ひとつになって
全ての写真: Ryan Creary
ロスト・レイクのトレイルは、ウィスラーにやって来るマウンテンバイカーたちのお目当てではない。ウィスラーはブリティッシュ・コロンビア州のコースト山脈にたたずむ人口14,000のリゾートタウン。その近隣にあるウィスラー・マウンテンバイク・パークでは、幅の広い砂利道や曲がりくねったシングルトラックに、巨大なテーブルトップや高々とそびえるバーム、そしてサスペンションがボトムアウトするほどのドロップオフなどが散りばめられている。ここが世界で最も著名なバイクパークであることに疑いの余地はない。
だがサンディ・ワードが今日ここにいる理由はまさに、初心者トレイル(難易度システムで「グリーン」とされているトレイル)を走るためだ。7月のある木曜日の朝、地元の水遊びに人気の湖を囲むベイマツやベイスギの木陰のなか、サンディは子どもたちのグループを引率している。トラックが通れるほど広いトレイルでウォーミングアップをしたあと、細く曲がりくねったトレイルへと進み、そこで子どもたちにコーナリングのレッスンをする。5人の子どもたちは、彼女の言葉を一語も逃すまいと耳を傾ける。
サンディと同じように、彼らは皆リルワット・ネーションの部族民である。ロスト・レイクはリルワットとスコーミッシュ・ネーションの伝統的領土にある。サンディはできれば子どもたちの自宅から自転車で移動が可能な圏内、つまりウィスラーの32km北にあるペンバートン・バレーで教えたいという。その方がより多くの子どもたちがこのスポーツを体験し、少なめに数えたとしても、5,500年という長いあいだ祖先が歩いてきた場所とつながりをもつことができるからだ。「大地と人びとはひとつ」というのは、リルワット・ネーションの信条である。
残念ながら、ペンバートンは「マウンテンバイクをはじめるには最も難しい場所の類」でもあるとサンディは言う。「グリーンのトレイルがないんです。だからウィスラーまで来なきゃならなくて」
サンディはこうした子どもたちにこのスポーツを紹介することで変化をもたらしたいと考えている。短期的には、ペンバートンのトレイルを乗りこなせるようになってもらうこと。長期的には、このスポーツに対する愛を植えつけること。そうすることで、サンディはマウンテンバイクと先住民族の共同体の架け橋となり、トレイルやバイク、そして努力して得た信頼を通じて、この谷の団結を助けている。
サンディの母親は、幼少期に強制的に寄宿学校へと送られた。これは先住民族文化から隔離することで子どもたちをカナダの主流社会に「同化」させようと、政府によって義務的に設けられた寄宿学校制度である。1880年代から1997年まで公式につづけられたこの制度は、子どもたちを強制的に家族や共同体から引きはなし、彼らの言語を使うことを禁じた。そこでは虐待が横行し、その被害は長いあいだ消えることのない傷となって残った。寄宿学校を経験した人びとは、みずからを生存者と呼んでいる。
サンディはペンバートンのすぐ東にあるリルワット・ネーション居留地で育ったものの、リルエット語もリルワット文化についても学んだことはなく、友だちのほとんどはペンバートンとウィスラーの白人の子どもだった。だが18歳になるころ、先住民のティーンエイジャーにスノーボードを教えるプログラム〈ファースト・ネーションズ・スノーボード・チーム〉に招待され、参加した。
ここでの経験はサンディの人生を変えるきっかけとなった。彼女はやがてウィスラー・ブラッコムでスノーボードのインストラクターとなり、ロッククライミングやスプリットボードもはじめるようになった。リルワットの伝統的領土でシール登高やハイキングをしていると、それまで感じたことのなかった土地とのつながりを感じたという。けれども実際にリルエット語とリルワット文化を学びはじめたのは、長期にわたる国外での旅から戻った2018年のことだった。
「どこへ行っても、その土地の先住民族文化や歴史を学ぼうとしました」とサンディ。「1年半の旅生活からペンバートンに戻り、最後の丘を越えて谷が視界に入ったとき、胸騒ぎがしたんです。『私はどうして自分の文化をよく知らないのかしら?』って」
彼女は手を休ませながら、僕にこの話を語っている。ペンバートンのすぐ南を走るこのトレイル「ランピーズ・エピック」の半分あたりまで、僕たちはブレーキをかけっぱなしで乗りつづけていたからだ。ランピーズはペンバートンの代表的なトレイルで、リボンのように曲がりくねったダートに、花崗岩のみごとなロックフェースや適度な木の根にこぶし大の石、たまのバームが次々と現れる。ロックフェースを掴むか剥がれるかの瀬戸際のタイヤの音や、サスペンションが動く音が僕の耳を支配する。
