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すべてを養う小さな魚

スティーブ・デューダ  /  読み終えるまで9分  /  フライフィッシング

海で最も重要な魚かもしれない、小さくとも偉大なニシンは。

カナダのグレート・ベア・レインフォレストでのニシンの産卵は、無数の雌が暗い海中で海藻に極小の卵を産みつけることからはじまる。同時に雄は精子を放出して海を白く濁らせる。月の満ち欠け、海の塩分濃度、潮、流れ、水温などはすベてニシンの産卵開始を決める要因である。写真:Ian McAllister

全ての写真: Ian McAllister

生い茂る藻場の端にアンカーロープを結びつけると、あとはニシンを待つだけだった。「ニシンが来たらわかる」と船長が言った。「絶対に、見逃すことはない」

アラスカとブリティッシュ・コロンビアの境界からほんの数キロ南のナールド諸島に囲まれた小さな入江で、私たちの船はぷかぷかと揺れていた。通称「ザ・ナーリーズ」として知られるこの場所は歴史上重要なチムシアン族の領土にある。英語名はなく、地図上では小さないくつかの点でしかない。しかし船上からは、あまりの豊かさにまるで島々と海と月と潮が一緒に息を吸ったり吐いたりしているように見える。この地方はサーモン、ワシ、オルカ、クジラ、そして泳ぎの達人と言われるオオカミの群れなど、非常に多くの生き物を養っている。船の下では海藻が虹色のニシンの卵にびっしりと覆われて光っている。

船から10m弱のあたりに、ニシンの成魚が日光を浴びてきらめく球形の群れをつくりはじめる。「ベイトボール」と呼ばれるこの魚の球形群は水中を旋回する以外はほとんど移動することなく、ただ大きくなっていく。船は暗い海を埋めるニシンにあっという間に囲まれる。いったい何匹いるのだろう。推測することさえ不可能だ。

すべてを養う小さな魚

直径2mmに満たない卵のなかで成長しはじめる新しい世代のニシン。1匹の雌が産む卵は2万個以上になることもあり、1平方メートル弱の面積に600万個以上の卵があるという計算だが、そのうち成魚になるのは1万個にたった1匹かもしれない。

すべてを養う小さな魚

ニシンはサーモンと同様に、来る年も来る年も同じ産卵場所へと回帰する。ニシンがサーモンと異なる点は、何世代も一緒に産卵することだ。年長の魚はどこでどのように産卵するかといった代々受け継がれるべき不可欠な習性を把握しており、それを若い魚へと伝達する。産業的漁業では大きめのニシン、つまり最年長の魚体を捕獲するためにそのような重要な知識が群れから失われてしまう。ニシンがかつての産卵場所の多くへと戻らなくなった理由はそれであると説明する専門家もいる。彼らはどこへ行くべきかを忘れてしまったのだ。

突然サーモンが、怒りに駆られたかのように現れる。どこからともなく8匹、10匹、12匹の編隊が水中を飛ぶように突進し、ベイトボールを打ち砕く。水面付近のニシンが水から跳ね上がり、雨のように落ちてくる。球形は始終旋回しながら形を変えるが、サーモンは予想外の速さと精密さでベイトボールを再攻撃する。そのときはじめて、フライロッドをつかんでこの争乱の渦中に疑似餌をキャストしなければならないことを思い出す。サーモンがかかることを祈ると同時に、その後何が起きるかを恐れながら。

腹を空かせているのはサーモンだけではない。ここではニシンはあらゆる生き物の餌となる。カモメの群れは島々のあいだを巡回しながら魚の群れを爆撃するように攻め、ワシは断崖に陣取って引き潮とニシンの残骸を待つ。ザトウクジラの一群はニシンを小さな入江に追い込み、泡を吐き出しながら円を描くように泳いで獲物を取り囲む「バブルネット・フィーディング」をはじめる。クジラが水面から出て息を吐き出すと海とニシンの臭いがする。消化されかけた魚のゲップだ。それにしてもアザラシとアシカはどこにいるのだろうと不思議に思う。これほど豊富に餌があればあちこちにいるはずだ。そのときこのあたりには海岸でまどろむアザラシに忍び寄る技を習得した泳ぎ達者なオオカミがいるということを教えてもらった。

すべてを養う小さな魚

オルカから逃げて海藻の林に隠れるゼニガタアザラシ。太平洋沿岸部では最小から最大まで無数の動物種が豊富なニシンのおかげで存在しているため、人間がニシンを管理する方法を根本的に変えることが必要である。生態系を基にした取り組み方、つまりニシンに直に依存する人間以外の多種多様な生物を認識し、それらにもニシンを割り当てることが太平洋のニシンの持続可能な漁場を築き、回復させるための第一歩となる。

数百万匹ものニシンが数千匹のサーモンと無数の鳥と数十頭のクジラに食べられる様子を目の当たりにすると、ナールド諸島の豊かさに圧倒され、太平洋北部のニシンが乱獲のせいで100年以上にわたり減少しているという事実は理解しがたい。これは海における皆伐に相当する。

