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マエストロ

ソフィア・アレドンド  /  2022年12月9日  /  読み終えるまで13分  /  クライミング, カルチャー

メキシコのロッククライミングの父、ラウル・レビーリャ・キロスに捧ぐ。

ラウル・レビーリャ・キロスの息子、アルフレド・レビーリャは、父の工房で伝説のレビーリャブーツを手にする。60年以上にわたってラウルが登山家達のニーズに応えながら高品質のブーツを作り続けた場所だ。アルフレドはそのレガシーを継承し、今日に伝えている。メキシコ、イダルゴ州パチューカ 写真:Edgar Hurtado

ラウル・レビーリャ・キロスは、情熱のままに行動し、メキシコのクライミング界に足跡を残した。国中で尊敬され称賛される彼は、2009年にその垂直の世界で成し遂げた偉業が認められメキシコスポーツ連盟の山岳部門の殿堂入りを果たした。2022年1月、彼の突然の死は衝撃であり、パタゴニアは決して彼を忘れることはない。以下の文は、彼の成し遂げたクライミング、熟練した登山靴職人としての仕事、そして、情熱的なクライミングの先駆者としての彼のレガシーに対する賛辞である。

「地上30mの虚空へ一歩踏み出す恐怖と興奮を知る者、半日岩の上で格闘した後で飲む水の味を知っている者、寒空の下で数日ビバークした後の温かく柔らかいベットの素晴らしさを知る者、帰宅して愛する人の愛情を感じたことのある者、チームの間にある愛情と見えない絆を理解する者、岩登りに夢中で一日中何も口にしなかった後の食事の大きな喜びを知る者、そのような者たちだけが、ロッククライミングと山への愛を理解することができるのだ」―トマス・ベラスケス『Mexican Climber’s Guide』(1955年)

伝説のレビーリャブーツを生み出し、40年代から50年代にかけてメキシコのイダルゴで最も卓越したビッグウォールクライマーの1人であるラウル・レビーリャ・キロスは、その功績だけでなく、人柄においても称賛される人物の1人だった。情熱的なクライマー、職人、そして何よりも、代々のメキシコ人クライマーや登山家たちのメンターあったラウルは、「エル・マエストロ」という相応しいニックネームを与えられた。数々の歴史的なルート、そして様々な発明を残し、メキシコのクライミングの時代を切り拓いた。

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イダルゴ州のとある山頂のラウル。1940~50年代、メキシコのビッグウォール初登の黄金時代、彼はその中心的な人物だった。イダルゴ州パチューカ 写真:Alfredo Revilla Collection

1923年1月23日、イダルゴ州パチューカに生まれたラウルに両親はなく、幼いラウルを母の親友であるオレリア夫人が自分の子どもとして育てた。腸チフスが流行した時、ラウルは1日1枚のクラッカーと2口のミルクで奇跡的に生き延びたし、貧乏ゆえに彼は9歳でTen-Pacの工場で働き始めるなどして、二人で様々な困難を乗り越えてきた。このようにして、ラウルの人格は幼少期に形成されていった。そして、その工場は鉱夫の履く頑丈な作業靴専門の修繕工房であり、そこで習得した技術を生かし、後に彼は名作を生み出す。それはソール部分に航空機のリサイクルタイヤを使用した革製のクライミングブーツだった。60年以上に渡りメキシコの山々の登攀に使用されている。

ラウルの故郷の町を取り囲む岩壁だらけの風景が、彼の探検への好奇心を掻き立てた。やがて、その情熱は「自然との契約」となり、クライマーとしてのキャリアを確立することになる。それら荒野や頂上への愛は、彼がレイムンド・ソリスの『V Grado』のために書いた序文に表れている。「その山々を訪れると、文明化という災難から守るべき自然の宝物に出会う。湖、美しさ、険しい岩壁、広々とした牧草地、木々が生い茂り川が流れる空気で満たされた深い渓谷、そのようなものたちが、生きる意欲と平穏への憧れを蘇らせるのだ」

