巡礼走375km:走ることは僧侶としての生きざま
長年温めてきた仏教への想いと、突然襲ったコロナ禍、そして目に見えない重圧との間で激しく揺れ動いた心。自問自答しながら走り切った先には何が見えたのだろうか。
自らを 「Trail Monk」 と呼ぶ山梨県身延の僧侶・小松祐嗣が、19カ所の寺社を参詣して約375kmの道のりを走破する『巡礼走』の旅に出た。
仏教の一大宗派である日蓮宗の宗祖・日蓮聖人の足跡を一気に辿る挑戦だ。
生誕の地である千葉県小湊を出発して、終焉の地である東京・池上本門寺を詣で、鎌倉や富士宮を経由して御霊の眠る身延山久遠寺に至るルートは、もともと巡礼の道として存在したわけではない。小松が4年ほどかけて少しずつ試走し、今回初めて一本に繋いだ。
なぜいま、小松はこんな挑戦をしようと思ったのか。
トレイルランニングを通して聖地・身延を知って欲しい
小松と出会ったのは2014年、トレイルランニングレース『身延山七面山修行走』の会場だった。大会を支援している甲府のアウトドアショップ・エルクの柳澤仁社長に「大会発案者で面白い人がいるんだよ」と紹介されたのがきっかけだ。
当時は仏教の聖地を舞台にしたトレイルランレースはまだ少なく、主催者の僧侶自らがトレイルランナーであるということも珍しかった。大会アドバイザーはプロトレイルランナーの石川弘樹が務めている。
トレイルランレースが開催されなければ訪れることはなかったかもしれない身延の第一印象は鮮烈で、風情ある町並と厳かな大伽藍、清らかな空気と地元の人々の温かさが心に残った。
身延は約750年前、日蓮聖人によって開かれた地で、江戸時代には全国から参詣者が訪れ、もっとも隆盛を極めたという。総本山久遠寺へと続く門前町には20軒の宿坊や仏具店、土産物店が建ち並び、山の中腹には身延山大学があって、僧侶の卵たちが学んでいる。信仰の地として、長い歴史を刻んできたことがうかがえる。
宿坊のひとつ「武井坊」の次男として生まれた小松は、幼いときから僧侶の道を歩むことが定められていた。武井坊35世住職を担った父・浄慎さんは宗派の中で要職を務めてきた僧侶であり、兄も東京広尾にある寺で住職を務めている。そんな家系の中で、小松は36世住職として武井坊を継ぎ、昼間は身延山山頂にある奥ノ院恩親閣で働いている。
小松が山を走るようになったのは、10数年前のこと。身延山と並ぶ霊山・七面山(1982m)の山頂付近に建つ敬慎院で働いていた頃、通勤のための山の登り下りを、時間短縮のためにいつしか走るようになったのが始まりだ。
信者さんの苦労をちゃんと理解しなければ
敬慎院までは車が通れる道はなく、歩いて登るしか方法がない。麓からの標高差は約1200mで、全国から集まってくる信仰者たちは、自らの足で一歩一歩山道を歩き敬慎院を目指す。
「山寺に働く僕たちは体力がありますから、登り下りも苦ではありません。でも信者さんには足腰の弱いご高齢の方も多いですし、病を治したい、心を癒やしたいと願ってくる方、小さな子ども連れのご家族もいます。皆さん真剣な想いで、遠方からはるばる来られるわけです。そういう信者さんたちの大変さを、僕らは本当に理解しているのだろうかと疑問を抱くようになりました」
登りのコースタイムは約4時間だから、トレイルランナーなら半日で登り下りしてしまうだろう。しかし、日頃登山に親しんでいるわけではない信仰者たちは、途中の休憩所で何度も休みながら5〜6時間かけてゆっくりと登ってくる。白い衣を纏い、お題目を唱え、木の杖を頼りに敬慎院に辿り着くと、一泊して祈りを捧げる。
決して楽ではない山登りをしてまでお詣りする信仰者の想いを受け止めるにはどうしたらいいのか、小松は自問した。
「それで仲間の僧侶と身体を追い込んで山を走るようになりました。もちろん山を走ることが好きで楽しいからというのがいちばんの理由です。ただ、僧侶として信者さんたちの大変さを身体の経験として理解したいという願いもありました」
