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緑の三本筋

アマンダ・モンテイ  /  2022年12月22日  /  読み終えるまで12分  /  カルチャー

マンザナー強制収容所で鉄条網を越えて釣りをする。

この釣り人は、今ではヘイハチ・イシカワと判明しているが、75年もの間、その素性は分からずにいた。このストリンガーに掛かるゴールデントラウトを獲得するための冒険談も、時を同じくして忘れ去られていた。写真:Toyo Miyatake Studio

それは、カリフォルニア州中部にあるマンザナー戦争移住センターの東側にあるインヨー山脈から、まだ朝日が昇らない早朝のことだった。ここはタンブルウィードの園と称される高地砂漠で、空気はピンと張りつめている。11歳のセツ・トミタと兄のマキオは、強制収容所の西にあるシエラネバダを目指して歩き出した。収容所の一角を横切る渓谷の小川をたどり、2人は監視塔のサーチライトを見上げながら、ダブルダッチを跳ぶ時のようにタイミングを計って収容所の有刺鉄線をくぐった。彼らはマンザナーの山から蛇行する三本の小川のうち、一本に狙いを定めていた。収容所で耳にする会話、直感、有刺鉄線を超えての偵察から、2人の少年は、その小川にカワマスやニジマス、ブラウントラウトが生息していることを突き止めたのである。

1943年、マンザナーに収容された1万人の日系アメリカ人の中にトミタ兄弟はいた。第二次世界大戦の間、真珠湾攻撃以後の猜疑心の強い米国により、彼らは約4年近くをこの収容所で過ごした。現在90歳のセツは、カリフォルニア州グラナダヒルの自宅から電話インタビューに応じ、こう答えた。「14歳の時、兄は車で収容所の外に出られる仕事を与えられた。どうやってその仕事に就いたのかは分からないが、ある日、兄はハイウェイからマンザナーを見ると、山の方に向かって3本の緑色の筋があると」

「緑色の筋は小川が流れているところだった。そして(マキオは)言いました。『男たちはそこへ釣りに行くらしいよ』」

「監視塔から離れるまで干上がった川床をたどり、それから緑色の筋に向かって歩いた」セツは続けた。道中で食べようと食堂のサンドイッチや前夜の夕食のおにぎりを荷物に入れた。懐中電灯も地図もなく、初歩的な道具しかなかった。「8フィートくらいの柳の枝を切って、それにリーダーを結び、釣り鉤をつけただけだった」

収容所の有刺鉄線から這い出て、守衛の監視とライフルをかわしながらの釣りは、とても危険な試みだった。しかし、そのようなリスクは、兄弟の記憶にあまり刻まれていない。
「捕まる気はしなかった。私たちにとっては、ただの冒険でした。彼らから私たちは見えなかったし、私たちからも彼らは見えなかったから」

緑の三本筋

左からノリト・タカモト(9歳)、ブルース・ヒサシ・サンスイ(12歳)、マサキ・オーオカ(9歳)は、正式名を「マンザナー戦争移住センター」という収容所で、有刺鉄線の彼方を見つめる。撮影日不明。写真:Toyo Miyatake Studio

現在は国定史跡となっている旧マンザナー戦争移住センターは、カリフォルニア中部の395号線沿い、ウィリアムソン山麓の3㎢のエリアに存在した。夏は猛烈に暑く、冬は乾燥した寒冷な気候で、この辺りの年間平均降雨量はわずか10~15cmと極端な気候だ。しかしながら、セツがこの地域のことで最も憶えているのは土埃だ。

「止まない風と埃ほど過酷なものはなかった」とセツは言う。「朝起きると床一面が土埃だった」

1941年暮れの真珠湾攻撃の後、米国は戦時下の混乱の中で、フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、大統領令第9066号に署名し、全国から12万人の日系アメリカ人を合計10ヶ所の「移住センター」へ強制的に収容した。これらの強制収容所に抑留された人々の3分の2はアメリカ市民で、裁判や適正手続、質問などほとんどなく、連邦議会での審議はわずか90分だった。中には、1日か2日で、手で運べるだけの荷物をまとめ、仕事、友人、家、米国で築き上げた活気のある生活を捨てなければならない家族もいた。

マンザナーの人々は、ロサンゼルス近郊のターミナル・アイランドなどの漁村や、遠くはワシントン州ベインブリッジ・アイランドなど、西海岸一帯から集まってきた。そこには農夫、漁師、芸術家、トラック運転手をはじめとした、各分野のプロフェッショナルがいた。1942年、手で運べるだけの荷物を携えてマンザナーに到着した人々は、米国政府の言う「水道や炊事設備類は一切ない、簡素な骨組みのタール紙ぶきのバラック」に収容された。床板は薄い板張りで、絶え間ない土埃を防ぐこと役に立つことはなかった。家族は人数に関わらず6 x 8mに仕切られた「アパートメント」にあてがわれ、簡易ベッドとわら布団と共同トイレとプライバシーはほぼ皆無だった。