彼がまだ10代だった1930年代後半、メキシコ探検クラブのメンバーに誘われて、ラス・ベンタナスのエル・フィストル・デル・ディアブロを登りだした。それが、ラウルにとって初めての本格的なクライミングだった。クライマーで山岳ガイドのエクトル・ポンセ・デレオンが、ラウルとのクライミングを次のように振り返る。「壁で使っていたアイボルトのことを覚えているよ。(当時)ラス・ベンタナスのクラシックルートには25mを登るのにプロテクションが釘のようなアイボルト1本しかなかったんだ。今にしてみたら、壁に絵を掛けるのも不安なような釘だよ。そうしたギアを発明したのは、主にレビーリャだった。オープンゲートタイプのカラビナがなかった頃のクライミングの話に興味をそそられたよ。釘を打ち込んで、自分のロープをほどいて、釘のリングにロープを通して、また結ぶ。壁の中でそんなことをするなんて、想像もできないよ」

その後まもなく、ラウルはオントニオ・オルティス、ホセ・ヘルトルディス・メンチャカ、フランシスコ・サンタマリアと共にペニョン・デル・ゾロを登った。出だしは、アブミ代わりに棒を使って超えた。ピトンやボルトがなかったので、地上45m、最初のプロテクションから15m地点でクラックに細かい木片をねじ込んでプロテクションにした。山頂に到達した後は、素手で麻ロープを掴み、懸垂下降したのだ。

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大きな壁を懸垂下降するときは、常に少しの不安がある。それをハーネスやビレイデバイスなしでやることを想像してみよう。パチューカでの1日のクライミングを終え、クラシックな方法で地上に降りるラウル。写真:Alfredo Revilla Collection

ラウルは最小限の装備で登りながら、メキシコにおけるこのスポーツの未来を駆け足で切り拓いていった。ラス・ベンタナス北壁、エル・センチネラ、ラ・ブランカ、ロス・パナレス、エル・レオン・アラド、ラス・トレス・マリアス、ラ・アグジャ・デ・ラス・モンジタス、エル・コラソン、エル・シルコ・デル・クレストン、ラ・ペズニャ、ラムエラ。1942年、ホセ・ヘルトルディス、アントニオ、フランシスコ、そしてラウルは、有名なペーニャ・ラヤダに魅せられた。メキシコのクライミングに新時代を刻んだルートだ。ロープは結んでいるものの、彼はプロテクションをとらずに全てのピッチをリードしたが、後日そのことを振り返って、「二人には家族がいたからね。私にはいなかったから」と語った。

ラウルによって成し遂げられた初登の数についての確かな記録はないが、実際には私たちが知るよりも間違いなくもっと多いはずだ。彼は、登山靴やギアといった、自身のクライミング哲学の一部としての発明によってその名を知られているが、実際に残したものはもっと大きなものだ。メキシコでもっとも偉大なクライマーの一人であり、ラウルから強烈な薫陶を受けたヘルマン・ウィングの言葉を借りるなら、ラウルのレガシーは山やルート、ギアといった物質的なもので解釈されるべきではない。「あなたが残したものは、あなたの哲学の本質であり、考え方の礎たる魂そのものに他ならないのです」経験豊かで知的、かつ先見性のある職人、冒険家と称賛するラウルについて、ヘルマンはそのように語った。

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ラウル(左)とエミリオ・ベガ(右)は、3人目の無名のクライマーと共に、その日の登攀に成功し、ルートの頂点に立った。写真:Alfredo Revilla Collection

『V Grado』のラウルの序文には、彼が人生の拠り所とした哲学が凝縮されている。「岩壁を登り、倒木を乗り越え、未踏の領域を探検することで、身体は楽しむ力を再び取り戻す。子どものように、人生における最も簡単なことを」。「山に入ると、創造主の大きさを心で感じることができ、健全な運動が生む高揚感に身体が夢中になる。自然への愛やこのユニークなスポーツへの畏れを決して失ってはならない。山を軽んじることは、すべてを失うことだ」

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最高の登山ブーツを作るには、山でさらされる地形や気候を知る必要がある。ラウル・レビーリャとエミリオ・ベガは火山にもよく登った。この時に得た知識を生かし、後に彼は靴職人として名を知られるようになる。メキシコ 写真:Alfredo Revilla Collection