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一世紀にわたって行われてきた産業規模の漁業により、カリフォルニアからアラスカにわたるニシンの個体群は深刻な減少に苦しんできた。かつてニシンの豊かな産地であったブリティッシュ・コロンビア沿岸では、現在5つの主要なニシン漁場のうち4つが乱獲のせいで閉鎖されており、これらの個体群がいつか回復するかどうかも不明のままとなっている。今日ニシンの卵はアジアの寿司市場で売られているが、それ以外の部分は魚粉に加工されて魚の養殖場の餌やペットフードや園芸用肥料として使われる。沿海部の共同体や生態系を支えるこの被食魚の小ささに対する役割の大きさを無視し、政府の漁場管理者たちは人間が毎年大部分のニシンを捕獲することを許可しつづけている。

考古学的記録によると、パシフィックヘリング(ニシン/学名Clupeapallasii)は1万年以上にわたり太平洋北西部で捕獲されてきた。ロシアでは「神聖なるパン」として知られ、日本のアイヌ民族は「神の魚」と呼んだ。北米大陸の北西沿岸では「万物の餌」だった。ニシンは海洋食物網全体の食源、そして基盤の種として海の「生態系への奉仕」に不可欠だ。水生生物に餌を提供し、水質と生態系全体の健全性の指標となり、人間に栄養と社会的文化的利益をもたらす。銀色に輝くこの小魚は、多くの生物にとって海で最も重要な魚だ。

歴史上、北米の先住民族は産卵の2か月前までニシンを捕獲した。彼らは魚を新鮮なまま、あるいは燻製や干物にして食べたり魚油にしたりした。海藻やアマモに産みつけられたニシンの卵は伝統的な珍味で、先住民族は採集しやすいように産卵床としてアメリカツガの枝を慎重に配置するなどして、いまも収穫をつづけている。

すべてを養う小さな魚

新しい世代をはじめるために故郷の川へと遡るピンクサーモン。自分が生まれた川をまだ若いうちに離れたときからサーモンはその生存を豊富なニシンに依存する。10,700年前まで遡る考古学的記録によると、ニシンは今日よりも豊富で広範囲に生息したことが示されている。ピュージェット湾からアラスカ南東部におよぶ171か所の遺跡では、それらの場所の99パーセントで発見された魚の骨のほぼ半数が概してニシンの骨であった。ブリティッシュ・コロンビア沿岸では地域によってはニシンがパシフィックサーモンよりも重要な食料源であったらしい。

ニシンの数に変曲点が見られるようになったのは商業的関心が高まってニシン漁が奪取され、アラスカ南東部に加工工場が建設された1870年代にまで遡る。数千年にわたって持続的に利用されてきた生態系と文化の基盤だったニシンは破滅の危機に直面し、1878年にはアラスカの食用ニシンの漁獲高は15トンに上った。1920年代には動力引網船、新たな加工工場、魚餌や肥料や飼料としての新市場が台頭し、ニシンの数は急降下した。1937年には125,000トンのニシンがアラスカの精製工場で加工され、1939年にはニシンの個体群は崩壊し、アラスカは魚餌以外のすべてのニシン漁を禁止した。しかし、休止期間は長くはつづかなかった。

カナダとアメリカの漁業規制は明確なデータに基づいておらず、地元や昔ながらの知識は無視してサーモンでもクジラでも何でも捕獲できるものはすべて、躍起になって捕獲した。世界中で何十年も乱獲がつづけられたのち、ニシンの個体群は1960年代にふたたび崩壊を迎えた。

それから数十年間におよぶ悲しい悪循環が繰りかえされた。数年ごとにいくつかの漁場でニシンの数は激減し、ときにはその回復が不可能となる瀬戸際にまで追いやられた。

すべてを養う小さな魚

グレート・ベア・レインフォレストにて、地球上で最も驚異的な集団捕食方法のひとつを使ってニシンにありつくザトウクジラの群れ。クジラはまず水面から深い場所で魚群の位置を確かめる。次に獲物となる魚群の下に潜っていって泡を吐き出しながら、そのまわりに完璧な円を描く。「バブルネット」と呼ばれるこの罠が仕掛けられると、クジラは水上からもはっきりと聞こえるほどの高音で鳴き声を発しはじめる。一説にはバブルネットの外側で発せられたこの鳴き声の強烈さにより、獲物はこの防音の泡のなかへと追い込まれるのだという。そして最後に食べる合図が出されるとクジラは口を大きく開け、この入念な戦略の報酬を期待しながら水面へと浮上する。12頭ほどから成るこの群れは約5分ごとにバブルネット・フィーディングを行う。

さらにニシンにとって不幸なのは、1970年代に日本でその卵巣(数の子)の市場が生まれたことだ。乱獲により日本の漁場が崩壊したため、捕獲は北米に移動した。日本とロシアのトロール漁船が乱獲を行い、ふたたびニシンは深刻な問題を抱えた。加工業者は貴重な卵巣を魚からはぎ取り、残りは擦りつぶして餌、とくに養殖場のサーモンに与えるペレットに加工した。