「私にとって、その現実はとても、とても辛かった」10歳の時、両親や5人の兄弟姉妹とマンザナーに入所したセツは言う。「両親がいても、捨てられたような気持ちだった。私たちはすべてを失った」

セツは、ロサンゼルスから南へ350kmの道のりをバスに揺られ9時間かけて、マンザナーにたどり着いた。靴をいっぱいに詰めた一家のスーツケースを運ぶ役割を与えられ、幼い彼にはそれが精一杯だった。「夕暮れ時に到着し、建物の輪郭が見えた。私たちは街路樹のある街から来た。そう、至る所に樹々があった。でも着いたそこは、とても殺伐とした風景だった」

所内に郵便局が開設されると、収容所の家族はシアーズのカタログを見て注文できるようになり、子どもたちはフック、リーダー、スプリットショットを手に入れた。ロッドと餌は、ほとんどが手作りだった。収容所では多くの人々が、竹ぼうきや熊手の柄をナイフで削り、独自のロッドを作った。セツは、兄以外の人と釣りをしたことがなく、他の人の釣りを見たこともなかった。2人は自分達のポイントを収容所内の仲間に秘密にしようと誓った。だが2人の知らない所で、何人もの人々がこの3本の緑色の筋を見て、収容所の柵の向こう側に何があるかを探検しようと有刺鉄線をくぐっていた。

「Manzanar Fishing Club」というマンザナーの釣り人のドキュメンタリー映画を手掛けた映画製作者のコーリー・シオザキは、全収容者1万人中、約300人がマンザナーで釣りをしていたと概算する。シオザキが映画化を思い付いたのは、1990年代後半に、収容所の有刺鉄線の中でストリンガーに掛けたマスを手にする名もなき釣り師の写真を初めて見た時だった。「釣り師・イシカワ」として知られたその写真の男性は、レザージャケットを着て、シワの刻まれた額に、ゴツゴツとした手をしている。撮影時は55歳くらいで、明らかにプライドがにじみ出ている。それもそのはず、彼が手にしたストリンガーには、有刺鉄線の彼方、シエラネバダの奥地で、2週間以上かけて探し求めたゴールデントラウトが掛かっているからだ。

この写真は、当時46歳の写真家、トーヨー・ミヤタケ(宮武 東洋)によって撮影された。彼はカメラのレンズを収容所に持ち込み、大工や職工の協力を得て、廃材や排水管でカメラの残りの部分を作った。そして、ミヤタケは収容所の公式カメラマンとなった。ミヤタケの1枚のミステリアスな釣り人の写真に、多くの人々は、イシカワがマンザナー周辺のどこでゴールデントラウトを見つけたのかを不思議がった。マンザナーから1~2日の徒歩圏内のどの渓流や高山湖にも、カリフォルニア・ゴールデントラウトは生息していない。イシカワがそれらを探し求め、さらに遠出したことには間違いない。イシカワの身元については謎が多く、名前すら分からずにいた。

「2009年当時、僕は(マンザナーの釣り人に関する次回作のために)資金集めをしようとポスターを作り、そこに、この男性の写真を載せたんです。すると受付の女性がその大きなポスターを見て『ええっ、これ私の祖父よ』」とシオザキは語った。数か月後、その男の死亡証明書を入手でき、70年近くを経てその名前が「ヘイハチ」であることが判明した。その釣り師の名はヘイハチ・イシカワだった。

緑の三本筋

マンザナーのバラック、撮影日不明。おそらくトーヨー・ミヤタケの自家製カメラで撮影されたものだろう。収容所の居住エリアには、こうしたタール紙のバラックが38区画あった。ピーク時のマンザナーには、大人・子供を併せて1万46人が収容されていた。写真:Toyo Miyatake Studio

マンザナーの釣りは、イシカワが高地で捕ったゴールデントラウトからはじまったわけではない。その発端は、抑圧された好奇心、本能的な勘、そしてついに収容所付近の川で小さなマスが見つかったことだ。トミタ兄弟が収容所外の短時間の任務中に探したようなマスだ。カリフォルニア州魚類野生生物局によって放流が行われていた3本の川、ベアズ、シェファード、ジョージは、高山湖を源流とし、収容所の生活水をほぼまかなっていた。シェパード川とジョージ川は、収容所の北端と南端を流れる。しかし、ベアズ川は収容所の南西部を横切っており、激しい雪解け水でできた深い谷は、真夏の太陽からの避難所だけでなく、釣り人達の決定的な逃避行ルートになった。

だが、渓流で最初にマスを発見した者は、谷を利用して逃走したのではない。その多くは水夫であり、洗濯、料理、飲料、入浴用の水を貯める貯水池で作業するため、収容所の外へ出ることができたのだ。その他の者は、農場でのヒソヒソ話や、収容所の敷地外へ出ることを許された貯水池の水夫から、マスがいることを聞いていた。中には、貯水池の水夫に金を渡し、マスを求めて、こっそり外へ出してもらう者もいた。まだ収容初期の頃だった。収容所のセキュリティは厳しく、外へ出ることは極めて危険だった。釣り人が監視塔から撃たれることも時折あった。鉄線をくぐろうとして、所内の監獄へ入れられた人々もいた。

