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イヴォンの手紙を読む

日本支社30周年に寄せて:パタゴニア1986年

新谷 暁生  /  2019年3月20日  /  コミュニティ, カルチャー, スノー, スポーツ

1986年2月、私はイヴォン・シュイナードをニセコの山に案内した。当時も今も私は山のガイドではないが、仕事の傍ら毎日のように山を滑っていた。まだ新雪を滑る人は少なく、自分のラインが夕方まで残っていることもよくあった。そんな時に私の小屋にイヴォンが現れた。イヴォン・シュイナードはヨセミテの開拓者として日本の登山家の間でもすでに著名であり、多くの先鋭的登山家たちに尊敬されていた。イヴォン・シュイナードが私の宿に泊まってくれる。それはとても名誉なことだった。

イヴォンは山を登りに来たのだと思った。ところがリフトで山頂を目指している時、白樺の森の急斜面を食い入るように見て、あの森は滑れないのかと聞いた。イヴォンは滑りたいのだ。それで山に行くのをやめて森を滑ることにした。森の急斜面にはニセコ特有の反発のある雪が入り、トラックは一本もなかった。私たちは午後遅くまで滑り続けた。

翌日は山に向かった。今度は尾根をラッセルして鉱山の沢の斜面を目指した。そこは雪庇が張り出した急斜面で、時々雪崩れる。滑ろうとしたときイヴォンが悲しそうに立ち止まった。そしてビーコンを忘れたと言った。86年当時ビーコンはまだ普及していなかったが、私はいくつか持っていた。それを前日からイヴォンに付けてもらっていたのだ。目の前には素晴らしい斜面が広がっている。私はイヴォンに、私はショベルを持っている。埋まったらすぐに掘り出す。見ているから先に滑ってくださいと言った。イヴォンは嬉しそうに斜面に飛び込んでいった。

イヴォン・シュイナードとの出会いは私に大きな影響を与えた。何よりも世界が広がった。イヴォンは宿帳に「Unbelievable ! Better than Colorado snow 」と書き、私が作ったダイヤモンド形の補強が入った木のドアにマジックインキで大きく「C」と書き込んだ。そしてここは私の家だと笑い、ベンチュラへと帰って行った。ドアは字が逆さまになったが今もそのままだ。

イヴォン・シュイナードは広い知識と経験を持つ人だ。その年私はネパールヒマラヤのチャムラン(7,319m)への遠征を計画していた。まだ一登しかされておらず、私たちが目指す西稜は未踏だった。チャムランは知られた山ではない。イヴォンも知らないだろうと思い、東ネパールのホングー谷にある山へ行くと話したところ、即座にチャムランかと聞いた。イヴォンは以前にパルン氷河からシェルパニ・コルとアンブラブチャ・ギャップを越えてクンブーまで40日間かけて歩いたと言う。私は驚いた。それは大昔のチベットとインドを結ぶ、ヤクに荷を積んで旅する交易路の一部だ。1969年にヒマラヤの放牧地でチベット難民と暮らした私は、その道のことをチベット人から聞いたことがあった。イヴォン・シュイナードはヨセミテの開拓者でありシュイナード・イクイッブメントとパタゴニアの創始者だ。しかしそれだけの人ではないということをその時知った。

1988年、チャムラン遠征の後、私はイヴォンに誘われてパタゴニア・ベンチュラのボブ・ジャレットのウッドショップで仕事をするようになった。ウッドショップはキャビネットやハンガーなど店舗備品の木工品工場で、私は毎日ワシントンモニュメントと呼ばれる木製ハンガーを作った。100くらいは作っただろうか。それは今でも各地のパタゴニアショップで衣類を引き立たせているかもしれない。これらの製品は茶色く艶消しで仕上げられるが、当初それを知らない私は表面をピカピカに仕上げてしまい、ボブやイヴォンに「シンヤズ・シャイン」とからかわれた。パタゴニアの新しい社屋の工事も進んでおり、私はメキシコ人の親方の下でも大工として働いた。時々ボブがタバコに誘ってくれた。当時すでにタバコのみは肩身の狭い時代になっていたが、玄関脇にはボブと私専用の吸い殻入れが置かれていた。

