プレッシャーなしで
頂へのこだわりを解放することで、そこに到達できることもある。
全ての写真:アレクサ・フラワー
私たちは風と暗闇のなかを下り、そして登った。頭上には天の川がリボンのように曲線を描いていた。急斜面に散らばった浮石に足を取られ、私は疲労でよろめいた。気温は氷点下だったが、汗はびっしょりかいていた。歩きはじめる前にクライミングロープをバックパックのように体に巻いたのだが、いまは着膨れしたジャケットのなかに閉じ込められたような感覚で、一歩歩くたびに息を切らしていた。さらに数歩歩き、リアノン・ウィリアムズと私は平らな岩に腰を下ろして、息を整えた。
「こんなに疲れたのは生まれてはじめて」と私は嘆いた。
そんなはずはない、と私は思った。でも、過去に何度も経験したクライミングの過酷な日々、夜通し寒さで震えていたビバーク、そして何日にもわたる登攀で味わった疲労も、ペルーのコルディエラ・ブランカの氷河に覆われた山々でのいまの私の状態とは比べものにならないように感じた。これまでの山行で耐え忍んだ苦しみが、まるで夢のように記憶から消えていったことに感謝して、私は少し笑った。
私たちは食料と水と寝具をデポした岩陰を探していた。標高4,700m地点は、夜明けまで待つには寒すぎた。何としてもそのデポ地を見つけなければ。
不安定なガレ場を滑り降り、そしてまた登りかえした。夜明け前にフル充電したヘッドランプは、いまはかろうじて足元を照らしている。
「デポ地は下にあるような気がする」と、リアノン。
「上にあるんじゃない?」と答える私。
私たちを取り囲む暗い岩のひとつひとつをのぞき込んだ。どれも私たちのデポ地のように見えたが、どれもそうではなかった。
「ルートの取り付きまで戻って、そこからトレイルをたどり直さない?」と私は言い、自分の考えを声に出して聞いてから、気分が悪くなった。泣きたくなったが、会話がなんとか私を保ってくれた。私たちはどれくらい寝ていないかの冗談を言い合い、1m先も見えないのに、デポ地が3m先にあるかもと言って笑った。もし山で遭難しても平気なクライミング・パートナーがいるとしたら、それはリアノンだ。
ヨセミテのビッグウォールで何年も過ごしてきた私は、ハード、そしてファストにプッシュすることを信条としていた。初の女性だけのチームで「ゾディアック」ワンデイ登攀を達成し、かつて自分には不可能だと思っていた他のラインも登った。でも私はクライミングのパフォーマンスに、自尊心が絡め取られていることに気づいた。大きなルートを登らなければならないというプレッシャーと、〈ヨセミテ・サーチ・アンド・レスキュー〉の仕事の激しさ(それはときに、人生最悪の日に訪れる人たちを助けること)に圧倒されはじめていた。私は自分の快適な領域を超えたいと思ったが、もっと重要なのは、登頂を断念して下山することが正しい決断なのかどうか、自分の声に耳を傾けられるようになることだった。
ヨセミテ・バレーはリアノンと出会った場所でもある。休息日、私たちはエルキャプ・メドウで寝転んだり、仲間たちとの夕食で話を共有したりした。水彩画家でもあるリアノンは、結果よりも過程を評価することを学んだ。「全体として楽しめばいいのよ」と彼女は言った。
「一筆一筆は大きな絵の一部なの。たとえ、版を完全に塗りつぶしたとしても、それは最終的にたどり着く場所の一部なの」
私たちはクライミングも似たようなものだと話した。登頂以上の価値を見出すということは、その経験全体に感謝するということだ。達成するために自分を追い込むのではなく、成長するために自分を追い込むということなのだ。
リアノンが今度のペルーへのトリップでクライミング・パートナーを探していると言ったとき、私は夏の予定を変更し、数週間後に飛行機を予約した。
リアノンは「ラ・エスフィンヘ(ザ・スフィンクス)(5.10dR)」のオリジナル・ルートに狙いを定めていた。600mの威圧的なバットレスの左側を22ピッチで登る。私たちは2人とも経験豊富なビッグウォール・クライマーだったが、パートナーを組んだのはボルダリングとショートルートにかぎられていた。エル・キャピタンで一緒にマルチピッチのルートに挑戦したのは1度だけで、挑戦は吹雪に阻まれた。コルディエラ・ブランカへの旅も今回がはじめてだった。標高4,000m以上でのロッククライミングはまだしたことがなかった。私たちはものごとが有機的に展開するように、「登頂へのプレッシャーはなし」という精神で臨んだ。
初日に1、2ピッチ目にロープをフィックスし、それから下降して岩陰で一夜を過ごし、翌日山頂を目指す予定だった。最初の10ピッチは技術的に難しい登攀だったが、クラックやチムニー、そして時おりボルトがあり、迷うことなく進んでいけた。ルートの後半はプロテクションのないスラブにところどころ走るシームをたどるが、そのシームも浅すぎてギアを受けつけない。