とくに傾斜のきついセクションを走り抜けて、グリーン・リバーを見渡すことのできる高台で休憩する。マウント・カリーとしても知られるズィルの北壁が一面にそびえ立ち、太陽に照らされた山頂があらゆる方角へと裾野を広げているのが見える。だが、サンディの目に映るのはそれだけではない。
「あの山々には」と彼女は言い、その山間にある谷を指差す。「クタームチ(夫)、シシュカ(伯父)、シャクチャ(従姉妹)、シェマーム(妻)というように、家族を構成するリルワットの名前がついているの。どうしてなんでしょうね。私の祖先にとってこの地域は何を意味していたのかしら。彼らはこの土地をどう使っていたのかしら。トレイルにいると、こんなふうにいろいろと考えさせられるんです」
翌日、サンディは小さなグループをマウント・マッケンジーへと導いた。トレイルヘッドの駐車場から砂利道を進み、「シュクウェンクウィン」と呼ばれる上りのトレイルへと入る。シュクウェンクウィンはリルワットの言葉で野生のジャガイモを意味する。この地域で伝統的に収穫されてきた重要な食物である。シュクウェンクウィンはこの谷ではじめてリルワットの正式な祝福を受けて造られたトレイルだ。
このトレイルの開設儀式が行われたのは、サンディがはじめてマウンテンバイクを手に入れた2018年。スノーボード教室の生徒でもあったオーストラリア人の友人が帰国する際、彼女の上等なマウンテンバイクを置いていってくれたそうだ。「あれは最高のチップでした」とサンディは言う。
サンディはマウンテンバイクの経験はなかったものの、その贈り物を受け取ったことでウィスラー・マウンテンバイク・パークのパスを購入した。そして〈ペンバートン・オフロード・サイクリング・アソシエーション(PORCA)〉が主催する女性イベントに参加し、友好的かつ支援的な女性メンバーたちとともに彼女の祖先の領土であった土地を走った。
しかしスノーボードやロッククライミング、そしていまやマウンテンバイクを学ぶにあたり、サンディが出会った女性のインストラクターやガイドはごくわずかだった。そのなかに先住民族の女性はもちろんいない。彼女は地元にいても自分が場違いな場所にいると感じることがあった。リルワットの共同体のなかには、彼女が「白人のスポーツ」をしていると口にする人もいたからだ。
2020年に〈インディジネス・ウィメン・アウトドアズ(IWO)〉というアウトドア団体に参加すると、自分が属する場所を見つけたというサンディの感覚は高まった。近隣のスコーミッシュ・ネーションのマヤ・アントンによって2017年に創立されたこの団体は、先住民族の女性のためにハイキングやバックカントリースキーやマウンテンバイクなどのアウトドアアクティビティを企画し、そのすべてが先住民族の女性によって先導されている。
「これらのスポーツに新しい人びとを招くというよりも、先住民族の女性たちがそのスポーツのリーダー的存在となれるよう支援することが目的です」とサンディは説明する。
彼女はまずIWOのバックカントリースキーやスノーボードのプログラム開設に助力し、周辺の山々へとイベントを引率しはじめた。それからバイクの技術が上達するにつれて、IWOのマウンテンバイクのプログラムも担当するようになった。
「IWOのイベントに参加したときにはじめて、アウトドアコミュニティとのつながりを感じることができました」と話すのは、スコーミッシュ領内に住むイエローナイフ・ディネ・ファースト・ネーションのミシェル・ロボ。「参加した他の女性たちと、過去の痛みを共有できたんです。彼女たちは皆、私の生い立ちをわかってくれました」
ミシェルいわく、最大の違いは態度だそうだ。トリックの成功を意味するストンプや全力疾走を意味するクラッシュ、リップ、シュレッド、チャージなどの専門用語を勢いよく並べ立てられると、初心者は敷居が高く感じることがある。そしてトラウマがある人にとっては、それが本人のものであろうと両親や祖父母から引き継がれたものであろうと、そのような攻撃的な言葉使いは辛い経験を思い出させることもある。
サンディはそうした文化で育ったわけではないが、心に傷を負った人を見てきたし、優しいアプローチが最善であることも知っている。僕はマッケンジーでそれを目にした。シュクウェンクウィンのトレイルを登り終え、「ラジオ・タワー」というトレイルへと下りはじめるところだった。グループの他のメンバーは起伏する10mほどの花崗岩をスムーズに下っていったが、シャイラ・ウォレスはそこで固まっていた。