私はそれまで山の世界しか知らない偏狭な人間だった。しかし1986年のヒマラヤ遠征とその後のベンチュラでの体験が私を変えた。もっとも偏屈なのは今も変わっていないが。私にとってベンチュラでの体験はまさに未踏を目指すエクスペディション、パタゴニア・ エクスペディションだった。毎日がエキサイティングだった。ゲストハウスに居候した私は、時々イヴォンの家からベンチュラまで自転車で走った。たまにイヴォンと競争したが、大抵は会社の前で抜かれた。イヴォンにはサーフカヤックも習った。私は今、海のカヤッカーだがカヤックを始めたのはベンチュラの海だ。イヴォン・シュイナードは泳げない私に海の冒険の素晴らしさを教えてくれた。

ボブ・ジャレットはイヴォンの古いサーファー仲間だ。ボブは建築デザイナーであり、後にパタゴニア札幌店の店舗デザインも手がけた。魚網を使った床の網目はボブのアイディアだ。ボブは私の面倒を何かと見てくれた。イヴォンの秘書のマデリン・デイリーも言葉のわからない私をいつも気遣ってくれた。ボブもマデリンも亡くなった。ベンチュラでの体験は私にとってのかけがえのない記憶として今も残っている。

パタゴニアが出版した『180°SOUTH』という本にあらためて目を通した。この本はレジェンドサーファーのクリス・マロイが作った同名の映画を書籍化したもので、イヴォン・シュイナードと、2015年にチリで亡くなったダグ・トンプキンスとの会話などが収められている。ダグはノース・フェースの創立者であり、イヴォンともにフイッツ・ロイに遠征したアルピニストだ。この本にはチリ南部の環境破壊への対処など、ダグ・トンプキンスの記述も多いが、サーフィンやクライミング、アルピニズム、そしてパタゴニア創立と企業の社会的責任などについてのイヴォンの考えも述べられている。

今日の登山の在り方に対してイヴォンは「単に頂上に到達するだけでは意味がない。大切なのはその過程で、目標は重要じゃない。過程に妥協すれば始める前も終わった後も、何の変化もない」と、今日のエベレスト登山を例にあげ、問題を指摘している。計画は行動するために立てられ、道具は使うためにあるとするイヴォンの信条に照らせば、結果を求めるだけの登山は、たとえそれがエベレストであっても価値はないということなのだろう。ガイドのショートロープに引かれて山羊のように登る高所登山だけではなく、安全という言葉を盲目的に受け入れて無批判にGPSなどを使うこともそれにあてはまるのかもしれない。登攀については「カラビナもハーネスもなし、ロープがあれば良い。シンプルな方法にこそ価値がある」と確信を持って語っている。

イヴォンがベンチュラの鉄道敷地跡にシュイナード・エクイップメントの工場を作ったのはベトナム戦争末期のことだ。この時代、アメリカでは多くの若者が徴兵されて戦場に向かった。そして様々な物語が生まれた。マルチン・ルーサー・キング師が暗殺されたのもこの頃だ。しかし建国以来続く人種差別が無くなることはなかった。根強い差別は今も様々な形をとりながら続いている。

1968年、イヴォン・シュイナード、ダグ・トンプキンス、ディック・ドーワース、リト・テハダ・フロレスはベンチュラから燃費の良いフォード・バンで2か月かけて大陸を南下し、パタゴニアのセロ・フイッツ・ロイを目指す。そして31日間の雪洞暮らしの末に新ルートを拓いた。彼らはこの山を初登攀したフランスのリオネル・テレイ同様、アルピニズムに大きな価値を見出していた。私はイヴォンが冗談のように、自分はアウトドアマンではなくインドアマンだと言っていたのを聞いたことがある。困難な未踏の山を目指すためには経験と準備、つまり過程が必要だ。結果だけを求めるのが現代のアウトドア文化なら、考えることを当然とするイヴォンを簡単にアウトドアマンと呼ぶことは出来ない。イヴォンは常に行動の指針を自らの独自性に置いていた。独創的発想や取組みは誰にでも出来るものではない。それはリーダーシップに繋がる個人の資質によるところが大きい。イヴォン・シュイナードの思想は多くのブランドに影響を与えた。それはイヴォンが培った道具への確信とすぐれたセンス、そして独創性が他のブランドの指針にもなってきたからではないだろうか。

