時を繕う
修理したシャツはオリジナル感が高まるうえに、私を遠い過去の記憶の中に連れ戻してくれる。
自分の記憶と思い出を記録した写真をそれぞれ別々のものとしておくことは私にとって難しいことだ。そのことにはじめて気づいたのは、私が家を出てしばらくしてから祖母の家を訪れたときだ。休暇に少々飽きていた私は、祖母のアルバムをパラパラとめくり写真を眺めていた。コダックのインスタマチックで撮影されたスナップ写真は、黒い画用紙のような厚手の紙に写真の四隅が糊付けされ、チョークで日付とともに出来事が記されていた。クリスマスや誕生日に庭で食事をしたこと、泥団子やミニカーの街を作ったこと、海岸を散策したことや小川の石踏みなど、その写真で見た出来事のすべてを思い出すことができる。何十年も経った今では、スマートフォンのフィルター機能に当時の写真のような光や質感に似せたものがあり、息子たちの幼少期も鮮明な記憶から少しずつ写真の記憶へと移り変わりはじめている。そして、彼らが小さかった頃の記憶と写真で思い出す記憶の境界線に、シンプルなチェック柄のシャツがある。
私のずぶ濡れのパンツで一目瞭然だと思うが、私は息子たちとスプリンクラーで遊んでいた。熊か4つ足の野獣か何かのごとく、濡れた芝の上をうろつく私に弟がまとわりつき、兄が弟を助けにやってきたら、みんなでバタンという具合だ。息子たちが2歳と3歳になる頃で、わんぱくな子犬のように追いかけられることと、くすぐられるのが大好きな二人だった。今の私たちは近しくありつつもそれぞれ自分の世界に落ち着いている。長男が生まれたときに庭付きの一軒家に住んだ。私たちが家を買えるなんて思ってもいなかった、何とかやりくりをした。そして、二人目の次男が生まれた。その時点で、私はこのシャツを数年前から持っていたがことを記憶している。12年後、次男が「ねえ、父さん、僕が小さいときずっとそのシャツを着てたよね」と言う。
2020年1月に時を戻す、数あるパタゴニアの店舗の1号店となったベンチュラの店舗でパタゴニアが提供している「Worn Wear」にそのシャツを持っていった。デスクの後ろにいた明るい技術スタッフのコルビーに、「君に難題を挑もう!」と声を掛けた。彼はパネル越しに私を見つめながら、半袖のシャツを手にするとニコッと笑った。
パタゴニアで、このシャツをボロ切れ入れから救う試みは2回目で、かつて、ニューヨークのソーホー店で奇跡的に復活したという話をコルビーにしただろうか。彼がチャレンジや内なる戦いを楽しむ人だったので、今回も大丈夫そうだと安堵した。
コルビーはまた、シャツと共に歩んできた私の感傷的な話に辛抱強く耳を傾け、シャツへの恥ずかしいほどの愛着ぶりを受け入れてくれた。今回は、あまりに原型を留めていないことを互いに認め、何ができるか見てみましょうということになった。その後、コロナ禍で他の誰もがそうであったように、コルビーと修理スタッフも店を閉めなければならなくなり、もうシャツに再会できることはないと思った。
そのシャツはクレープのように薄くなり、オーガニックコットンのニットというより、アイリッシュリネンのように着古されてしまったが、蒸し暑いニューイングランドの夏の間、何度も活躍した。たとえば、メーン州で世界的に有名な砂の城「ロブストラニア」(そんなの聞いたこともないとは言わせない)のチーフエンジニアの代理を務めたことだ。そして忘れてはならないのが、毎回、休暇の始めに海岸線に築かれる悲運の砂の要塞「ラッキー」の初期のリピート建築だ。このシャツは、絶対に網焼きにしてはならないような匂いがした。すぐに乾くことも、このシャツのメリットだ。ラッキー要塞の一族全員が反抗して、高い波に合わせて私を入り江に落としたときも、このシャツを着ていた。いやはや参った。
コルビーに話したように、シャツは、息子たちの母親と私の旅路とも言える素敵な数々の旅に同行した。そして、我々の夫婦生活がこのシャツを長生きさせているのかもしれない。私たち夫婦は、一つ屋根の下にいながらすれ違っていて、ほぼ共同養育のために存在しているようなものだった。そこで、ニュージーランドで3種アドベンチャーレースにリレーパートナーとして登録した。まず、レースの準備で互いに会うことさえ少なくなった。はじめてクラス2の急流川下りに挑んだとき、私は溺れそうになり、結婚指輪をなくしてしまった。それが後の象徴となったわけではない。それでも、情熱の共有はつまらないトレーニングなどでなく、すばらしいことだった。私たちはニュージーランドの南島に到着すると、レースのサポートを手配し、コースを把握しなくてはならなかった。コースによっては標示のないトレイルがあったり、急流があったりした。ニュージーランド人はどうかって? 手強い競合仲間だった。なかにはメリノ種の羊に似ている人もいた。
どこもかしこもコロナの2020年7月。思いがけず電話が鳴り、ベンチュラ店、別名「グレート・パシフィック・アイアン・ワークス」へ来るようにという連絡が来た。私のシャツは、歩道で受け取れるとのこと。もうすぐシャツがこの手に戻ってくる。そして、この背に戻ってくるのだ。色合いはちぐはぐだが、私の目には前よりも一層スタイリッシュに映った。
16年前、このシャツを初めて買ったときには、これを作った会社で働くことになろうとは思いもしなかった。私は現在、パタゴニアで、修理の環境的倫理を熟知している。いかに服を捨てずに着られるようにするか、いかにその他の必需品以上に服の製造からすべての無駄(特に新鮮な水の利用)や炭素排出量を削減できるか。
リサイクルと併せて、修理は欠かせない「循環型」の要素だ。ビジネスの世界でも使用しているすべての原材料を維持することがキーワードになっている。もしも、これ以上、大量にドリルで穴を開けたり、鉱物を採掘したり、皆伐したり、抽出したりすることがなくなればどうなるだろう。もしも、今までの代わりにすでに収穫したものを再利用し続けるという方法を見つけたらどうなるだろう。それは、すばらしいアイデアだと思う。しかし、捨てる消費文化を循環する文化に置き換えるならば、物の考え方を変える必要がある。新しいものよりもリサイクルしたものの方がよい、一度ならず何度でも同じものに金を払う価値があると思わなければならない。私たちは、そうなるだろうか。コルビーの修理が無料でなくなったら、私は有料で修理をするだろうか。うん、きっとそうするだろう。
正直に言えば、私が代金を払う理由は道徳的なことよりも自己満足の方が大きい。コルビーとWorn Wearのスタッフは、シャツを直しているのではなく、私の心が失われていくことから救ってくれた。このシャツがあれば、私は想像の中で幼い息子たちとずっと遊んでいられるのだ。