当時、クライミングは初登がすべてだった。あらゆる未踏の壁や頂が、クライミング界の情熱をかき立て、確かな情報がない中で、クライマーは新たな挑戦に身を投じた。それは生か死かのクライミングでもあった。山頂に到達することは義務であり、クライマー達は手近な物を使用した。クライミングシューズはエスパドリーユやTen-Pacブーツ、安全器具は線路のスパイクと、もやい結びで腰に付けた麻ロープ、デュルファーシッツ・ラペルのような初期のテクニック、擦り傷を防ぐ革ジャケット。「ラウル・レビーリャは、アルピニズムのロマンチックな時代の象徴だ」エクトル・ポンセ・デレオンは言う。「メキシコだけでなく、全世界のね。あの時代に山や壁で偉業が達成された。彼が突出していたのは、何よりその冒険心だ。あの頃のクライミングはスポーツを超えるものだった。それは理想的な…精神と身体の可能性の探求だった」

ラウルがクライミングを始めた時代、メキシコにはクライミングギアはなく、みんなそれぞれに工夫をしていた。ラウルはその発想力と器用な手先で、数多くのクライミングギアを生み出すデザイナー兼エンジニアになった。70年前、彼は鍛冶屋と協力してピトンやペグを作り、さらにロジェ・フリゾン=ロッシュの『First on the Rope』にヒントを得て、鉄道のレールを使用した、ベントワイヤーカラビナを製作した。そしてそれ以後、リードをする際に、腰からロープをほどいて結び変えるような、危険な真似をする必要はなくなったのだ。

1952年4月7日、ラウルとクライミングパートナーのエミリオ・ベガは、最終パートの強烈なランナウトによって、今日でもほとんど登られることのないラス・ブルハス西壁に初めて挑んだが、終了点からわずか20mの地点で撤退しなければならなかった。
その1週間後、27歳の時、ラウルはTen-Pacの工場で出会ったパウラ・サンドバル・アロヨと結婚した。彼女は危険な登攀で彼を失うことをひどく恐れていた。結婚を機にクライミングをやめると誓ったラウルは、すべてのギアを弟子のファン・メディナ・サルダニャに譲った。メディナは1年足らず後にフリーでラス・ブルハスを征した。

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今と同じく、1940年代もコミュニティはクライミングの発展に不可欠だった。ラウルとクライミングパートナーのエミリオは、山中で仲間と共にポーズをとる。写真:Emilio Vega Collection

クライミングをやめることに同意はしたが、ラウルは自らの情熱を手放すことなく、機会があれば常にこのスポーツを応援した。1960年代の初めには、ラウルは過酷な登攀の使用に耐える頑丈な防水ブーツを提供できる最初の靴職人になった。彼はその有名なレビーリャブーツやクライミングシューズ、そして時にはザックや寝袋の開発に昼夜を費やした。60年代の終わり頃、当時最高のメキシコ人洞窟探検家だったホルヘ・デ・ウルキホ・トバルがラウルの家を訪ね、ヨーロッパから持ち帰ったガリバーブーツのレプリカを依頼したことで「レビーリャ」は一躍有名になった。

どのレビーリャブーツにも、ラウルがクライミングに広大な人生観を見い出そうとした哲学の一端が込められている。レビーリャのブーツやクライミングシューズは、創業から今日に至るまでずっと、手作りされており、当時の様式や同等の最高品質を維持している。ラウルの息子アルフレド・レビーリャは、父が数十年間仕事をした工房で、そのレガシーを継承している。60年にわたりそれらを愛用しているコミュニティへの敬意を込め、最高品質の地元の材料と繊細な製法で、彼は靴を作り続けている。メキシコの火山と壁の登攀のほとんどは、かつても今も、これらの靴で成し遂げられており、それはまさにこのスポーツの「過去」と「未来」を作ってきた。

