決意のパドリング
昨年、ソーシャルメディアと長距離パドリングを通じて、「てんかん」に対する認知拡大に本気で取り組もうと決心した。てんかんとは米国で26人に1人が患っている病気である。僕は17マイルのパドリングに向けて練習をしながら、ロサンゼルスてんかん財団に自分に何ができるかをヒアリングして計画を立てた。自分の体験を共有することで、治療方法を発見すると同時にてんかんへの認知を拡大する。この計画を進めるために家族や友人、同僚たちが寄付を含め、必要なものすべてを提供してくれることになった。
この夏、僕はてんかん財団の助けを得て、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の神経科医の診察を受け、頻繁に起こる発作の原因を探るため検査を受けた。将来生まれてくる僕と妻の子どもたちに、僕の発作を見て苦しんで欲しくなかったからだ。エスクエタ医師は、2時間かけて僕たちに問診を行い、病気とは関係ないと思っていたことまで尋ねた。検査を重ねた結果、問題のある部位を突き止め、問題そのものを突き止めた。
限局性皮質異形成(FCD)タイプ1。
FCDとは脳の異常で、僕の場合は17歳で発症。それから6カ月~1年くらいは投薬を拒否していた。
神経科医の診察室で、僕はまるで他人事のように治療計画を聞いていた。医師は最後に「脳手術」と告げ説明を終えた。僕は麻痺したように座っていた。うんざりするほど長い道のりの果てに、その結末が来るとは。
1日が長く感じられるようになった。1時間、1分すら長くなり、時間の感覚がなくなった。普通のことが普通ではなくなり、僕の人生の主要登場人物(同僚、サーフィン仲間、ジャイアンツ、本)の存在感が薄くなった。頭の中をぐるぐる回る新しい考えに締め出されたようだ。僕に何か質問した人は、基本的なことすら覚えていられないのがわかっただろう。今日は何曜日? わからない。今は何月? カレンダーで次の検査日を見て知らせるよ。大統領は誰? ああ、それは忘れられなかった。
何があっても、すべてがいつも通り、すべてが静かで、手術の恐怖が決して襲ってこないたった1つの場所、それが海だ。もちろん妻や弟、両親、友人たちは、僕にとって言葉に尽くせないほどの癒しであり、支えだった。でも海は逃げ場であり、心にのしかかる手術への不安を遠く離れた場所へ押しやってくれた。それはなぜか。 説明は難しいけれど、自分ではそれが真実だとわかる。海では平穏を取り戻し、本当の自分を見つめ、人生の指針を思い出せた。母なる海に祈り、話しかけ、ひたる。海は僕にとって神様かもしれない。それとも海で育ったから内なる子どもが常に海を求めているだけだろうか。
僕はもう一度、愛用の12インチのパドルボードでパドリングに出かけようと決心した。カメラ、友人たち、そしてiPhoneと共に。きっと他のてんかん患者を元気づけることができるに違いない。
僕は、弟でパドルパートナーのティム・デイヴィス、ボートを持っているマックス・ハマー、カメラを持っているルーク・ウィリアムズを集め、日課にしている朝のパドリングのライブ映像をInstagramに投稿した。パドリングしながら僕のストーリーについて話し、寄付金を募り、笑い、抱き合い、腕が疲れるまで漕いだ。僕が人生に向き合う方法、自分が幸せでいる方法、大がかりな手術の準備、脳の切開、何カ月もの療養生活を控えても楽しくいられ方法をソーシャルメディアを通して皆に見せたのだ。
海での体験を忘れることはめったにない。中でも忘れられない特別なことがある。駐車場での着替えやビーチブレイクに飛び乗る光景。灰色から薄い青に変わる空。鼻に当たる波の感触。膝立ちのパドルを習得するのにどれだけ時間がかかったかの笑い話。弟が最初にパドリングしたときの誇らしさ。あらゆる検査の手順。子どもが生まれるという報告。ハッピーバースデーの歌。コメントを見ること。新しい「いいね」や視聴者で心が温かくなること。
そして何よりも、こんなにも長く、曲がりくねった道のように恐ろしい状況でも、海にいることがどれだけ心地いいかを忘れることはないだろう。
脳手術によりてんかんの発作が治る可能性は80~90%、てんかんの薬を飲まずに済む可能性は50%。これは喜ぶべきことだ。
結局のところ、悲しむことは何ひとつない。何か悲しいことがあると感じたときには、海に行き、何かに乗ればいい。当面、必要なものは揃っている。海が必ずしも恐怖や感情を取り除いてくれるわけではないが、ずっと心を軽くしてくれる。
数カ月前、運命が僕をつかまえた。もうその手から逃れようとは思わない。波やパドルボードの上にいるのと同じように、うまく乗ればいい。それが僕にできること。こんなに幸運でいられることがとてもうれしい。
このリンクからロサンゼルスてんかん財団への寄付、ご支援をお願いいたします。
手術後のジャレッドから:
月曜の夜、目が覚めて何が見えたかは思い出せない。何を話したかもよく覚えていない。だが、3月12日、月曜日、午後9時15分、家族のいる部屋で目覚めた瞬間が、人生で最高に素敵だったと自信を持って言える。目はほとんど開けられなかったし、手術の痛みからも逃げられなかったが、部屋に幸せな気分が広がっていくようだった。それから1時間か2時間ごとに、ゆっくり状況は良くなっていった。
僕は本当に感謝している。僕はとても幸運で、最高の気分だ。