すべてを養う小さな魚
海で最も重要な魚かもしれない、小さくとも偉大なニシンは。
全ての写真: Ian McAllister
生い茂る藻場の端にアンカーロープを結びつけると、あとはニシンを待つだけだった。「ニシンが来たらわかる」と船長が言った。「絶対に、見逃すことはない」
アラスカとブリティッシュ・コロンビアの境界からほんの数キロ南のナールド諸島に囲まれた小さな入江で、私たちの船はぷかぷかと揺れていた。通称「ザ・ナーリーズ」として知られるこの場所は歴史上重要なチムシアン族の領土にある。英語名はなく、地図上では小さないくつかの点でしかない。しかし船上からは、あまりの豊かさにまるで島々と海と月と潮が一緒に息を吸ったり吐いたりしているように見える。この地方はサーモン、ワシ、オルカ、クジラ、そして泳ぎの達人と言われるオオカミの群れなど、非常に多くの生き物を養っている。船の下では海藻が虹色のニシンの卵にびっしりと覆われて光っている。
船から10m弱のあたりに、ニシンの成魚が日光を浴びてきらめく球形の群れをつくりはじめる。「ベイトボール」と呼ばれるこの魚の球形群は水中を旋回する以外はほとんど移動することなく、ただ大きくなっていく。船は暗い海を埋めるニシンにあっという間に囲まれる。いったい何匹いるのだろう。推測することさえ不可能だ。
突然サーモンが、怒りに駆られたかのように現れる。どこからともなく8匹、10匹、12匹の編隊が水中を飛ぶように突進し、ベイトボールを打ち砕く。水面付近のニシンが水から跳ね上がり、雨のように落ちてくる。球形は始終旋回しながら形を変えるが、サーモンは予想外の速さと精密さでベイトボールを再攻撃する。そのときはじめて、フライロッドをつかんでこの争乱の渦中に疑似餌をキャストしなければならないことを思い出す。サーモンがかかることを祈ると同時に、その後何が起きるかを恐れながら。
腹を空かせているのはサーモンだけではない。ここではニシンはあらゆる生き物の餌となる。カモメの群れは島々のあいだを巡回しながら魚の群れを爆撃するように攻め、ワシは断崖に陣取って引き潮とニシンの残骸を待つ。ザトウクジラの一群はニシンを小さな入江に追い込み、泡を吐き出しながら円を描くように泳いで獲物を取り囲む「バブルネット・フィーディング」をはじめる。クジラが水面から出て息を吐き出すと海とニシンの臭いがする。消化されかけた魚のゲップだ。それにしてもアザラシとアシカはどこにいるのだろうと不思議に思う。これほど豊富に餌があればあちこちにいるはずだ。そのときこのあたりには海岸でまどろむアザラシに忍び寄る技を習得した泳ぎ達者なオオカミがいるということを教えてもらった。
数百万匹ものニシンが数千匹のサーモンと無数の鳥と数十頭のクジラに食べられる様子を目の当たりにすると、ナールド諸島の豊かさに圧倒され、太平洋北部のニシンが乱獲のせいで100年以上にわたり減少しているという事実は理解しがたい。これは海における皆伐に相当する。
考古学的記録によると、パシフィックヘリング(ニシン/学名Clupeapallasii)は1万年以上にわたり太平洋北西部で捕獲されてきた。ロシアでは「神聖なるパン」として知られ、日本のアイヌ民族は「神の魚」と呼んだ。北米大陸の北西沿岸では「万物の餌」だった。ニシンは海洋食物網全体の食源、そして基盤の種として海の「生態系への奉仕」に不可欠だ。水生生物に餌を提供し、水質と生態系全体の健全性の指標となり、人間に栄養と社会的文化的利益をもたらす。銀色に輝くこの小魚は、多くの生物にとって海で最も重要な魚だ。
歴史上、北米の先住民族は産卵の2か月前までニシンを捕獲した。彼らは魚を新鮮なまま、あるいは燻製や干物にして食べたり魚油にしたりした。海藻やアマモに産みつけられたニシンの卵は伝統的な珍味で、先住民族は採集しやすいように産卵床としてアメリカツガの枝を慎重に配置するなどして、いまも収穫をつづけている。