トレイルランナーにとって山を走ることは解放感や達成感が味わえる喜びの時間であり、疲労でさえ心を満たす要素のひとつだ。しかし僧侶としては、そうした楽しさだけでは済まされないものもあった。
「煩悩を手放すこと」……それは僧侶が生涯をかけて追求していく道のひとつでもある。
次第にランナーが身延を訪れるように
大会『修行走』が回を重ねるうち、それまで仏教に縁のなかったトレイルランナーたちが、大会以外でも身延に足を運ぶようになった。久遠寺境内にある急階段で度々トレーニングに励むランナーもいる。
「いま多くの日本人にとって、仏教って日常生活からはほど遠い存在ですよね。でも僕は身延で生まれ育って、当たり前のようにお題目を唱えて生きてきました。できることなら身延をたくさんの人に知ってもらいたいし、仏教は面白いものなんだよって伝えたい。日本にこんな聖地があることを知ってもらいたいんです」
自分が得意な「走ること」で、その想いを形にできないかと漠然と考え始める。
身体を極限状態にして、心の痛みを忘れたかった
小松が初めて100マイル(160km)を走ったのは2017年秋のこと。きっかけは妻や子どもたちとの別離だった。歴史ある武井坊を守り、次の世代へと繋ぐ使命を負う小松にとって、家族との別れはこれまで経験したことがない深い心の痛みだった。
「お釈迦様から見れば、この経験もきっと意味があるんでしょうね。でも当時の僕は鬱のような状態でした。それでも僧侶として生きていかなければならない」
考えた末、それまで走ったことがない距離を走ってみようと思い立つ。身延から池上本門寺までの距離を測ると、ほぼ100マイルだった。このときは、心の傷から逃れるために身体をボロボロにして心の痛みを鈍化するような、そんな気持ちがあったという。
「自分のすべてを否定されたような気がしたんです。自己を肯定するためには、走ったことがない距離を走って、極限まで身体を追い込むしか方法がなかったんですよ」
小松にとって走ることは、すでに心を平常に保つための自分なりの “行” になっていた。日々の喜怒哀楽に捕らわれないよう心をコントロールするための鍛錬。しかし、このときはもっと内省的な意味を含んでいた。
この経験をきっかけに、それ以降、年2回100マイルを走るようになる。すべてのランナーは自分自身のために走っている。それはとても幸福なことだけれど、その先にはもしかしたら別の物語も存在するんじゃないか。小松はどこかでそれを感じ、探し始めていた。
こんな時期に自分の想いだけで挑戦していいのか?
「いつか日蓮聖人の足跡をすべて繋いで走りたい」と計画していた小松は、日蓮聖人生誕800年記念の年である “2021年” に挑戦しようと心に決める。ところが準備を始めた2020年春、新型コロナウイルスの感染拡大という苦難が世界中を覆った。
その後、日本国内では県境をまたぐ移動が難しい状態が続いていく。身延の町からも参詣者の姿が消えた。
「心の奥では走ることを決めていましたけれど、自分の挑戦がみんなに理解されるのだろうかと悩みました。コロナで命を落とされた方もいますし、医療従事者の方たちは毎日厳しい現場で働いておられるわけですから。でも、不安だけが増幅していく世の中を見ながら、本当にこのままでいいのだろうかという想いもあったんです」
刻々と変化する社会状況の中で、さまざまな声が小松の元に届き、苦悶はどんどん大きくなっていく。いつしか、「800年という節目に巡礼の道を走って、日蓮聖人の足跡を伝えたい。みんなにも、この道を歩いたり走ったりしてほしい」という当初の志を忘れかけていた。
仏教において走る修行といえば、京都・比叡山で平安時代から続く「千日回峰行」を想起する人が多い。千日回峰行は歴史の中で脈々と受け継がれてきた行であり、多くの人たちがその存在を認識している。
一方で、日蓮宗には形式の決まった「走る修行」はないという。だからこそ、小松自身も「これは行なのだ」と胸を張って言い切ることができずにいた。
