輪島、海女たちの再起
すべての写真:五十嵐 一晴
2024年元日に発生した大きな地震と、同年9月に起きた豪雨は、能登半島に甚大な被害をもたらした。地震は海底地形の変化や大量の土砂流入を引き起こし、石川県最大の水揚げ高を誇った輪島港は、施設や設備が損壊してしまう。地盤が一メートル半も隆起して、船が出せなくなった。陸上では道路が寸断され、市場や加工施設にも被害が及び、漁業も市民の暮らしも大打撃を受けた。輪島の道路を走ると、いまだにあちこちで崩落した斜面を目にする。凸凹が生じた路面はまるでスピードバンプのようだ。現在、港は復旧工事の真っ最中にあるが、復興は着実に進んでいる。震災によって長く中断していた巻き網漁や刺し網漁など、多くの漁も再開されている。輪島の海女たちも、再び海に潜り始めている。
海と里山が近接する石川県能登半島では、古くからその環境を生かした半農半漁の暮らしが営まれてきた。山の落ち葉や栄養分は川を通じて海へ流れ込み、豊かな漁場を育てる。一方、海の恵みはそれを捕食する動物や人々の営みを介して再び土へ還る。山を手入れすることで海が豊かになり、海を守ればその恵みはまた山へと戻ってくる。山と海が互いに支えあう「里山里海」と呼ばれる価値観が育まれている。その循環を支えているのが、海女たちなのだ。現在、輪島市では輪島港を拠点に170人ほどの海女が活動している。乱獲を防ぐために独自のルールを作り、海の変化を見守りながら、豊かな環境を次世代へ受け継ごうと模索している。
輪島崎地区の漁場、城兼の眼前にある崩落した斜面。大量の土砂が海に流入した。
厚手のウェットスーツに数kgの鉛のオモリをつけ、海藻や貝類を入れるタライをつないで海へと潜る。
輪島崎での漁の風景。傍らのカゴは、みるみるワカメでいっぱいになった。
輪島港の船だまりで出港準備をしていた松下直子さんは、輪島崎地区に暮らすベテラン海女だ。
「うちは祖母も母も海女だったから、物心ついた時から家族と一緒に海に出て、浮き輪につかまって遊んでいました。そのうち、家族に倣って潜るようになり、夏休みを利用して海女のアルバイトを始め、海藻やサザエを採ってお小遣いを稼いでいました」
海女の収入が高かった昭和の時代は、義務教育を終えてそのまま海女になる女性が多かった。
「私たちの親世代の海女漁は地域経済を潤す主力産業でしたから、家族には中学卒業後、海女になることを勧められました。親に内緒で高校を受験して、『やっぱり進学する』って言ったらめちゃくちゃ怒られました(笑)」
高校を卒業後、一度は会社勤めをしてみるものの、肌に合わず、本格的に海女の道へ進む。その後、隣町に嫁ぐと、義理の母も祖母も海女だった。
「輪島では、居住地ごとに漁場が割り当てられています。私たちが漁場とするのは、輪島崎地区という輪島港に近いエリア。震災前は、春にはワカメ、6月はツルモ、7月はモズク、8月からはサザエとアワビ、11月からはナマコとカジメ。細かく場所を変えながら、四季折々の海産物を採っていました」
だが、震災によってこの漁場は大きく姿を変えてしまう。流れ込んだ土砂によって海が茶色く濁り、震災直後の浜にはサザエやアワビの死骸が大量に散らばって、惨憺たるありさまだったという。
「震災後、一年半ぶりに海に潜ったら海底の地形がまっ たく変わっていました。環境が激変したことでサザエもアワビも海藻も生息数が大きく減少してしまったんです。今では春にクロモとサザエを少し、あとは7月にモズクを採るくらい」
松下さんによれば、サザエの漁場は四分の一程度に減ってしまったという。水揚げ高も収入も激減し、陸での仕事を掛け持ちしながら海女を続けている。
能登半島の沖合には、輪島港から48キロ先にある舳倉島や、その途中にある七ツ島、嫁礁といった離島が点在する。その一帯は海士町地区の海女たちの漁場だ。
海士町の漁師一家に生まれ、中学卒業後そのまま海女になった笹原麻紀さんは、祖母、伯母、姉とともに船で離島に通い、漁を行ってきた。
