5000年の息子たち
カヤックで一人、海を旅することは、すべてを自分で判断し、衣食住、移動を自己完結することだ。どこにバウ(船首)を向けるか決め、意志を定めて漕ぎ出したら、漕ぎ切るしかない。海は不確定要素だらけで、常に判断をもとめられる。海を知り、自分を信じ、海の一部となる。カヤックで旅するとは、そういうことだ。これはカヤックガイドを目指し、フリーランスとして生きていこうとする息子に伝えた僕からのメッセージでもある。
泰志と二人で初めて旅をしたのは、彼が12歳、小学校6年の時だった。カナダBC州のハイダグワイ(旧クイーンシャーロット島)を僕らは二人乗りのカヤックで20日間、キャンプしながら旅をしている。僕がこの海をカヤックで漕ぎたいと思ったきっかけは、写真家・星野道夫さんが撮った一枚の写真だった。その写真には、ハイダグワイの潮間帯(潮の満ち引きにより露出と水没を繰り返す場所)に海藻やイソギンチャク、ヒトデなどの生命が信じられないほどに満ち溢れていた。その豊穣な海をいつかカヤックで旅しよう、そう決めていた。子育てもひと段落した頃、ハイダグワイの地図を見ながら旅の計画を立てていた時だった。隣で地図を覗き込んでくる泰志に「お前も行くか?」と半分冗談で聞くと「行く」と即答してきた。一人で旅をするつもりだったのに、後から撤回もできず、連れて行くことになってしまった。
2013年、泰志12歳の夏。カナダBC州にあるハイダグワイを二人乗りカヤックで旅した。写真:大瀬 志郎
2013年、泰志12歳の夏。カナダBC州にあるハイダグワイを二人乗りカヤックで旅した。
2013年、泰志12歳の夏。カナダBC州にあるハイダグワイを二人乗りカヤックで旅した。
2013年、泰志12歳の夏。カナダBC州にあるハイダグワイを二人乗りカヤックで旅した。
ハイダグワイは、ほぼ南東アラスカの気候帯に属する島で、15,000年前からつい200年ほど前までハイダ族の人々が太古の姿のまま住んでいた場所だ。今はグワイ ハナアス国立公園となり、ファーストネーションであるハイダ族の末裔たちが誇りを持って島を管理している。
カヤックはフォールディング(折り畳み式)カヤックの二人乗り。〈フェザークラフト〉社のクロンダイクというモデルを使用した。〈フェザークラフト〉社はバンクーバーにあり、ファウンダーのダグラス・シンプソンは僕のカヤックの師匠でもある。今回の旅の前にもバンクーバーに立ち寄り、準備をフォローしてもらい、泰志は慣れない海外生活のスタートを気分よく切ることができた。ダグも息子のエバンが泰志と同じ年くらいの頃にハイダグワイに連れて行っている。「絶対に楽しい旅になるよ。でもちょっと苦労もするかもね」とダグは言った。出発前は、その苦労の意味がよくわからなかった。
2013年7月、僕たち親子二人はハイダグワイのサンドスピット空港に降り立った。北の大地特有の抜けるように青く広い空。日差しは強いが、7月だというのに風は肌に冷たく、カラッとした風に海の匂いと緑の匂いが入り混じっている。ハイダグワイの南島、モレズビー島の東海岸をONE WAYで20日間かけて南下する。この先に街はなく、あるのはわずかな文明だけだ。幼い頃から漕いでいるとはいえ、泰志はフル積載のカヤックの漕ぎ手としては頼りなく、海が凪いでいる時しか漕ぐことができなかった。潮汐の干満の差が5メートルあるこの地では、潮流も速く、僕ら二人のパドリングでは必ず追い潮を利用した時間帯にしか前に進めない。潮を利用しても向かい風が吹くと前に進まなくなる時もあった。少しでも海が荒れると泰志はよく船酔いになった。漕ぎながら吐いて、そのままカヤックの上で気絶したように寝てしまう。浜についても、ぐったりしてカヤックから降りずに寝続けている。「こんな場所に本当に連れてきてよかったのだろうか」と何度も弱気になったが、泰志が起きあがって「もう大丈夫」とニコッと笑う笑顔を見るとそんな不安は一気に吹き飛んだ。
旅が進むにつれて、泰志に対して実感したことがあった。それは「父親として息子をよくわかっていなかった」ということだった。日本でも子どもの面倒は見ていたが、母親と違い24時間見続けてはいない。大自然の中で息子と一緒に過ごすうちに、今までの生活では気づかなかった息子の姿を知ることになり、自分と息子との距離感を認識することができた。そして次第に親と子としてだけでなく、一人の男として、旅のパートナーとして付き合うようになっていった。
