
「もし登れたとしても、それに一体どれほどの意味があるのか」
私は、勝ち目がないギャンブルにベットし続けているだけなのかもしれない。その日の夜は、あまりよく眠ることができなかった。

極北の山稜にて

アラスカの山々が窓に迫ってくる 写真:鈴木 啓紀

セスナの窓から徐々に近づいてくる白銀の山々を見ていると、気持ちが一気に昂ってくるのが感じられ、自分が山に対してフォーカスしていくのをはっきりと感じることができた。とても現金な話ではあるけれど、前日までの憂鬱な気持ちは山に触れることで一気に消え去ってしまった。
またこの場所に帰ってくることができた。またこの場所で全力で闘うことができる。

天候が安定しなかった3年前と違い、今年の天候は非常に安定しているように思えた。私たちは北壁の様子を子細に観察し、今年のコンディションでは一番状態が良さそうなフレンチガリーのラインに目標を定めた。かなり多くの再登がされているこの壁を代表するルート、ムーンフラワー・バットレスとは異なり、情報がほとんどないことも魅力的だった。
フレンチガリーから標高差1200mの巨大なバットレスを登りきった後、壁の終了点であるバットレスの頭からさらに標高差700mを登り、標高4,442mのハンターの頂を目指す。下降はハンターの初登ラインである西稜を経由してラーメンクーロワールを下降、南側の氷河に下山して、ひたすら氷河を歩いて北面に位置するベースキャンプに帰ってくる、というプランだ。

3泊分の食料と4泊分の燃料、5日分の行動食、ジェットボイル、ツェルト、軽量の寝袋という装備をまとめた。準備をしながら、ふと2005年のトライのことを思い出した。あの時は壁を前にしても悲壮感と不安しかなかった。

極北の山稜にて

取付より北壁を見上げる。フレンチガリーのラインは中央左の顕著な白いガリー 写真:鈴木 啓紀

氷河にランディングした翌々日の夕方遅く、私たちはベースキャンプを出発した。
22時、取付きのシュルントの薄くかぶった氷を越え、巨大な壁に這い上がりガリーを目指す。途中でラインをミスし、右往左往するシーンもあったものの、午前2時すぎにはガリーに入り込むことができた。同時登攀も交えてガリーの氷を登り続けるが、垂直のスカスカ氷、傾斜の強いグズグズのミックス壁、堅い垂直の氷など、思ったよりテクニカルなセクションも多く、疲労も出てなかなかスピードが上がらない。長大なガリーを抜け出したのはもう夕方。細い氷のラインを辿り顕著なアイスバンドを目指す。強傾斜の岩壁帯では、頼りない支点を見下ろしながらのテクニカルなクライミングになった。そうそう、これをやりにきたんだ。
22時過ぎ、何とか二人が座れそうなスペースを見つけ、1時間以上かけて氷を削ってテラスを削り出す。シュラフを出す余裕もないお座りビバークとなり、ほとんど眠ることはできなかった。

極北の山稜にて

翌朝、ミックス壁を登り顕著なアイスバンドに抜けだし、ムーンフラワー・バットレスのラインを目指して鋼鉄のような50度の氷を延々とトラバース。ふくらはぎが悲鳴を上げる。

極北の山稜にて

ムーンフラワーのラインに合流後、ファイナルアイススロープに抜ける最後の岩壁帯は強傾斜のミックス壁になる。天気は崩れ出し、本格的な降雪となった。M5とグレーディングされた最後のテクニカルパートは氷の発達が悪く、例年より厳しくなっているようだが、こんなクライミングは国内でも死ぬほどやってきた。大きな動きでここを乗り越えると、高度の影響だろう、息が上がってしまう。
バットレスの頭までは残すところ50度の氷を300mほど。しかし、悪天のせいで視界もないことから、再び氷を削ってのお座りビバークとなる。夜半には雪も止み、白夜の薄明りの中、雲海の上に壮大なフォーレイカーが浮かんでいた。

