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日本支社30周年に寄せて:パタゴニアが示す道

玉井 太朗  /  読み終えるまで6分  /  コミュニティ, サーフィン, スノー

Niseko Annupuri Peak 1991年冬。 ノートラックの午後。バックボウルでピットを掘り藤原沢へと引き返す。

子どもの頃学校では「人として清く正しく生きよ」と教えられてきた。祖父からは「お天道様が見ている」とも。

冬はスキー、雪のない時期は釣りに明け暮れ、それ以外のことに興味のなかった僕は、中学校終盤に差し掛かっても自分がなにをすべきか認識できずにいた。ただ流されるように進学した高校でもそれは変わることはなく、興味はスキーと釣り。進学をどうするかという時期になっても、何も決めることができずにいた。

冬になると居ても立ってもいられず、スキーロッジのアルバイトをしながら雪国で日々を過ごした。高校の担任教師は、進路を決めかねている僕をみて、少し面倒そうなそぶりを見せていた。僕の進路よりも、進路指導という仕事が一向に終わらないことに苛立っている様子だった。僕は大人達に対してある種の矛盾を感じていた。

スキー場はスキーが好きな人が集まって働いていると思っていたが、案外そうでもないことに気がつき始めていた。好きなことに携わること。それが正しい方向に進む道だと、薄々感じ始めていたのがこの頃だった。

日本支社30周年に寄せて:パタゴニアが示す道

2000年のファーストデセントから年に数度のチャンスを狙って通うローカルシークレット。50度を越すノール系急斜面と地形の罠が待受ける。

僕の周りには、この人は何をやって暮らしているのだろうという大人も多かった。音楽家、自動車レーサー、スキーヤー、サーファー、もちろん釣り人も。一方で、時代は経済活動に拍車がかかり、ますます人は仕事を強いられていた。本当のことってなんだろう?僕にはわからなかった。

現実を見ると、街の中は工事現場だらけで、川はひどい臭いがした。海も泳ぎたいとは思えないほど汚れていた。でも一歩離れると、人の手が入っていない自然がまだ残されているようも感じていた。だが、そんな手つかずの自然も、次第次第に失われていく様子を目の当たりにすることになる。こんなにも美しいものを平気で抹消してしまう大人達への疑問は膨れ上がる一方だった。自分は社会というこの得たいの知れないものの中にいて、何をしたいのか。ますますわからなかった。

19歳になった僕は、素潜りで楽しんだ大好きな海で、サーフィンを覚えた。小学校5年生(1974年)にはその存在を知っていたスノーボードにも出合い、夢中になっていた。そうやって、僕の自然への思いはますます強いものになっていった。

日本支社30周年に寄せて:パタゴニアが示す道

北の海にはまだまだ知られていないブレイクが存在する。そのひとつひとつのベストを探り本当のポテンシャルを知る探検が続く。

そんなある日、アメリカにパタゴニアというアウトドアウエアを製造販売する会社があることを知る。ウエアを重ね着(レイヤリング)するという考え方は非常に興味深かったし、なかでも雪山用のグローブが大のお気に入りだった。ライナーにシンチラフリースを使い、アウターは立体裁断によるもので、軽量で保温性抜群。ほかに類を見ないものだった。このグローブをベースにして、スノーボードに最適なモデルを作れるかもしれない。そう思えるような製品だった。

その当時、僕はいくつかのメーカーにスポンサードされてスノーボードを続けていたが、ブーツ、ビンディング、それにグローブに関しては、あえてスポンサーを付けないようにしていた。それらはライディングに直接影響を与える道具だからであり、僕はつねに最適な物を使いたかったからだ。スノーボードにとって最高の製品かどうか。それが僕の尺度だった。

まだパタゴニア日本支社が立ち上がって間もない時期である。以後の僕は、ひとりのヘヴィユーザーという立場から、本気のフィードバックを勝手に送り続けるようになっていた。

当時、パタゴニアのカタログは、世界中のサポーターから集めた現場のドキュメントだった。そこには、本気の人たちを対象とした製品作りが如実に現れていた。何よりも決定的な違いは、環境に配慮したモノ作りの姿勢。今では当たり前のこうした発想は、当時は限られたごく一部の考え方だった。

自分がどんな世界に身を置くべきか。それは僕にとっては、スポンサーとライダーという関係よりもはるかに重要なことだった。僕はパタゴニアに興味を抱くと同時に、この会社をリードしているイヴォン・シュイナードというひとりに人間に大いに惹かれた。

学校では決して教わることのなかった永遠の問いに、ひとつの光明を見いだしていた。それはこのイヴォンの生き方がひとつの具体的な答えだったのだ。

日本支社30周年に寄せて:パタゴニアが示す道

シークレット脇に立つイヴォンのビーチハウス。パーティーの残骸を片付ける玉井真紀代とイヴォン。初めてベンチュラで行われたアンバサダーミーティングにて。

そんな時期にアンバサダープログラムが本国アメリカで始まり、しばらくしてから、グローバルアンバサダーとしてのオファーが届いた。それ以後、僕の立場は口うるさいヘヴィーユーザーから、正式な外部関係者(そこから生活の糧を得てない者という意味で)に変わった。

当時まだ子どもの遊び程度の認識だったスノーボードは、将来アウトドアスポーツの代表格となる可能性に満ちている。そんな提案が受け入れられたように思う。スノーボードはネイチャースポーツであり、スノーボードを楽しむことで、愛してやまない自然の中に身を置くことが可能になる。スノーボードを長く続けることで、僕の前から消えてなくなっていったあの美しかった川や池、波、生き物たちが自然のままに存在する素晴らしい環境を守っていくことにもつながる。そう考える仲間の集団がパタゴニアだった。

日本支社30周年に寄せて:パタゴニアが示す道

Gerry Lopez がOpen Air Church と名付けた僕らの裏庭。無風快晴、貪欲な滑り手達に知られる前のニセコバックカントリー。

この30年間というもの、パタゴニアが僕の行動を見守ってくれていたように、僕もまた常にパタゴニアを見続けてきた。あなた方は本気なのですか?と。その答えは、端的な道しるべである新しいミッション・ステートメントにすべてが語られている。「故郷である地球を救うためにビジネスを営む」。言葉よりも行動を、ということだ。

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