日本のシーカヤッカーにはパタゴニアファンが多い。しかしマーケットの問題かもしれないがパタゴニアはサーフィンほどにはシーカヤックに力を入れていないように思える。イヴォンの行動哲学にその理由があるのだろうか。イヴォンはサーフィンやクライミングといった能動的なスポーツを好む。しかし平坦な海を漕ぎ続けるイメージの、どちらかと言えば受動的なシーカヤックは肌に合わなかったのだろう。確かにイヴォンにとって海はビッグ・ウェーブへの挑戦のフィールドだ。漕げば自転車のように誰でも進むシーカヤックに魅力を感じなかったのも納得できる。私も時々そう思う。

また1980年代後半、自然を愛好する人々や知識人に熱狂的に支持されたジョージ・ダイソンの「バイダルカ」やケネス・ブロウワーの「宇宙船とカヌー」に現されるような観念的、情緒的な物言いにイヴォンは馴染めなかったのかもしれない。イヴォン・シュイナードにとって海は笛を吹いて懐古的気分に浸るところではない。昔を偲ぶところでもない。その結果、イヴォンは用心深く現代のシーカヤックの世界から距離を置いてきたような気がする。残念だが私にはそれがよくわかる。しかし海は平らなばかりではない。時には過酷だ。アリュートが言うように漕がなければ死ぬところなのだ。イヴォンは誰よりもそれをわかっていたはずだ。

昨年、私はアリューシャンのウナラスカ島ダッチ・ハーバーからウムナック島のニコルスキーまでの300kmを岩本和晃とともに22日間かけて漕いだ。7度目のアリューシャン遠征だった。過酷な旅だった。特に今回はベーリング海の砂浜に苦しんだ。5m近いショア・ブレイクが続く浜の出艇は無理だ。朝から夕方まで5回トライしてようやく海に浮かんだこともあった。出艇後は波の中をものも言わずに漕ぎ続けた。二日待っても出られず、カヤックをたたんで40kg以上の荷を担ぎ、漕ぎ出せる場所を探して6kmの砂浜を移動したこともあった。突然の強風で逃げることは毎度のことだ。たくさんのクジラを見た。大口を開けるクジラの舌をすぐそばで見るのは恐怖だ。

たどりついたニコルスキー村では人々が総出で私たちを出迎えてくれた。旧友のスコット・カーは私を引きずり出すようにカヤックから下し、アイリッシュ・ウイスキーの大瓶を差し出した。それからシャワーをしろと言った。自分でもわかるくらい臭かった。人々は食べ物と寝床を当然のように提供してくれた。

ニコルスキー村はアリュート語でチャルカと呼ばれる人口18人の小さな村だ。北米線の機内のモニターにニオルスキーという地名が載っている。それがニコルスキーだ。私がここを訪れるのは3度目だ。冷戦時代には巨大なレーダードームがソビエトのICBMを見張っていた。チャルカとアナングラは1万3千年前に最初のアリュートが来たところだ。70キロ東のチャガクは列島でただひとつの黒曜石の産地として知られている。ここはスー・ハリソンの「アリューシャン黙示録」の世界だ。アリュート民族はこの海でクジラを追い、すぐれた海洋狩猟文化を築き上げた。しかし18世紀以降の文明の勝手な理屈がそれらをすべて滅ぼしてしまった。

私はたまたまこの海を漕ぎ、アリュートが晒された歴史を知った。しかし知ったところで何も出来ない。辺境の旅を続ける中で私は多くを知った。だが結局のところ私はダライ・ラマが説くように目の前の問題に取り組むしかないのだ。私はウイグル人にもチベット人にもなれない。もちろんアリュートになれる筈もない。パタゴニアのヤーガン族を偲んだところで彼らは甦らない。しかし文明が犯した罪を心に刻み、胸にしまっておくことはできる。

17世紀のアリューシャン列島には約3万人のアリュート人が島ごとに分かれて暮らしていたという。しかし文明は彼らをラッコとオットセイのために滅ぼしてしまった。ラッコ皮はロシアの中国への交易産品であり、オットセイ油はニューヨークなどアメリカの都会の街灯の油だ。エジソンが電気を発明する前、都会はクジラやオットセイの脂で照らされていた。第二次世界大戦中、わずか3000人ほどになっていたアリュートの人々は、日本人に似ているという理由で劣悪な環境のアラスカの収容所に送られた。となりのドイツ人収容所はホテル並みの施設だったが、アリュートの収容所にはトイレが二か所しかなかったという。また日本の捕虜となったアッツ島民は小樽で終戦を迎えた。しかし彼らもその後、他のアリュートと同様の過酷な運命を強いられた。