野外で生きるために、僕たちはよく働いた。海の上では力を合わせてカヤックを漕ぎ、上陸したらまずはタープとテントを張り、薪を集め、火を熾す。リビングルームとなるタープさえしっかり張ってしまえば、どんなにワイルドな場所でもそこは僕らにとって「我が家」となり、嵐の中でも快適に過ごせた。食事は全て焚き火で調理する。主食は米を炊いた。日本から、妻が用意してくれた米、味噌、煮干し、乾燥野菜や高野豆腐等の乾物を持参した。水は川から汲むか雨水を溜めた。街から持ってきたベーコン等のタンパク質は1週間ほどでなくなったが、ハイダの海に慣れてきた僕らは、徐々に海から幸を得られるようになった。仕掛けた網でカサゴやアイナメのようなロックフィッシュやダンジネスクラブ、甘エビのようなエビがたくさん獲れた。泰志は常に岩をひっくり返して、岩の下に潜むカニやギンポを捕えていた。拳2個分くらいの大きさのウニがゴロゴロ海の中に転がっている。アオサを拾って乾かして味噌汁に入れ、足りなくなった塩は海水を煮詰めて作った。よだれが出そうな二枚貝もたくさん獲れ、熾火で焼いて醤油をかけてみたら、あまりにも香ばしい香りに耐えきれずに食べそうになったが、「7月の貝は貝毒を持っているから食べてはダメだ」と泰志に止められた。たまに出会う心優しきハイダのローカル達からもキングサーモンやリンコッドの切り身をもらったりした。そうやって僕たちはハイダの海や人から恵みを得ることで大自然の中で豊かな旅を続けることができた。
旅も中盤にさしかかったある朝のこと。タヌーという場所の近くの島で朝起きて、コーヒーを飲みながら海を眺めていた。すると目の前、10mちょっとのところでいきなり水面が盛り上がり、「ブシューッ」とブローが起こった。ミンククジラだった。慌ててテントで寝ている泰志を起こした。クジラは目の前の海を行ったり来たりして食事をしているようだった。何度もブローを繰り返し、そのうちに沖の方へ消えて行ってしまった。見えなくなった後も二人でぼっーと海を眺め続けていた。このクジラの泳ぐ豊穣な海をカヤックで旅しているんだと思うだけで、なぜか嬉しさが込み上げてきた。
本物の自然は静かな水面のようなものだ。繊細なものを映し出し、小さな水滴の波紋でも美しく見せる。文明から引きずってきたノイズが頭の中から消え、大自然と同調し始める。その感覚を得るために、僕らはカヤックで大自然を旅するのだ。
旅から日本に帰った泰志は小学校の卒業文集に「僕はカヤック屋になる」と書き記すも、中学に入学後、きっちり反抗期に突入し、中高六年間は、ほとんど口を聞くこともなかった。それでも高校卒業後には、カヤック修行のためにカナダへと渡ることを選んだ。
カナダへと渡る前に、カヤックキャンプのスキルを身につけるため3泊4日で瀬戸内海を旅した。カヤックの旅に必要な食事のメニューの組み立て、パッキング(カヤックへの積み込み)、潮流の読み方、海図の読み方、コンパスの使い方、キャンプに適したビーチや地形の選び方、流木を使った焚き火での調理方法、タープの張り方、テントを使わない野宿のノウハウ、陸上での折り畳んだカヤックの運搬、旅人としてのローカルとの接し方…。必要最低限の旅のスキルを伝える旅だった。
その後に単身でカナダに渡った泰志は、3年間バンクーバーアイランドでシーカヤッキング・コミュニティに揉まれながら修行をした。BC州沿岸をトータル一800kmほどソロでツーリングし、実力をつけた。
2024年。頼もしいパートナーとなった泰志23歳の夏。バンクーバーアイランド北西部への旅。写真:大瀬 志郎
2024年。頼もしいパートナーとなった泰志23歳の夏。バンクーバーアイランド北西部への旅。写真:大瀬 志郎
2024年。頼もしいパートナーとなった泰志23歳の夏。バンクーバーアイランド北西部への旅。写真:大瀬 志郎
2024年、頼もしいパートナーとなった泰志23歳の夏。バンクーバーアイランド北西部への旅。写真:大瀬 志郎
2024年。頼もしいパートナーとなった泰志23歳の夏。バンクーバーアイランド北西部への旅。写真:大瀬 志郎
2024年の夏、僕と泰志でバンクーバーアイランドの北西部の無人エリア400kmを32日かけて漕ぐ旅に出た。ハイダの旅から丸10年経った若者は、二人乗りではなく、一人乗りのカヤックに乗り、強い海流、潮流が流れる外洋の荒波を僕と対等に漕ぐことができた。カナダの人と海、自然は泰志を一回り大きく育ててくれたことを実感した。
「我々は、カヤック5000年の歴史の生徒にすぎない」
これは我が師、ダグの口癖だが、僕もカヤックは人類が5000年かけて培ってきた結晶のようなものだと思う。これからも、この小さくも大きな乗り物で海に出ることを楽しみながら、海や自然との付き合い方を模索し、カヤックという素晴らしい乗り物をより多くの人に伝えていきたいと思っている。25歳となった泰志は奥琵琶湖に拠点を置き、僕と一緒にカヤックガイドの仕事をしながら、日本とカナダを行き来している。