リルワット・ネーションの一員であるシャイラは、ペンバートンで開催されたサンディのIWOバイクキャンプに参加した昨年、マウンテンバイクをはじめたばかりだった。「あのころの私は悪戦苦闘していました」と、シャイラはペダルを漕ぎながら僕に話してくれた。「とても辛い時期でした」
ずっとマウンテンバイクをやってみたかったし、もっと祖先の土地で過ごしてみたかったけれど、シャイラにはバイクを買う余裕はなかった。サンディは彼女がキャンプに参加できるようレンタルバイクを手配し、のちには古いバイクを譲ってコーチをつづけた。ライディングを重ねたシャイラは精神的にも安定していき、アート活動にもふたたび取り組みはじめることができるようになったという。「マウンテンバイクのおかげで頭のなかがすっきりして、余裕ができたんだと思います」と彼女は振りかえる。
「シャイラには道を踏み外す可能性もありました」と、サンディはあとになって話してくれた。「マウンテンバイクのおかげで、彼女は人生を取り戻したんです」
他のメンバーがラジオ・タワーの花崗岩を下ると、サンディは急いで戻ってきて、シャイラに優しく手ほどきをした。応援はするけれども、無理に背中を押したりはしない。シャイラが下まで降りきると、歓喜しているのはどっちだかわからないほどだった。
このような瞬間は、サンディが子どものためのマウンテンバイクのプログラムをはじめるひらめきになったという。彼女はファースト・ネーションズ・スノーボード・チームから改名した〈インディジネス・ライフ・スポーツ・アカデミー(ILSA)〉の協力を得て、2021年と2022年に子どものためのマウンテンバイクキャンプを企画した。2023年の夏も開催できることを願っている。地元のバイクショップがレンタルバイクを寄付として提供してくれることとなり、コーチへの給与は助成金で賄う。あとはウィスラーまで子どもたちを送る交通手段を見つけなくてはならないが、真夏の平日の朝にはそれが難しい。「何としてもシャトルバスが必要なんですけど」とサンディはため息をつく。
サンディはペンバートン・バレーにもグリーン級のトレイルを造ることを支持している。それはリルワット・ネーションが目標として掲げている、より多くの部族民たちが大地を訪れ体を動かす、ということにもつながるからだ。しかしマウンテンバイカーでない人にとって、トレイルマップはぐちゃぐちゃの落書きにしか見えない。リルワット領内を縦横上下にめぐる、160kmを超える150本以上の落書きである。そしてそのほとんどは中級か上級とランクづけされている。
「彼らにはなぜこれ以上トレイルが必要なのかがわからないのです」とサンディは言う。けれどもマウンテンバイクを楽しむリルワットの子どもたちの数が増えれば、初心者トレイルの必要性に両親や叔父叔母も賛成するようになるだろう。先住民族の学校では、すでに文化遺産の土地へのハイキングを子どもたちに奨励している。
「ハイキングもバイキングもそんなに違いはありません」とサンディは主張する。「どちらも、新鮮な空気を吸って、体を動かして、大地を満喫し、自分たちの文化とつながることに意義があります。だからハイクでもバイクでも関係ないはずです」
情熱を共有することで相互理解は深まるものだから、より多くのリルワットがトレイルを愛するようになれば、近年ペンバートン・バレーで暮らしはじめた住民たちとの共通点を見つけることができるだろう。その変化はすでに起きている。リルワット・ネーション、PORCA、スコーミッシュ・リルエット地域、ビレッジ・オブ・ペンバートン、そして〈ペンバートン・バレー・トレイル・アソシエーション(PVTA)〉が共同で、2020年のペンバートン・バレーのレクリエーション用トレイル基本計画を打ち出し、ネーションとPVTAはリルエット語を使ってトレイルを改名している。
「クリーム・パフ」というトレイルにまつわるストーリーはこの変化の好例だろう。マウンテンバイカーたちは数十年かけてペンバートンにトレイルを造ってきたが、シュクウェンクウィンができるまでは、誰も地方政府やリルワットに許可を得ることなどはしなかった。リルワットは歴史上一度も領土を譲渡したり条約に調印したことはない。そこは法的にはリルワットの土地であり、どのような開発に関しても彼らの同意が必要だ。
あるとき、1人のバイカーがそのクリーム・パフと呼ばれるトレイルに生えていた苔を剥がしたところ、出産する女性の姿が彫られた岩が発見された。