「ルートファインディングが肝心だ」と、町の仲間たちが注意してくれた。「直感にしたがって、いちばん登りやすい場所を見つけるんだ」
ベースキャンプへのアプローチで、数チームに出遭った。彼らは私たちが真剣にルートを考えているかどうかを尋ね、不吉なまでに詳細な情報をくれた。やがて私はトレイルを行く人を避けるようになった。彼らはきっと立ち止まり、太陽にきらめくカールを険しい表情で眺め、ラ・エスフィンヘについて警告してくるだろうから。
その夜、私たちはビバークの岩陰に入り、外で風が吹きすさぶなか、水で戻したペストソースのリゾットを口に入れた。外をのぞくと、日が暮れきった壁の上部にヘッドランプの灯りが見えた。私は寒さと不安のせいもあって震え、寝袋にもぐりこんだ。道中での他のクライマーたちとの会話が脳裏にこだました。私たちが女性だけのチームだから警告されたのか、それともこのルートは本当に危険なのか。私たちは寝る前に、リスクが高すぎると感じたら撤退する計画を練った。そして、私はいくらかのプレッシャーを風に吹き飛ばした。
日の出までに、前日に固定したロープを登った。リアノンのビレイでまずは私が出陣。岩は安定していて、長いワイドクラックの隙間には手触りのよい小さなホールドが点在している。ルートはときどき、花崗岩にへばりつく急峻な土やそこに生えている草木の上をたどった。私は自分の体重ですべてが壁から剥がれ落ちるのではないかと、ためらいがちに土の「ステップ」に足を置いた。標高が高いため、小さく計算しつくされたムーブが要求される。チムニーをすばやく登りすぎると、頭に星がちらつくほど目がくらむからだ。正午には、11ピッチ目のビバークできる平らなレッジで休んだ。そこは小さな花の茂みで埋め尽くされ、「レピサ・デ・ラス・フロレス(花壇)」と名づけられている。ここが簡単に撤退できる最後のチャンスだった。
次のピッチを見上げながら、私たちは選択肢を吟味した。プロテクションのないスラブの海へとつづく、美しく長いコーナーだった。ここはリアノンのリードだった。他人の意見に振りまわされることなく、この瞬間は自由に感じられた。私たちには登頂する必要があったわけではない。けれども私たちは自分自身をプッシュすることに興奮し、ルートの残りが何を要求してくるのか知りたくなった。
リアノンは露出感のあるトラバースに残された唯一のピトンにクリップし、上へ上へと登っていった。
予想通り、のっぺりとしたプロテクションのほとんどない壁で、まだ決められたルートをたどっているという目印なるものを探しながら登る私たちのペースは落ちた。昼過ぎには太陽が稜線の陰に隠れ、気温は急降下した。迫りくる暗闇と競争しながら、私たちは夕暮れどきに最終ピッチをトップアウトした。寒さが体を貫き、私たちはお祝いと暖をとるために踊った。月明かりに照らされ、雪の峰々が周囲に浮かび上がった。
私たちは抱き合って喜びと安堵で顔をほころばせ、ラペルステーションへと急いだ。ヘッドランプの光が弱くなるなか、下山を開始した。
ルートの取り付きまで戻ることを考えると涙が出そうになったが、この決断は結果的に正解だった。デポ地の岩陰を見つけたのは、さっきまで私たちが見逃していたかすかなクライマーのトレイルを見つけた直後のことだった。一日中蓄積していた重圧に、寝袋にもぐりこみながらため息をついた。リアノンがジェットボイルに火をつけ、お茶を入れる音がした。あまりの疲労と痛みに食事もままならず、私は朦朧とした意識のなかで、疲労のどん底に落ちていった。
翌朝早く、オートミールを食べ、ゆっくりと荷物をまとめた。そして歩きながらその登攀について話をした。皮肉なことに、登頂へのプレッシャーがなかったことが、私たちの登頂を助けてくれた。率直なコミュニケーションをし、期待はしないことで、その過程と互いを信頼し、楽に行動することができた。撤退という選択肢を受け入れたことで、私は自分の声に耳を傾け、完璧主義を手放すことが容易になった。それは山との付き合い方、そして私が理想とするクライミング・パートナー像への一歩だと感じた。
私たちの登攀は、おなじみの頂への強引なこだわりに陥ることはなかった。そうではなく、どうしなければならないかというプレッシャーを感じることなく、一日を展開させた。私たちの意欲が正しい位置にあることで、より楽しく、素直な登攀ができた。もしどちらかが下山したかったら、笑顔でそうしただろう。
私たちの背後には、朝の光を浴びて輝くラ・エスフィンヘがあった。私たちは帰路についた。