極北の山稜にて

降雪が徐々に激しくなる中、傾斜の強いミックス壁を突破する。 写真:大石 明弘

またしてもほとんど眠れないままに朝を迎え、ふくらはぎが焼け付くような50度の氷を登り出す。ここがルートの核心なんじゃないかと思うくらいきつかったが、昼過ぎ、待望のバットレスの頭に抜けることができた。
あまりにも消耗していたため、そのままバットレスの頭でビバークすることにした。雪を削ってプラットホームを切り出し、暖かい日中のうちにできるだけ眠ることにする。ずいぶんと久しぶりにまともな睡眠をとることができた。

極北の山稜にて

「バットレスの完登」という成果は手に入れた。この先、リスクを取って山頂を目指すか否かについて、二人で静かに会話をした。「山頂までは標高差700m、そんなレベルのことは日本でも散々やってきたはずだ」例によって大石の明るい強気に助けられ、私も肚をくくることができた。予定通り山頂を目指そう。

翌朝6時行動開始。不安定なリッジを同時登攀で進み、顕著な岩峰を左から回り込んで登っていく。部分的に被った氷も出てきたが、弱点を突きながら突破。そこから延々と雪稜を登り、小さな氷河を横断して山頂へと続く雪稜に取りつく。疲労と標高の影響で、もう一週間くらい山を登り続けているような気分だ。

背後には巨大なデナリ、そして周囲に広がる広大な氷河とその周りに連なる急峻な山々。天気予報に反し、空は晴れ渡り風もなかった。静かな極北の山上で、私たち二人だけが空と大地の間を動いていた。だんだん傾斜が落ちてきて、目の前に山頂が見える。易しい雪稜をもう10分くらいだ。、立ち止まってロープを外し、一息入れる。

極北の山稜にて

壮大なデナリ南壁を背景に、山頂へと続く最後の雪稜を登る 写真:大石 明弘

「登り続けてきてよかった」
そんな言葉が自然に口から洩れた。その瞬間、私は期せずして感情のうねりに飲み込まれてしまった。ゆっくりとした、しかし力強いうねりだ。多分私は、ずっとこの言葉を吐きだしたかった。自分の内側の深いところからしか出てくることのない、そして、自分が本当に願った場所に立たなければ、絶対に出てくることのないこの言葉を。
その場所に膝をつき「先に山頂に行っといて」と大石に声をかけた。涙を流していることがばれないように、必死に平静を装いながら。

西稜を経由し、うんざりするほど長く、継続的に緊張を強いられるラーメンガリーをクライムダウンし、平坦な氷河に降り立ったのは19時半すぎ。
無事に降りられたけどまだ終わりじゃないな、山頂に立ててよかったな、腹減ったな、次はどこへ行こう。そんな会話をぼそぼそと交わしながら、薄い寝袋に包まった私たちは、氷河の雪が安定する明け方を待っていた。
ベースキャンプまで、まだ4-5時間は歩かないといけない。ハンターを吹き降ろす風は氷のように冷たく、寒気は骨身に染みるようだった。
 


現地時間の5月17日夜、この旅を共にしていた山岳カメラマン、平賀淳さんがカヒルトナ氷河の上でヒドンクレバスを踏み抜いて転落し、亡くなられました。バットレスの頭でビバークする私たちを撮影した後、ベースキャンプに帰る途中の事故でした。
享年43歳。エベレストの登頂経験もあり、国内外の山々を撮り続けてきた日本を代表する山岳カメラマンで、大石明弘の旧友でもありました。

偉大なカメラマンでありながら、その魅力的な人柄で多くの人々を惹きつけてきた平賀さんに、心からの哀悼の意を表します。そして、平賀さんのご家族、ご友人、平賀さんを想う全ての方々に心よりお悔やみを申し上げます。

「誰かが表現しなければ、アウトドアの感動は他者には伝わらない」そんな平賀さんの言葉を、私も受け止めたいと思っています。

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