危険にも関わらず、釣りは続けられ、収容期間が続く中で、より入念でより困難な奥地への探検へと発展していった。シオザキの映画は、収容された複数の農夫への調査やインタビューを通じて、そのような体験をうまく描いている。インタビューされた人々によれば、収容所のセキュリティが次第に緩和されたことや、不公平感から生まれる一種の気概に励まされ、日帰りのちょっとした遠出は、やがて数日になり、さらに後年の収容生活では、1週間に及ぶ山行へ変わっていったという。釣り人は、水路沿いを蛇行するパイユート族の古道をたどり、やがて標高3,700m付近でシェファード・パスに至る。この道はカリフォルニア14ers(4,300メートル超の峰)の最難関ルートの1つとして知られ、クライマーがウィリアムソン山へアクセスするための主要なポイントになっている。その他にも、映画が取り上げた人々の中には、シェファード川支流のウィリアムソン川に沿ってシエラの斜面をよじ登り、ウィリアムソン山麓の盆地に直接至る直登ルートを使っていた人もいた。収容所からだと、このルート上では、そびえ立つウィリアムソン山の左手にある巨大な花崗岩のスラブが核心部になる。高山湖はいくつかあり、どのルートでアプローチし、どの湖で釣りをするかによるが、移動距離は往復で32~64km、標高差は約1,800mになる。この登攀を考えると、ウィリアムソン山麓の盆地で最初に釣り人を出迎えたであろう湖の1つにミザリー(悲惨)という名が付けられたのもうなずける。

(The Manzanar Oral Historyプロジェクトを通じて入手できる)マンザナー収容者のインタビューによると、釣り人の大半がこの盆地のみで釣りをしていたこと、時には付近の洞穴で寝泊まりし、収容所から持ってきた米や湖で捕った魚で食いつないでいたという。湖では、彼らは虫、卵、おにぎりを餌にして、19世紀後半から20世紀初頭に放流されていたニジマスやコロラドリバー・カットスロートを釣っていた。寝袋を携行する者もいたが、過酷なハイクのため、荷物の軽量化が求められた。そして、釣り人は準備する装備についても大いに進歩を遂げた。所内のカタログで注文したものであれ、手作りでつくったものであれ、より高所の湖へ、ひいてはより大きな魚を釣るためには、ロッドが伸縮自在であり、分解して小さくできることが必須条件になった。

釣り人達は、コロラドリバー・カットスロートとゴールデントラウトを若干混同していたようだが、マンザナーの釣り人の大半が最も頻繁に釣りをしていた湖に、ゴールデントラウトはいなかった。しかし、ミヤタケはたった1枚の写真で、ヘイハチ・イシカワという少なくとも1人の釣り人が、マンザナーの近くで、ゴールデントラウトを探し求め、ついに発見した苦労を不滅のものとした。

イシカワの驚異的な探求は、シェファード・パスのガレ場や雪原を登り、シエラネバダの最高地点を横切って西斜面に取り付き、そしてゴールデントラウトの垂直分布限界とされる標高3,000m超のカーン川かティンドル山の盆地内で、そのマスを発見することへと繋がった。端的に言うと、イシカワのストリンガーに吊るされたゴールデントラウトに出会うには、単独で2週間、限られた装備のみでシエラの高地を探検する必要があった。それを55歳近い男がやり遂げたのだ。

緑の三本筋

マンザナー強制収容所と、そこに収容された日系アメリカ人のつかの間の休息の間には、ウィリアムソン山の堂々とした高台の下に広がる険しい低木林と山麓が広がっていた。写真:Toyo Miyatake Studio

マンザナーへ送られた収容者は全てを失った。これまで積み上げてきた多くの仕事、家庭、生活。収容期間がどれくらい続くのかを知るよしもなく、受け取った賠償金はわずかだった。ようやく解放された時、人々は取り返しのつかない数々の不当な仕打ちを受け入れ、新たに出直すしかなかったが、多くの場合、その境遇は収容前と全く異なっていた。セツ・トミタは、マンザナーの後、数年は田舎の納屋で暮らしたと言っていた。収容生活を終え、一家には数年もの間、家やアパートを購入する余裕がなかったのだ。

戦争が激しくなっても、彼らは釣りをしていた。これは全体の一部にすぎないが、あらゆる困難に立ち向かい、小さくとも力強い行動の結果であることは、数十年後に懐かしく思い出されることだろう。あの3つの緑色の筋が、本能の奥深くに眠る感覚に語りかけ、かつての生活の原点がそこにあることを彼らに告げていたのだ。そのような革命的な行動の中に、収容中に失いかけていたあの感触を、自由を求めるあの感覚を、人々は見い出していたのだろう。


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