「こんな時期に挑戦? ただ自分が長い距離を走りたいだけなんじゃないのか?」
そう受け止める人がいるのも当然のことだろう。この一年間、日本中の人たちが活動を制限され、思うがままに働くことも学ぶこともできずにいたのだから。
「果たして、自分が決意したこの巡礼走は何かの意味をなすのだろうか……」
行く手を阻んだのは想定外のできごと
2021年6月7日。千葉県の誕生寺に到着した小松は、衣を整え、旅の安全を祈願した。スタートを翌8日に決めたのは、日蓮聖人が身延山を開いた開闢会記念法要の日から逆算してのこと。4泊5日で走り切り、心新たに法要に参列しようと考えたからだ。もちろん小松自身もサポートや撮影で帯同する者たちも、できる限りのコロナ感染防止策を行って臨んだ。
8日朝5時半。爽やかな風を受けながら、境内で身支度を調える。6時になり、小松はスタートした。
海岸線と併行する道を走りながら、少しずつ峠へと向かっていく。快調に走っているように見えたが、いつしか額や首筋に大粒の汗が流れるようになっていた。
梅雨入りしてすぐの時季。豪雨に見舞われるかもしれないという予想は見事にはずれ、挑戦中の気温は連日30℃を超え、梅雨とは思えない日差しと暑さとの闘いになった。
仕事の合間を縫って朝と夜にトレーニングしていた小松は、この時期まだ身体が暑さに慣れていない。そういえば、あまり日焼けもしていない。自身初のウルトラディスタンスである375kmの行程に耐えられるようしっかりと走り込み、身体も絞っていたが、早々に行く手を阻んだのは筋肉や関節の痛みでもメンタルの落ち込みでもなく脱水だった。
途中の休憩所で、ザックの胸ポケットに入ったソフトフラスコを見ると、ほとんど水の量が減っていない。走りながら積極的には水分補給していないことが伺えた。
「休憩中に飲んでいるから大丈夫ですよ」
そして初日の70kmを走り終える頃、小松の頬は尋常でないほど痩せこけていた。この日のゴールである市原市の光徳寺に着く前、補給していた食物を道端ですべて吐いてしまったという。声もかすれて上手く出せない。端から見てもかなりの熱中症であることがわかった。
見込みの甘さが露呈し、原点に立ち返る
もしもこのまま同じ方法で走り続けたなら、明日はもっと深刻な状況になるだろう。ウルトラディスタンスでは日を追うごとに疲労が蓄積していくから、このままでは大事な法要に間に合わなくなってしまう。僧侶として、それは本末転倒ではないのか。
通常トップアスリートでも一般ランナーでも、勝負レースに臨む際には情報収集したり、専門家からアドバイスを受けたりしてレースマネージメントの作戦を練ることが多い。
しかし、小松はこう言っていた。「自分はプロアスリートではない。ランナーだけれど、走っているときも僧侶である」と。つまり、走ることも僧侶としての生き方も同じ姿勢でいたいと。
小松は日頃、一日一食の生活をしている。酒と煙草は飲むがジャンクな食べ物は避け、野菜や豆腐や玄米などシンプルな食物だけを口にしている。そのためこの挑戦も、味噌汁やアルファ米の玄米、走るときに愛飲しているわずかなスポーツ用サプリで走り切ろうと考えていた。コンビニに並ぶあまたのメニューには頼らないつもりでいた。
長年温めてきた挑戦にどう向き合うかは、ランナー自身が決めることだ。だからこそ、サポートメンバーや挑戦を記録する撮影クルーも口を出すことを控えていた。
ところが初日にして、残念ながら小松の見込みが少々甘かったことが露呈してしまう。このままでは予定通りのゴールは厳しいだろう。
「夜、寺の風呂場で鏡を見て、我ながら驚いちゃって。骸骨が写っているって(笑)」
その夜、私たち撮影クルーは補給のスペシャリストに急遽電話をして状況を伝え、アドバイスをもらった。ドラッグストアで経口補水液を多めに購入し、とりあえず小松が宿泊している寺に届ける。夜間のうちにしっかり水分補給を行っておくのがいいと伝えた。