その岩はリルワットには「バーシング・ロック(出産の岩)」と知られ、現在は「アッフルムフ(聖なる場所)」と呼ばれている、と語るのはマウンテンバイカーでありリルワット・ネーションの土地資源コーディネーターであるロクサンヌ・ジョー。口述歴史によれば、かつて女性はマウント・マッケンジーをその絵が刻まれた岩まで歩き、そこで出産したと伝えられている。この偶然の発見は、2つのコミュニティの摩擦の原因ともなった。ネーションのなかにはトレイルの閉鎖を望む人もいたが、これを好機ととらえたのはロクサンヌだった。
「もしマウンテンバイカーがいなかったら、この場所を知ることはなかったでしょう」と彼女は言う。「私たちの文化遺産に対する意識がマウンテンバイカーのあいだで高まってくれれば、私たちの文化そのものに対しても敬意を払ってくれるのではないでしょうか」
結果、トレイルはバーシング・ロックを迂回させ、PORCAとPVTAによって周囲にフェンスが施されたことでトレイル閉鎖の要望の声は消えたが、依然としてしこりは残った。サンディはマウンテンバイクをはじめてから、リルワットのなかにはバイカーに対して好意的ではない人もいるということに気がついた。とくにPORCAがトレイル整備のイベントを企画して、ネーションを招待しなかったりしたときなどだ。
「サンディは、マウンテンバイカーとネーションの架け橋になってくれました」と、PORCAの事務局長を務めるブリー・ソーラクソンは言う。
サンディとブリーは一緒になって、PORCAがどのようにリルワットと包括的な関係をもち、敬意を払うべきかを考え、ネーションをイベントに招待したり、資金集めのイベントを共同で行ったりしている。PORCAはすでに州政府にトレイルの許可を遡及申請していたので、ネーションにも許可をもらうためにリルワットと活動をはじめたのだった。
これまでのところ、州とネーション両方の許可を得たトレイルはひと握りしかなく、やるべきことはまだまだある。例を挙げれば、2022年春にPORCAがクリーム・パフを含むエリアでバイクレースを企画したが、多くのバイカーたちがバーシング・ロックの脇を通り抜けることに対して、ネーションからは憤慨の声が上がった。
「アッフルムフにさらに多くの人が訪れるようになれば、損害が加えられたり軽視される可能性が高まります」とロクサンヌは言う。「そしてペンバートンの人口が増えるにつれて、地元の人びとは保守的になりがちです」
PORCAはすぐにレースのルートを変更したが、トレイル閉鎖の声は再燃した。その緊張が少し和らいだのは、のちにネーションがマウンテンバイクのコミュニティを支援するという声明を出したときだった。
「これには重要な意義があります」とブリー。「彼らとの信頼関係が少しでも築けたという証しだからです」
別の実例として挙げられるのは、マッケンジーのトレイルヘッドのすぐ南にできたペンバートン・バイク・スキルズ・パーク。これは地元政府とPORCAの提携によって実現し、僕がこの町に滞在する最終日にオープンを迎える。リルワットの太鼓によってその場所は清められ、リルワットとペンバートンの議員がテープカットの前に演説を行い、ジャンプエリアやパンプトラックやスキルパークは、さまざまな祖先をもった市民たちでいっぱいだ。その誰もが笑顔で、同じ場所を楽しんでいる。
僕がペンバートン・バレーを去る前、サンディが最後のライドに連れていってくれた。スコットランド人、フランス人、カナダ人2人、そしてリルワット・ネーションの女性2人と、サンディのILSAプログラムに参加したティーンエイジャー2人が一緒だった。じつに多様な面々から成るこのグループは、息を荒くしてトレイルを押し進み、クリーム・パフへの分岐点を通り過ぎる。まだ微妙な問題のため、このトレイルは避けることにしたのだ。そして絶景がボーナスとして待つ、ジェットコースターのようにロックフェースがつづくトレイルの1つ、「ザ・シックネス」の頂点を目指した。僕たちは順番を譲り合い、お尻をずらすほどの急斜面を無事に下っては、互いに喝采を送った。
このトレイルの途中に、リルワット・ネーションとバーケンヘッド・リバーをまっすぐ見下ろせる場所がある。サーモンが遡上するこの重要な川は氷河に覆われた山へとつづいている。リルワットの領土のど真ん中だ。
「バイクが連れていってくれる場所が大好きです」とサンディ。彼女はこの景色のことを言っているのだろう。だが、いま僕の目に映るのはそれだけではない。