ベンジャミン・ゴロドフはアッツ・アリュートの末裔だ。ある時私に合衆国の横暴を嘆いたことがある。彼らはもうアッツ島に戻れないのだという。理由は島が鳥獣保護区になり、アメリカが先住民を住ませないと決めたためと言う。私は計画を進めたアメリカの鳥類学者の映像を見たことがある。島には光がなくなるほどの無数の鳥が飛んでいる。学者は言う。人がいなければ自然はこれほど豊かになると。私は人間の傲慢さと恐ろしさを感じた。島への帰還を願っていたベンも2007年に亡くなった。

環境と人権は表裏一体だ。自然を守ることが正義であっても、結果としてそれが人々を苦しめるなら正義ではない。パンダを保護するために住む人を追い出すことや、生態系を守るためにクジラ猟や漁業をやめさせようとすることは正義ではない。

1930年代、ドイツの動物学者は2000年以上前に絶滅したオーロックス、つまり伝説のヨーロッパ原牛をよみがえらせるためにヨーロッパ中の家畜牛の交配を繰り返した。そしてオーロックスに似た牛を創り出した。この計画は優生思想に基づきアーリア民族の純粋化を進めるナチスの政策と合致し、学者とナチ権力者は奇妙なこの牛を生息させる森としてポーランド東部の森林に目を付けた。ナチスはここを牛だけではなく古代アーリア人神話復活の舞台にしようとしたのだ。第二次世界大戦のきっかけとなった1939年のナチスドイツによるポーランド侵攻の理由にはこのような背景もあった。森に住む3万人のユダヤ人とポーランド人はそこから追い出された。そしてその多くが消えた。ホロ・コーストの始まりだ。環境思想は信奉者にとっては絶対的な正義だ。しかし時に度を越える。過激な環境思想と全体主義は紙一重だということを歴史は教えている。

ところで時代を先取りしているように見える思想家とその扇動者たちの変わり身は早い。ジョージ・ダイソンがその参考になるかもしれない。ダイソンは今や現代のコンピューター世界のカリスマ的存在だ。私はその変わりように驚いた。しかし結局のところ彼らはイヴォン・シュイナードが職業欄に冗談で書きこむキャピタリスト、つまり資本家か、そのお先棒を担ぐ人たちでしかない。昔、ダイソンがノスタルジックに賛美したアリューシャンにもはや人はいない。あるのは切り立った崖の上や見晴しの良い尾根に立つ無数の墓標だけだ。

最近、我が家に年配のアメリカ人登山家グループが来た。彼らは毎日シールを付けて山に向かい、アンヌプリ西尾根やモイワ山、イワオヌプリなどで山スキーを楽しんだ。彼らは毎朝の雪崩情報に目を通し、私に意見を求めてその日の行動を決めた。最近は出来るだけリフトを使わず、ガイドに頼ることなく地図と磁石を持って自分たちだけで山に入る人が増えた。アメリカ人は5日間の滞在中、毎日山を登って新雪を滑り、夕方になると雪まみれになって満足そうに帰ってきた。

その中にデビッド・アグニューという80近い人がいた。いつも冗談を言って私たちに話しかけ、笑ってグループの輪を和ましていた。彼はなんとあの有名なイヴォンの工場、グレート・パシフィック・アイアンワークス、つまりシュイナード・エクイップメントの創業メンバーの一人だった。写真を見せてもらって驚いた。それはブラック・スミス時代のあの有名な集合写真ではないか。写真には若き日のイヴォン・シュイナードと仲間の職人たちが並んでいる。その右端のつなぎを着てカラビナを腰に巻いているのが自分だという。デビッドはこの写真は自由に使ってよいと、プリントアウトした写真にサインして渡してくれた。私は感動した。ボブ・ジャレットもそうであるように、現場で汗をかく人たちがイヴォンの本当の仲間であることを私はあらためて知った。パタゴニアのルーツはここにあるのだ。デビッド・アグニューはまた来ると言い残してアメリカに帰って行った。