「海士町の海女は7~9月の漁期になると、片道2時間かけて舳倉島に通って漁をします。漁場ごとに漁法が違うのですが、私たちは、一艘の船に一人の船頭と複数の海女が乗り合わせる『ノリアイ』という方法で目的の漁場へ移動します。親戚同士で一艘の船に乗り込むことが多いですね。海中では海女同士でペアを組み、交互に漁を行います」
現在、海士町には20代から80代までの140人ほどの海女が暮らしている。海女になることができるのは、この町に生まれたか、あるいは嫁いできた者だけ。海女の技術は密なコミュニティのなかで、口伝と実践を交えて継承されてきた。
「新人海女は独り立ちするまでの3~5年、教育係のベテラン海女とペアになります。新人はベテランが潜る様子を見て、地形や潮の流れ、どういう場所にアワビがいるのか、勘や目を養うんです。ノリアイの場合、採取したものは船ごとに合算して頭数で均等割りするから、新人とはいえ責任重大。先輩たちも厳しく仕込みます」
同じく海士町に暮らす門木奈津希さんは、「実際、海中では獲物を巡る海女同士の小競り合いも少なくないんですよ。海女はみんな気が強いから」と笑った。
門木さんの出身地は、海女たちの漁場である舳倉島だ。周囲5キロほどの小島で行われる海女漁の様子は、万葉集にも詠まれている。つまりは、平安時代から海女・海人たちが、舳倉島を拠点にアワビ漁を行っていた。門木さんは、いわば、平安時代から続く海女文化の後継者だ。幼い頃から海に潜って遊び、中学生時代には母親から漁を教えてもらったという。荒れる日本海では今でも酔い止めが手放せないが、水深20メートルの海底にまで潜って、アワビを採ることができる熟達者。海に育てられ、海と共に生きてきた。
「技量に優れた長老格の海女を、私たちは尊敬の念を込めて〝大海女〟と呼びますが、陸に上がると『足が痛い、腰が痛い』と嘆いているのに、海の中では誰よりもいきいきと漁をしている。大海女たちのしゃきっとした姿を間近に見ると、海女と海は切っても切り離せない関係にあるって実感します」
そんな海女たちにとって、震災後の休漁期間はなによりも心身に堪えるものだった。金沢へ出稼ぎに行ったり、土木建設業を掛け持ちしたり、なんとか暮らしをつないでいたという。再開の目処が立たない中、それでも彼女たちが廃業を選択しなかったのは、いつかまた海に戻るという強い意志があったから。
輪島崎地区のクロモ。強い粘りが特徴の海藻で、「海の納豆」とも呼ばれる。以前は地元産の海藻をリヤカーに積んで売り歩く行商の女性たちがいたが、高齢化と震災の影響でそうした姿も見られなくなった。
輪島崎地区で採れたサザエは箱詰めされ、「海女採りさざえ」として金沢の市場に出荷される。残念ながら地元ではなかなかお目にかかれない。
長く受け継がれてきた輪島の海女漁を取り巻く環境は厳しさを増している。2010年代からは、温暖化に伴う海水温の上昇によって磯焼けや魚種の変化が引き起こされ、漁獲高の減少が問題視されるようになっていた。伝統的な食習慣の変化もある。その中で発生した震災と豪雨は、海女文化をより厳しい状況へと追い込んでいる。
漁の再開に先駆けて、国の復興支援事業による海女たちの海底調査が始まった。藻場の掃除や流木の撤去、アワビが食べるカジメやワカメの育成実験、藻場の回復のための作業も行われている。カジメの天敵で、食用に適さないウニを駆除して肥料化する試験もスタートした。海女たちはさまざまな試みに挑んでいるが、震災前の状態にはほど遠い。苦境が長引けば海女漁はさらに縮小し、受け継がれてきた技術が途絶える可能性もある。それでも、輪島の海女たちは海に潜り続ける。それは、海が再生する力を信じているからだ。
「震災明けの海に入って実感したんです。やっぱり海に潜ることが好きなんだって」
門木さんはそう言った。
自然の厳しさを知り尽くしているからこそ、どんな変化が訪れても受け止め、乗り越えていく。そのしなやかさこそが、海女たちに受け継がれてきた強さなのかもしれない。
輪島の海女漁保存振興会
輪島に受け継がれる海女漁の振興と海女文化の保存を目指し、稚貝の放流や漁場の保全といった資源保護活動、獲ってきた海産物のブランド化、県内外への情報発信に取り組む。震災後には専門家と協力しながら海中調査を実施しており、漁場再生の取り組みを進めている。