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トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

奥本 昌夫  /  読み終えるまで8分  /  フライフィッシング

川と空とが織りなす美しい汽水エリア。巨大アメマスを追う釣り人の夢のフィールド。写真:奥本 昌夫

アメマス。アイヌ民族の言葉で「トゥクシ」。北の大地を象徴するこのイワナ属の魚は、海と川とを自由に往来し、大きく成長する野生魚だ。とりわけ、海と川とがつながる大河川の汽水域は甲殻類や小魚を豊富に育み、トラウトたちにとって芳醇な成長の場となる。北海道の多くの河川は開発によって、多くのものを失ってきた。だが、いまでもなお残された自然を巧みに利用し、稀に1メートルもの大きさに育つともいう。数は少ないが故に希少さは増す。それが釣り人である我々の夢を掻き立てる。

北海道のアメマスは河川の上流や支流の湧水が出るような場所で生まれ、少しずつ成長しながら海へと下るものが多い。温暖な地域では河川に残るものもいるが、寒冷な道東の河川では誕生後、数年でほとんどのものは降海し、その後は一年の季節に合わせて海と川、汽水などを自由に移動して生活する。いわば「旅するイワナ」なのだ。

北海道は道東、十勝平野の海岸線に広がる海浜地帯。春特有の西から乾いた風が吹きつけ、まるでどこか異国の荒野を思い出させる場所だ。大河、十勝川が海と出会う河口部。そこには、海水と淡水が混じり合い砂州や浅瀬でできた水域がある。年によって大きさや形は変わるが、沖合で太平洋の大きな波は崩れ、その汽水には低く静かな波が打ち寄せる。川で生まれたアメマスがエサを求めて自由に行き交う場所。春にはアメマスがこのエリアに集まる。この年もまた、巨大なアメマスを求めてこの地を訪れた。

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

貴重な自然が残された十勝川河口の汽水域。多くの甲殻類や小魚が生息しており、それを餌として捕食するアメマスを大型に育む。写真:奥本 昌夫

強い風でさざ波の立つ砂浜に立つと、目の前でいきなりの水面に大きな波紋。その波紋の大きさからすると、かなりの大物の仕業だとわかる。何かエサとなる生物を追いかけまわして、勢い余って水面に飛び出してしまうのだ。だとしたら、いったい何を食べているのか?

フィールドにおけるフライフィッシングの儀式、それはまず自然観察。そこが山奥深い渓谷であろうと、海辺に近い砂浜であろうと、観察するものの違いはあるものの重要さに変わりはない。魚そのものの姿、影、捕食するサイン、そして餌となる生物たち。自然観察の結果は釣果となって現れる。しかしそれ以上に、自然と対峙するその過程こそがフライフィッシングの醍醐味なのである。

ここではこれまでの実績でフライを選ぶ。主に二つのパターンがあって、何かの稚魚か、あるいは小型のヨコエビなどの甲殻類。季節を考慮すると、降海するサケの稚魚というのは悪い線ではないだろう。フライでは小魚を模倣したストリーマーを投じ、それを流れに横切らせる、あるいはラインをたぐって動かしリトリーブする。それがフライフィッシングにおけるこの地でのオーソドックスな釣りのスタイル。サケ稚魚のフライはこうした釣りに実にマッチする。さてどうするか…。

波紋は定期的に起きては止んでと繰り返しており、動き回っている魚が多いようだ。フライを目立つライムグリーン色のシュリンプ風パターンにする。鮮やかなグリーンは、本物のヨコエビとは違うが、アメマスには効果的だと言われている。フライは水の中でいかに魅力的な動きをするか、ということも重要だ。このフライはエビにも小魚にも見える汎用的なパターン。これで探ってみる。

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

アメマスが好むライムグリーンのストリーマー・フライをキャンプ地で巻く。背中の取り付けたラビットゾンカー(ウサギの毛)は水に濡れると細く滑らかな動きを演出してくれる優れた素材。写真:奥本 昌夫

これを投げて数回、するとグイッとラインを引き込むようなアタリがきた。魚は川の中央へと走って行く。ピンと張ったライン、グググッと曲がったロッド。アメマスが逃れようと抵抗する躍動をダイレクトに感じる。生命力が伝わる瞬間。この体感こそ、釣り人が足繫く釣りへと向かう理由。自然を観察し、フライを選択し、狙いを定めて投じる。『手ごたえ』はその答えだからだ。

残念なことに、この日釣れたのは50㎝にも及ばない中型サイズのみだった。釣り人たちの実感として、ここ10年ほどで太平洋岸のアメマスはかなり減ったと言われている。数だけではなく、小型化も進んでいる。海で漁獲されたとか、海洋の高水温が原因とか、あるいは単に種として減少期に入っているとか、まことしやかな話がささやかれているが真偽のほどは定かではない。アメマスは漁業資源としての価値はほとんどなく、他のサケ科魚類のように、関係機関による調査の対象になることもほとんどないのが実態だ。

