生活の中にクジラがいる
すべての写真:篠宮 龍三
2006年2月、沖縄久米島沖で初めてザトウクジラの親子に出会った。この日のことは一生忘れないだろう。水中で見る彼らの姿は本当に神々しかった。12mほどになる母クジラの威厳と慈愛、そして4mほどのまだ生まれたばかりの子クジラは愛らしさに満ちていた。子クジラはおそらく初めて見る人間たちに興味津々で、我々に近づきたくて仕方がない様子。母クジラはそれを制止する。まるで人間の親子のようなやり取りだと思った。子クジラの無邪気な姿をもっと間近で見たくて近づいたその時、母クジラの射るような鋭い視線を感じて退却した。まさに肝を冷やす経験だった。有無を言わさぬ圧倒的な威圧感にたじろいだ。
冬の沖縄で素潜りをしていると海底にザトウクジラのソングが響いてくる。1月から3月にかけてアラスカなどの極地から沖縄へ出産や子育て、繁殖行動のために彼らは回遊してくる。ホームとしている沖縄の真栄田岬沖合で水深80mへのトレーニングダイブを行っていると、どこからともなく美しい歌声が聞こえてくることがあった。肺や胃など、体内のあらゆる空間がそのソングに共鳴する。全身の細胞を震わすような大音量だ。なんとも切なく郷愁を誘う旋律。深い海で目を閉じてソングを聞いていると自分が海にいるのか、はたまた宇宙にいるのかわからなくなる。不思議な浮遊感と孤絶感を同時に味わう。毎年、彼らのソングは変化する。シーズンの終わりになるとその地域でもっとも流行っている歌をクジラたちは揃って歌うようになる。彼らは独自の文化を持っていると言えよう。そんな彼らのソングに導かれて、水中撮影を行うようになった。
1976年に人類初の100mダイブを成功させたジャック・マイヨール。フリーダイビングの神様と呼ばれる彼が、競技を引退した後に追い求めたのは、世界中のイルカやクジラたちとの交流だった。彼は「イルカやクジラたちは人間の従兄弟兄弟だ」と語っていた。哺乳類として肺呼吸をし、深海まで潜って狩りを行う。大海を泳いで地球を旅する。まさに我々フリーダイバーの大先輩のような存在だ、と。ジャックは「イルカ、クジラたちの住む海を大切にしよう」とメッセージを発信していた。
昨年、ジャックの息子のジャン・ジャック・マイヨールに数年ぶりに会った。昨今の過熱するホエールスイムについて彼は危惧していた。
「クジラに無理やり至近距離でエントリーするのではなく、遠くからエントリーしてこちらへ泳いでくるのを待つスタイルが好ましい。たとえその日にクジラが出なくてもいいじゃないか。もっと海そのものを味わうべきなんだ」と話してくれた。まるで父ジャックのような言葉だと思った。見られた、見られなかった、という結果ばかりではなく、海や自然そのものを広い気持ちで味わうことが大切だと改めて思った。
私はこの20年ほど、遠くの海へ旅をしてきた。トンガ、南アフリカ、スリランカ、ハワイ……。しかし、近年は沖縄や奄美など近くの海にいるクジラたちを主に撮っている。水中で彼らを間近に見る経験は、何度重ねても言葉にならないほどの感動がある。そして、いい写真を撮ることができた時の達成感もとても大きい。ただ最近はたとえ水中で姿が見られなくても、水中マイクを通してソングを聴いたり、ブローを陸から発見したりすることにも大きな喜びを感じている。「呼吸」を通して同じ空気で彼らと繋がっている。目で見て、撮ることだけではなく、彼らの存在を五感で感じることに喜びを感じる。愛着があるからこそ近づき過ぎず、遠くから存在を愛でることも大事ではないかと思うのだ。
非日常を味わえる「旅と素潜り」は、ずっと心踊る活動だった。それはこれからも変わらない。しかし、もうそれほど遠くの海までクジラを撮影しに行かなくてもいいかな、とも思っている。ホームの海に毎年帰ってくるザトウクジラたちを観察し、彼らへのインパクトをできるだけ抑えた形で楽しむことを考える。海辺を歩きながらふと沖に目をやった時に、クジラのブローをたまたま見つけることもある。生活の中にクジラがいる。ともに暮らしている感覚になる。また、この季節は散歩をするようにフリーダイビングをする。ビーチエントリーではクジラとの出会いは望めないが、ソングを水中で聴くために素潜りするのも楽しいひとときだ。タンクを使用しないフリーダイビングでは吸気と排気の泡の音で、水中の音がかき消されることはない。ただ心臓の音とクジラのソングが水中に響いている。ソングはフリーダイバーにとって潜水中の最高のBGMであり、クジラからのありがたい贈り物だと思う。
これからの20年は「生活と素潜り」がもうひとつのテーマになるだろう。「目の前の海でどれだけ楽しめるか」。日々の暮らしの中で身近な海にもよりたくさん潜っていきたいと思う。
『Oceans Journal 2026』より転載
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