ニシンの数に変曲点が見られるようになったのは商業的関心が高まってニシン漁が奪取され、アラスカ南東部に加工工場が建設された1870年代にまで遡る。数千年にわたって持続的に利用されてきた生態系と文化の基盤だったニシンは破滅の危機に直面し、1878年にはアラスカの食用ニシンの漁獲高は15トンに上った。1920年代には動力引網船、新たな加工工場、魚餌や肥料や飼料としての新市場が台頭し、ニシンの数は急降下した。1937年には125,000トンのニシンがアラスカの精製工場で加工され、1939年にはニシンの個体群は崩壊し、アラスカは魚餌以外のすべてのニシン漁を禁止した。しかし、休止期間は長くはつづかなかった。
カナダとアメリカの漁業規制は明確なデータに基づいておらず、地元や昔ながらの知識は無視してサーモンでもクジラでも何でも捕獲できるものはすべて、躍起になって捕獲した。世界中で何十年も乱獲がつづけられたのち、ニシンの個体群は1960年代にふたたび崩壊を迎えた。
それから数十年間におよぶ悲しい悪循環が繰りかえされた。数年ごとにいくつかの漁場でニシンの数は激減し、ときにはその回復が不可能となる瀬戸際にまで追いやられた。
さらにニシンにとって不幸なのは、1970年代に日本でその卵巣(数の子)の市場が生まれたことだ。乱獲により日本の漁場が崩壊したため、捕獲は北米に移動した。日本とロシアのトロール漁船が乱獲を行い、ふたたびニシンは深刻な問題を抱えた。加工業者は貴重な卵巣を魚からはぎ取り、残りは擦りつぶして餌、とくに養殖場のサーモンに与えるペレットに加工した。
アラスカ州は2018年と2019年にニシンの魚卵捕獲を禁止したにもかかわらず、2021年にニシンの魚卵の捕獲レベルを33,000トンに設定した。現在カナダではニシンの商業漁場5か所のうち4か所が閉鎖されている。環境保護団体〈PacificWild〉は最近の報告書でブリティッシュ・コロンビアでのニシン漁の閉鎖を次のように呼びかけた。「ニシン漁の完全な一時停止を含む緊急かつ劇的な保護対策が実施されないかぎり、少なくとも個体群が回復して科学的見解が明らかになるまで、ニシンおよびニシンにその存続を依存する海洋食物連鎖内のあらゆる種は危機的状況に置かれたままとなる」太平洋沿岸の数多くの先住民族はこれと同じ要請を何年も行ってきた。ブリティッシュ・コロンビアでは法的救済を求める部族もあったが多くの場合において彼らが返答を得ることはなかった。ニシンは個体群の回復に10年を要するため、ブリティッシュ・コロンビアとアラスカでの断続的な禁漁ではその安定にはつながらなかった。
サーモンがニシンを食べ、100メートル先でクジラがジャンプするのを見ながらベイトボールにフライを投げているとき、その豊かさの喜びに浸るのはたやすい。しかし豊かさとは微妙な概念でニシンの豊かさを測るのは難しい。ブリティッシュ・コロンビアでのあの日の午後の釣りは幻だったのか。過去を垣間見る一瞬だったのか。ニシンがいかにすべてをつないでいるかを思い出させる啓示だったのか。おそらくそのどれもが正解だろう。いずれにしろ、ニシンの問題の本質が乱獲であることは疑う余地がない。搾取されたニシンの個体群は20世紀に崩壊し、乱獲がその主因であることは科学が明らかにしている。
作家、写真家、そして映像作家のイアン・マカリスターは20年以上にわたってブリティッシュ・コロンビアの北西岸に暮らし、この人里離れた温帯雨林の動植物を記録してきた。マカリスターが撮影したこれらの写真は著しく繊細で共生的な生態系を映し出している。「この海岸線が傷つけられていないのは奇跡的だ」と彼は言う。「でも、ここにあるのは博物館の展示物じゃない。本当の生き様だ。失われてしまうかもしれないのは、それだ。先住民族の文化の存続はまさにこの場所にかかっている。これは人間からかけ離れたものではなく、むしろその一部。僕たちはここで持続可能な暮らしをしている共同体があることを尊重し、この場所を守らなければならない」
「ここには四季というものはない。無数の季節があり、ほんの1週間や10日しかつづかない季節もある」とマカリスターは説明する。「その存在はじつに儚く、相互につながりあっている。ほんの小さな変化であちこちがあっという間に崩れてしまう。僕の写真は豊かさが永遠であるかのような印象を与えるかもしれない。しかしすべては危機一髪の状態にある。すべては蜘蛛の巣のようにつながっている。1本の細い糸を解けば、すべてが瞬く間にバラバラになってしまう」