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失われた船:父と父の手製ボートとともにバハを旅する

ジョー・カレン  /  2014年6月24日  /  コミュニティ, カルチャー, デザイン

父について考えるとき思うのは、古いガタガタのフォルクスワーゲン・ビートルでバハ半島をキャンプ旅行したときのことだ。13歳から15歳までの3年間、父は僕をサンタバーバラでピックアップすると、一緒にハイウェイ1からカボに向けて1,600キロ南へと旅した。夏は6週間、冬は2週間、僕らはイースト・ケープにある父の家で過ごしたが、道中キャンプやサーフィンや釣り、そしてダイビングなんかをした。旅はいつもフォームとファイバーグラス製の父の手作りの小型船と一緒だった。

これらの旅は子供時代の僕の父との最高の想い出だ。不自由な思いはしたが、僕は少しばかりの苦悩を必要としていた。バハを旅することは南カリフォルニアのサーファーにとっては通過儀礼だし、埃にまみれることはつきものだ――とくに一旦エンセナダの南へ出たときは。シップレック、スコーピオン・ベイ、セブン・シスターズなどの波は若いサーファーの僕を魅了した。もちろんサーフィンには何時間も費やしたが、父は僕がバハの土地と水が恵んでくれるすべてをきちんと経験できるようにしてくれた。

サーフボードをボートの下にくくりつけ、キャンピング用品をそのあいだに挟み込むという僕らのパッキングは大仕事で、車内も荷物が目一杯詰まっていた。父は木製の助手席をベッドにカスタマイズする方法を見つけ、荷物であふれた車内でも横になって寝ることができた。

父は昔から手先が器用で、1950年代にワイメア・ベイのために特別に作ったアメリカスギとバルサの美しいガンでも知られていた。父はボードをシェイプするだけでなく、測量技師、製図技師、商業ドライバー、仕上げ大工としても働き、永久的に車に積まれていた4メートルの小型スキフをはじめとする数々のボートも作った。

両親が離婚したのは僕が7歳のときだった。父はコスタリカのパボネスへ、そして僕が11歳のときカボに引っ越した。コスタリカとカボのあいだの1年間はカリフォルニアのカーペンテリアにあるチスマフー建設で、フランク・ロウダとトム・ジャクソンのためにキャビネットを作って暮らした。このとき、アメリカズカップのカタマラン「Stars and Stripes」の仕事もした。この仕事と南へ戻りたいという願いが、父(と旧友のアラン・ネルソン)がバハ用の軽量スキフを作るきっかけとなった(父はこのときフォーム製の小型船2艇を作ったが、倶然にもそのうち1つはジャクソンの友人イヴォン・シュイナードの依頼によるものだった)。

この小型船は魚を釣るためのものだった。ボートを漕ぐのはいつも父の役目で、父がスピードを上げるとボートはとても優雅に水面を滑った。僕らはこの船で魚を探したが、それはいつも簡単というわけでもなかった。僕らはたくさんの魚を釣ったが、多くを逃しもした。ある夕暮れ、キャンプ地の前で日没寸前に魚を釣り上げたとき、父がこう言ったのを覚えている。「よかった。今夜、食事ができる」

一方、潜りでは必ず何かを捕まえた。カボでは波のない日は毎日ダイビングした。ハワイアンスリングしかもっていなかった僕らにとって、ハマチをスピアで捕らえるのは特別な出来事だった。ほとんどがサワラとジャイアント・ホークフィッシュとカキだった。僕らは大量のカキをさばいた。父がそのうちの1つに涙の形をした真珠を見つけたこともあった。

僕は1940年代に南カリフォルニアで育った父のライフスタイル、そしてノースショアのビーチで自給自足のキャンプ暮らしをした彼の時代を垣間見た。父や当時の人たちはただのアスレチックなサーファーではなく、オールラウンドのウォーターマンだった。多くの時間を潜って過ごした彼らは、ビッグウェーブでも自信満々だった。ダイビング、釣り、ボートといった海のライフスタイルは、彼らの水中での自信とウェーブライダーとしての知識をより深めたからだ。