ダグ・トンプキンスに哀悼の意を表す。そして最愛の人を失ったクリス・マクディビッドにお悔やみを申しあげる。ダグ・トンプキンスの死は私たちに大きな衝撃を与えた。しかし一番悔しかったのはダグ自身だったと思う。やり残した仕事が多すぎた。ダグは死に際して仏教徒としての悟りをひらいただろうか。クリス・トンプキンスとなった彼女は昔、イヴォンと一緒にニセコに来たことがある。私はリフトの列に横入りしたクリスを冗談で叱った。クリスは口を尖らせて弁解し、笑いながら私に詫びた。パタゴニアのメールオーダー・クイーンと呼ばれたクリスは賢く陽気な人だった。どうかダグの分までパタゴニアの大地に生きてほしいと思う。

パタゴニアの思い出は尽きない。すでに80年代後半、ボブ・ジャレットはパタゴニアの将来を悲観的に見ていた。ボブは職人的雰囲気が失われつつあることを嘆いていた。ボブによればコンピューター・ボーイが増えたことが理由なのだという。物づくりには経験が求められる。それはウェアも同じだ。しかし今のパタゴニアのウェアに私たち現場の声が反映されることはない。思い出してほしいのは何故、昔私たちが熱狂的にパタゴニア製品を使ったのかということだ。カラフルな地下足袋や自立するスタンドアップショーツ、ラグビージャージーやパタロハとして知られるアロハシャツ、出始めの頃の色鮮やかな「シンチラ」ジャケットなどには若いクライマーが求める何か特別なものがあった。製品にはイヴォンの斬新なセンスとユーモアがあふれていた。

現代はどんなものでも作ることが出来る時代だ。だからこそセンスが問われる。1960年代、イヴォン・シュイナードは繰り返し使える鍛造ピトンを造り岩登りの可能性を広げた。しかしやがて大勢がそれを繰り返すことによる岩の破壊、つまり自然へのダメージにつながることに気付く。今日、パタゴニアはオーガニック・コットンに代表される様々な環境問題への取り組みを行っている。それはイヴォン・シュイナードの半世紀にわたる多様な経験の帰結だ。しかしそれが偏った環境思想に与することにならないかと、余計なお世話だが私は少し心配する。

佐々井秀嶺師は日本山妙法寺の僧侶であり1967年にインドに渡り、今もインドで仏教の布教と賤民の救済を続けている。師は50年にわたってインド官憲とヒンズー教徒の迫害を受けながらインドに釈迦の教えを再興した。1969年に私が初めてネパールに向かった時、同じ船に2人の若い僧侶が乗り合わせていた。彼らは佐々井師の許に向かう僧侶たちだった。マルセイユへと向かうフランスの客船の、横浜からボンベイ(ムンバイ)までの22日間の航海のあいだ、夕陽に染まる甲板で太鼓を叩き、読経していた光景を思い出す。私は彼らの50年と自分の50年とを重ね合わせる。そしてあらためて自分には到底なし得ない生き方だと気付く。

環境と人権は表裏一体だ。どちらかに偏重すれば片方に害が及ぶ。はやりでこの問題に取り組んではならない。自然保護と動物愛護は行き過ぎると容易に全体主義に傾く。今日の世界的な流れとしての禁煙の取り組みもその危険性をはらんではいないだろうか。タバコは確かに体に悪い。受動喫煙が他に及ぼす影響もその通りだろう。タバコのみのマナーも悪い。しかし、ただ悪と断じて権力を取り込み、ヒステリックに糾弾する他に、喫煙者の権利にも今少し配慮する穏やかな方法は考えられないものだろうか。

世界で初めて公共の場での喫煙禁止を定めたのはアドルフ・ヒットラーだという。ヒットラーの最後を描いたある映画の一シーンを思い出す。そこには親衛隊の兵士がヒットラーの部屋へと続く通路でタバコを喫う様子が暗示的、象徴的に描かれている。きっとこの映画の製作者も私と同様、世に忌み嫌われる愛煙家の一人なのだろう。

あなたが知るはるか前から自然はそこにある。人も動物も大勢がそこで生きている。知識を得て無知を笑ってはならない。それこそが無知なのだ。イヴォン・シュイナードの苦悩と諦観の理由もそこにあるような気がする。

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