「私にとって、靴職人として、そして登山家として、人生で父のレガシーを受け継いだことは、最高の名誉であり、大きな責任です。このように父の名が広まることをとてもうれしく思います」とアルフレドは言った。「父は自分のやっていることが唯一無二であることを分かっていました。だから私もその路線を、つまり唯一無二であること、きちんと仕事をすることを守らなければなりません。多くの人々が実践するこの美しいスポーツには、継続的に成長し、心身をケアし、自身に内在するすべてを癒すための方法があります。大いなる尊厳を持って大切にしたいこれらの宝物を得られたことは、とても重要です」

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工房で、アルフレドは父の写真を掲げる。彼は父親から商売を学んだだけでなく、レガシーを受け取った。メキシコ、イダルゴ州パチューカ 写真:Alfredo Revilla Collection

しかし、よく言われるように、遅かれ早かれ、情熱の炎は再び燃え上がろうとする。1980年代に、ラウルは医師にも診断のつかない、つらい身体の痛みを感じ始めたのだ。安らぎを見いだすことができず、彼は残して置いてあった1組のブーツを掴んだ。妻は「どこへ行くの?」と尋ね、登らない約束を守ってほしいと懇願し、彼は「行かなければならない」と答え、エル・クレストンを登頂した。

自然への愛と、自分の痛みを癒せる場所は山であるという信念が、彼をバーティカル・スポーツの偉大な教師にした。それこそが、彼が家族とコミュニティの両方に伝えたレガシーを認識する最良の方法なのかもしれない。息子に有名なブーツ製作の秘訣を伝えるかたわら、ラウルは病気になってから25年以上に渡りクライミング界の現役であり続けた。イダルゴ州ハイキング・登山・探検協会および国立工科大学を通じて、彼は登山とクライミングの振興に努め、長年にわたり無償で協力し続けたのである。

「世界中のクライマーがラウルの名声を知るようになりました。マエストロは1943年に(パチューカに)このスポーツを紹介したクライマーです。我々の間では、『聖杯』を探す冒険みたいに、彼に会うことが1つの使命になりました」写真家ビル・ハッチャーとクライマーのトッド・スキナーは、1991年号の『Rock and Ice』でそう振り返っている。「我々の行く先々で、マエストロは絶大な敬意をもって語られた。すべての人々からこれほど尊敬されている人物は、アメリカのクライミング界にはいません。彼はメキシコ人にとってクライミング界のワシントンなのです」

ラウルは強く教養のある人、自分の主義に深くこだわる人、好きなもののために全力を尽くす超完璧主義者として、記憶に残るだろう。最後の日々まで、ヘルマン・ウィング、アンドレ・デルガド、カルロス・カルソリオなど、新しい世代のクライマーを家に招いていた。そこにはいつも、クライマー同士の親密な仲間意識と経験豊かな会話があった。彼らはこの先それらを携えて頂に立つことだろう。

「彼との出会いは、私の人生でとても重要でした」ヘルマンは数多くのクライマーが巡礼したこの家を思い出し、しみじみと語った。「いつも温かく迎えてくれました。私はメキシコシティを発って、バスを降り、ドン・ラウルの家までよく歩いたものです。そこでは1日が終わる頃、彼がドアを開け、『入って』と迎えてくれる。その後、私はリビングルームで、寝袋で寝入ってしまったものです。翌日、私達はチルコ・デル・クレストンへ向かった。愛する彼のことは常に忘れません。クライマーとして彼が私の人生に示してくれたもの、与えてくれた影響、そのすべてがあるから、ドン・ラウルは常に私の心の中にいます」

ラウルのレガシーは、何十年経っても色あせていない。その間に彼はメキシコで最も崇拝される登攀のいくつかを成し遂げ、その間に全国各地に数十ものクラブが結成され、ラウルは入会を求められた。マエストロ・レビーリャは、この国で最も壮大な岩壁だけでなく、彼が最も情熱を注いだ「山」という分野の教え、革新、起業家精神の頂点に至るルートを導いた。

彼は次の世代に向けて大胆な言葉を残している。

「言い訳をせず、解決策を考え出せ」

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ラウル・レビーリャ・キロス(1923~2022年)父、夫、クライマー、そして職人。彼の思い出は常に我々と共にある。写真:Emilio Vega Collection


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