アラスカ州は2018年と2019年にニシンの魚卵捕獲を禁止したにもかかわらず、2021年にニシンの魚卵の捕獲レベルを33,000トンに設定した。現在カナダではニシンの商業漁場5か所のうち4か所が閉鎖されている。環境保護団体〈PacificWild〉は最近の報告書でブリティッシュ・コロンビアでのニシン漁の閉鎖を次のように呼びかけた。「ニシン漁の完全な一時停止を含む緊急かつ劇的な保護対策が実施されないかぎり、少なくとも個体群が回復して科学的見解が明らかになるまで、ニシンおよびニシンにその存続を依存する海洋食物連鎖内のあらゆる種は危機的状況に置かれたままとなる」太平洋沿岸の数多くの先住民族はこれと同じ要請を何年も行ってきた。ブリティッシュ・コロンビアでは法的救済を求める部族もあったが多くの場合において彼らが返答を得ることはなかった。ニシンは個体群の回復に10年を要するため、ブリティッシュ・コロンビアとアラスカでの断続的な禁漁ではその安定にはつながらなかった。

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干潮時に打ち上げられたニシンの卵にありつき、満腹で帰路につく1匹のオオカミ。太平洋岸北部の多くの場所では、沿岸部に生息するオオカミは、ニシンの卵自体やニシンの成魚に頼る他の多くの生物を食べることを含め、餌の大部分を海から得る。

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早朝にサーモンを獲る沿岸部に生息するオオカミ。

サーモンがニシンを食べ、100メートル先でクジラがジャンプするのを見ながらベイトボールにフライを投げているとき、その豊かさの喜びに浸るのはたやすい。しかし豊かさとは微妙な概念でニシンの豊かさを測るのは難しい。ブリティッシュ・コロンビアでのあの日の午後の釣りは幻だったのか。過去を垣間見る一瞬だったのか。ニシンがいかにすべてをつないでいるかを思い出させる啓示だったのか。おそらくそのどれもが正解だろう。いずれにしろ、ニシンの問題の本質が乱獲であることは疑う余地がない。搾取されたニシンの個体群は20世紀に崩壊し、乱獲がその主因であることは科学が明らかにしている。

すべてを養う小さな魚

ニシンはこの沿岸部に生息するグリズリーベアのような大型動物にプランクトンからのエネルギーを受け渡すという、その地域の生態系に欠かせない役割を担う。ニシンはチヌークサーモン(キングサーモン)、コーホーサーモン(ギンザケ)、キンムツ、オヒョウ、シロガネダラなどの魚の重要な餌であるだけでなく、ザトウクジラ、イルカ、ネズミイルカ、アシカ、アザラシなどの海洋哺乳類もそれに頼っている。何百万という海鳥が産卵する成魚とその卵を餌とし、クマとオオカミはニシンの産卵中と産卵後に波打ち際へ移動して卵を食べる。ニシンの産卵場所の近くの浜では植物さえ魚からの栄養を得て育つ。長い時間をかけてニシンが小さく少なくなるにつれて、こうしたすべての生き物の食べ物は減っていく。ニシンの個体群の崩壊は生態系のいたるところに変化をおよぼす。

作家、写真家、そして映像作家のイアン・マカリスターは20年以上にわたってブリティッシュ・コロンビアの北西岸に暮らし、この人里離れた温帯雨林の動植物を記録してきた。マカリスターが撮影したこれらの写真は著しく繊細で共生的な生態系を映し出している。「この海岸線が傷つけられていないのは奇跡的だ」と彼は言う。「でも、ここにあるのは博物館の展示物じゃない。本当の生き様だ。失われてしまうかもしれないのは、それだ。先住民族の文化の存続はまさにこの場所にかかっている。これは人間からかけ離れたものではなく、むしろその一部。僕たちはここで持続可能な暮らしをしている共同体があることを尊重し、この場所を守らなければならない」

「ここには四季というものはない。無数の季節があり、ほんの1週間や10日しかつづかない季節もある」とマカリスターは説明する。「その存在はじつに儚く、相互につながりあっている。ほんの小さな変化であちこちがあっという間に崩れてしまう。僕の写真は豊かさが永遠であるかのような印象を与えるかもしれない。しかしすべては危機一髪の状態にある。すべては蜘蛛の巣のようにつながっている。1本の細い糸を解けば、すべてが瞬く間にバラバラになってしまう」

すべてを養う小さな魚

ニシンは沿岸部の最も小さい動物から最も大きい動物にまで恩恵を与える、真に偉大な小魚である。これらの移動性のオルカはブリティッシュ・コロンビア沿岸でアザラシやアシカを狙う。ニシンの数が減少しつづけると、チヌークサーモンから定住性のオルカまでますます多くの生物が絶滅危惧種のリストに加えられていく。産業的ニシン漁を数年間止めることは、太平洋東部全体でニシンの個体群を回復させるための最初の一歩でしかない。

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