スタート時の張り詰めた面持ちから一転し、柔らかな表情になっていた小松は、この余計なお世話を受け入れてくれ、薄めた経口補水液を少しずつ何回にも分けて飲み、夜のうちに計3Lほどの水分を体内に蓄えた。さらに翌日からは、ザックの荷物を減らすことも決めた。
誰かが寄り添ってくれるだけで、力が湧いてくる
二日目からは、大会『修行走』を通して知り合ったトレイルラン関連のプロフェッショナルたちが、現地に入って支援してくれた。昨夜アドバイスをくれた補給のスペシャリスト、スポーツテーピング界の第一人者、コンディショニングのプロが道中のケアを買って出た。
さらに、東京に入ってからは次々に併走者が現れ、1キロ7分を目安に走っていた小松のペースを代わる代わる刻んでくれた。
「これまでは一人で走るのが好きだったんですけど、誰かと一緒に進むというのはこんなにいいものなのかと思いました。ただ横で走ってくれるだけなんだけれど、なんていうんでしょうかね。寄り添ってもらうだけで、人間はこんなに力が生まれるんだと思ったんです」
誰かに寄り添うこと……。それは僧侶である小松にとって、自らが一生かけて取り組まねばならない仕事でもある。
スタート初日で身体の限界に近づいてしまった小松の心は、一度まっさらになった。迷いや雑念を捨てて、ただ着実に一歩ずつ前に進むことだけに集中していく。
二日目も相変わらずの暑さだったが、頭部を冷やしたり首に保冷タオルを巻いたりして熱中症対策を施し、ペースアップしすぎないよう気をつけながら走った。キロ7分のペースは小松にとって遅く感じるペースだったが、ついつい気持ちよくスピードを上げてしまえば、日程の後半に大きくペースダウンすることは目に見えていた。とにかく4日目までの疲労を最小限に抑えること、それだけを心がけた。
その自制心が功を奏したのか、疲労軽減のために日ごと枚数が増えていく身体中のテーピングが効果を発揮したのか、小松は徐々に調子を上げていく。その右肩上がりの走りに、周りの誰もが驚かされた。
5日目の最終日。スタート地点である沼津妙海寺には、七面山でともに働き、山を走ってきた僧侶・岡田法晋が駆けつけた。二人並んで、ゴールまでの73kmをひた走る。
暑さの中、時折姿を現す富士山を見ながら、走り、祈り、また走った。
富士宮の岩本実相寺や黒田本光寺など4つの寺を詣で、17時過ぎ、小松は故郷・身延の地に帰ってくる。
門前町の軒先ではたくさんの人たちが小松を待ち構え、労いの言葉をかけた。
一歩進めば
みんなが背中を押してくれる
ゴール翌日、小松に挑戦を終えたいまの気持ちを聞いた。
「800年の歴史の中で僕の存在なんて、ほんとにちっぽけなんです。でも僕のような存在があることで、誰か一人でも救われる人がいるかもしれない。僕がやるべきことは、誰かの支えになるために愚直にお坊さんを続けることなんだなって、あらためて決意が固まりました。誰かがそばにいてくれるありがたさは、僕自身が挑戦で実感しましたから。こんな世の中ですけど、一歩踏み出せば誰かが背中を押してくれ、手を引っ張ってくれる。だから立ち止まらず、一歩でも進んでいきたいですね」
小松は挑戦初日にして身体的なある境界線にまで行き着き、そこから這い上がってきた。その過程はまるで小松自身の再生のようにも見えた。
挑戦の途中、父・浄慎さんはこう話している。
「私にはできないね。誰にでも出来るかといったらできないことだよね。目的は彼に聞いてみないとわからないけれど……自分の垢を落としているのかもしれない。歴史に残るってほどじゃないけれど、ひょっとしたら時間が経って、後で評価されるかもしれないな」
長年温めてきた仏教への想いと、突然襲ったコロナ禍、そして目に見えない重圧との間で激しく揺れ動いた心。この挑戦によって、小松祐嗣は変わったのだろうか。あるいは何かを変えることができたのか。
その答えはきっと、これから見せてくれるのだろう。
「走る僧侶の生きざま」を通して。
ドキュメンタリー・ムービー『巡礼走〜その走りは誰を救うのか』 2022年2月より公開予定