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

海と河口域を行ったり来たりする典型的なアメマスの姿。40~60㎝ほどのサイズが最も多い。体中に散りばめられた白点の大きいものほど、急激な成長を遂げたことがわかる。写真:奥本 昌夫

ついにある年、私はモンスター級ともいえるアメマスと遭遇する。前の週から何日か通い詰めていて、釣果はかんばしくなく、大物はおろか中型魚でさえ、満足するだけの釣果がない状態だった。

よく晴れた日の昼過ぎだった。それまでもアタリが遠く、今年も大物には出会えないな、などと諦め気分になっていると、沖目に投げていたフライに突然、ドスンという重いアタリが来た。と共に、ラインがズルズルと引き込まれ、ただならぬ大物の手ごたえ。それまでも70㎝超の太ったアメマスを何度か釣りあげたことがあったが、このアタリは別物だった。引きの強さが段違いだったのだ。
じりじりとしたやり取りがしばらく続き、一瞬、浮上してきた青味を帯びた灰褐色の背中を見て驚愕する。間違いなくアメマス。だがその巨体、その長さは、まさかのメーター級に見えたのだ。

「本当に、これがアメマス…?」

釣り人の気配を察知したその巨大アメマスは、沖に向かって力強く走り出す。ツーハンドの強靭なロッドをものともせず、ラインもろとも水の中を疾走。リールからラインが引き出され続けていく。どこまで行くつもりか…。こうした時の釣り人の心情はみな同じに違いない。

「何とか持ちこたえてくれ…頼む!」

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

13ftのツーハンドロッドを駆使して広大なエリアをくまなく探る。シューティングヘッドのラインをスペイキャストで繰り出す。キャスティングもまたアメマスのフライフィッシングの愉しみのひとつ。写真:奥本 昌夫

そんな祈るような気持ちの中、しばらく耐えていると、引き出したラインの重さに加え、受けた水の抵抗と相まって、さすがに巨大魚の足も止まった。

「よし、浅場へ誘導しよう」

潮引きでできた遠浅の砂場に、労わりながら誘導すると、巨大アメマスはゆっくりと浅場へと入っていった。決して陸へ引きずり上げたりはしないよう注意を払う。生かしたままリリースすること。それは、さらに大きくなったこの巨大アメマスにまた挑戦したいという強い想いがあるからだ。死んでしまえばそれもかなわないのである。

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

汽水の主のような長大なアメマス。先住民アイヌに『トゥクシ』と呼ばれた北海道のネイティブトラウト。写真:奥本 昌夫

それにしても大きい。汽水の自然は、ただ大きくなったアメマスとは、ひときわ異なる姿を作りだしていた。その姿は、頭部は小さく、口先は締まっていて細く、各部のヒレも決して大きくはない。パッと見は、二回りくらい小さなサイズ感なのだが、全体を見ると均整の取れた美しいほどの巨体。測ってみるとほぼ90㎝。サケの平均が70㎝台だから、これがどれほど異例なことかが分かる。

このようなモンスターとなったトラウトを、フライフィッシングで釣る。それなのだ、我々が追い求めているのは。

ただ大きい魚を釣りたい、あるいは、ただたくさんの魚が釣りたいわけではない。それだけが目的ならば、フライフィッシングにこだわり続ける人々を、世界中に生み出すことはなかっただろう。魚が生きる様に寄り添わなければ、フライフィッシングは成立しない。自然を愛せなければ、この釣りの深淵を覗き込むことはできない。フライフィッシングによる大物釣りはある種の信仰のようなものだ。自然崇拝であり、その畏敬の相手は水の中のどこかにいる。気配すら感じなかった日が続いても、いつかはその姿を見せてくれると信じている。

トゥクシ:汽水に棲む大アメマス

北海道東部を流れる大河川・十勝川。かつては蛇行していたが、広大で肥沃な十勝平野は隅々まで農地化開発が行われ、河川は直線化された。大きな堰堤の下流部に、かろうじてアメマスの生息する余地が残された。写真:奥本 昌夫

魚は極力水中から出さずに、写真を数枚撮り、流れへと戻す。一連をスムーズに行えばダメージは回復され、この水域で成長していくはずだ。トゥクシと呼ばれた時代の、伝説のようなモンスターへとなることも決して夢ではない。汽水の豊かな生態系がもたらす恩恵。その巨大な象徴がサケの大きさをも凌駕する野生のアメマス。この生態系は永遠に続かなければならない。

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