日常生活という抗議のかたち
病気やケガをした子どもを癒すため、森の奥へ踏み入り、自然の薬を採集することが、抗議の1つのかたちになると思うだろうか。連邦裁判所で祖先の歌を歌うことが抵抗の行為であると思うだろうか。あるいは、単に母語を話すことについてはどうだろう。
エクアドル東部、ワオラニ先住民族の先祖伝来の土地は、脅威に晒されつづけている。事実、私たちの肉体的・精神的な存在そのものは、数世紀にわたって脅かされてきた。それでも私たちは、まだここにいる。
ここにいるのは、森がまだ健全だからだ。森を守ってきたのは、生命を授けてくれるからだ。私たちの民族は、薬草の知識、菜園のつくり方、動物の見つけ方、森の敬い方を、若い世代に伝えてきた。
ここにいるのは、自分たちの領地を守ってきたからだ。最初は桃ヤシの槍で、今では訴訟と大衆動員によって。
ここにいるのは、こうした暮らし方を、時代遅れ、野蛮、未開と呼ぶ部外者の言葉を受け入れないからだ。森の暮らしが安全で、健康的で、豊かさに満ちていることを、私たちは知っている。森は生命を授けてくれることも。
今日の支配的な文明は、私たちの知識を、物語を、歌を、大地やコミュニティへのつながりを、さらには人である我々さえ差し置いて、森の地下にある石油や金を大事にする。私たちのやり方は、その笑いも、その祝祭も、我々を大切にしない産業社会への抗議になった。動物を狩り、魚を獲り、土を耕し、狩猟のために新しい道を作り、ワオテデド語を話し、子どもたちに部族の言葉を教え、祖先の歌を歌い、聖なる植物を飲料とし、霊と語り合い、夢とつながる日々。こうして存在し続けている毎日が、抵抗の日であり、自分たちが消し去られることに抗議する日である。
今日、私たちが直面する脅威には、石油や鉱物の採掘、樹林の皆伐、牛を飼育するために大豆や穀物を植えようと森を焼き払う放火、壊滅的な気候変動などがある。こうした脅威を放置すれば、アマゾンの熱帯雨林が、同時に我々の存在自体も、破壊される。
対策として、こちらも抗議の戦略を変えようとしている。自分たちが直面している差し迫った脅威に合わせて、新たなアイデアを開拓し、広く集合的な闘争に取り入れている。そして、抗議を外部へのコミュニケーション手段として利用することで、我々がここにいて、毎日いたるところで脅威を見たり、感じたりし、それに抵抗していることを人々に伝えるのだ。Ceibo AllianceとAmazon Frontlinesは、ほかのアマゾン先住民族や欧米の支援者たちと協力し、我々の領土、先住民族の自治、地球の気候を守ろうとしている。訴訟や草の根レベルの組織作り、コミュニケーション戦略、地図作成、社会啓発活動を、闘争の一環として活用している。女性として、私は歌による抗議の手段も見いだした。ほかの女性たちといっしょに、この国の裁判所に出向き、私たちの歌を聴かせ、感じてもらうのだ。力を合わせることで、倫理的、精神的、法的な勝利を勝ち取り、数十万エーカーの熱帯雨林を守ってきた。
こうした脅威と危機の時代に、世界の多くの人々は単独の孤立した行動を通じて抗議している。例えば、1回限りのデモ行進、インターネット活動、Eメールの送信、オンライン署名、ソーシャルメディアへの投稿、非営利組織への寄付、あるいはリーダーや代表者を選出する選挙の時期がくるのを待つなど。
いずれも私たちにとって重要だが、ここではワオラニとして暮らし続けること自体が、抗議と不屈の抵抗の基本的行為である。
実際、私は抗議を日常生活の一部にしようと皆を鼓舞している。先住民族の伝統、慣習、暮らし方そのものが抗議や抵抗のかたちであるのと同じように、石油の1滴、金のひとかけ、生きた樹木の1本さえ残さず搾取することを要求する産業化された暮らし方に対して、積極的に抵抗する。より控えめで持続可能な消費行動が、現代における抗議の一環とされるべきであり、地球とその住民を守るための新しい暮らし方であるべきだ。
世界中の裕福な都心での抗議として、たくさん使わない、本当に必要でないものをためない、作りすぎない、買いすぎない、売りすぎないことを取り入れたら、どうなるだろうか。力を合わせることで、おそらく私たちは石油経済を変革し、より害の少ないエネルギー形態を開発し、温室効果ガスを大気中に放出するのをやめ、アマゾンを焼き尽くすのをやめ、多様な暮らし方が共存できる世界を維持できるだろう。そうなれば、私たちの民族の暮らし方は、もう抗議のかたちではなくなり、森の歌として、その根本に立ち返ることができる。