自由時間がたくさんあったこれらの旅では、父の昔話を聞くのが楽しかった。父は僕にボーラインの結び方のような実践的なことを教えようとしてくれ、そして何度やってもこんな簡単なノットを忘れてしまう僕を笑った。僕は父の朝の儀式を眺めた。コーヒーを手で挽き、古いソックスをフィルターとして使う。話すことがあまりない日は、大量の本を読んだ。父が読書をはじめると、僕はそれにしたがって手元にある本を読むしかなかった。それはときには『二十日鼠と人間』のような中編小説だったり、『ドンキホーテ』の完全版だったりした。だがそれはこれらの旅から学んだ生涯のレッスンのひとつでもあった。僕は良い本を楽しむことを学んだ。

僕らは不運な出来事にも数多く遭遇した。バハ北部で零下の気温のなか、平均以下のシュラフでした野宿、スコーピオン・ベイでかかった日射病、バスが追い越しするブラインドカーブのハラハラするドライブ、セミトラックが高速で通過したときに開いたボンネット、急勾配の山道での危険な体験などだ。

ビートルは助手席の改良以外は標準仕様で、バハ用の改良はしていなかった。僕らは洗濯板のようなひどい凸凹のバハの道を運転したが、旅のある時点で車は大きな音を立て、ギアを入れることができなくなった。父は車についてはあまり詳しくなかったが、『How to Keep Your Volkswagen Alive: A Manual of Step-By-Step Procedures for the Compleat Idiot(フォルクスワーゲンを生かしておく方法:完全な愚か者のためのステップバイステップ工程)』のおかげで、フォルクスワーゲンの古いモーターをリビルドするのは朝飯前だった。この故障はトランスミッションボックスの接続が悪くなっていたことが原因だった。父はこれが起こるのは1速のときだけであることを発見した。2速で始動すれば問題ない。これは斜面で発進させるのでなければうまくいく。しかし父は何度もこのことを忘れて1速で発進した。そしてそれは荷物を取り出して路肩に積み、座席と床板を外して、父がワイヤーで接続を直すことを意味した。コルテス海のキャンプ地を離れるときは2速ではパワーが足りず、未舗装の急斜面の道を牽引してもらった。そのとき、理由は覚えていないが、僕は険しい断崖の下にある海を眺めながらビートルの運転席でハンドルを握っていた。13歳ではじめて運転席に座った僕は恐怖におののいていた。

もうひとつの危ない経験は15歳のとき、スコーピオン・ベイで父と3週間過ごしたときのことだ。僕はほぼ毎日、日に2〜3度サーフィンをしていた。キャンプサイトはいつも最低限で、持っていたのは小さなひさしが1つだけ。テントはなかった。僕はいつも外で軍放出の折りたたみ式ベッドに寝ていた。日光をふんだんに浴びていながら十分な給水を怠っていた僕は、日射病と脱水症状になり、折りたたみ式ベッドに横たわっていた。リンコンでサーフィンしていて顔馴染みだったカーペンテリアからの2家族が隣でキャンプしていた。故郷のスナックや埃を軽減させる人工芝などがあった彼らのキャプサイトがとても豪華に思えたのを覚えている。奥さんのひとりが病気になった僕にヨープレイトをくれた。それはそれまで食べたなかでも最高に美味しかったもののひとつだったと記憶している。

僕の熱は下がらず、父は医者に診てもらった方がいいと判断し、いちばん近くの大きな町ロレトへと西へ向かった。分かれ道で誤った方向に進んでしまい、大きなボルダーのみでできた山道を走るはめになった。それは何十年も、いやそれまで一度も使われていない道に見えた。僕らはゆっくりと前進した。峠にさしかかるとそこから先は悪戦苦闘だった。僕らのビートルは新型で大きめのタイヤがついていたが、峠を越えるにはパワーが足りなかった。山稜を超えるのに失敗するたび、後ろにすべった。父は後退するとサイドブレーキを引いたが、僕らはどんどん断崖の端に近づいていくようだった。このときは本当に身の危険を感じた。僕らは助けからはほど遠いところにいて、酷暑のなか、僕の意識は朦朧としていた。4度か5度目のトライでついに山稜に達し、僕らは安堵した。そこからロレトまではずっと下りだった。ホテルへ入ると僕は冷たい水を1ガロン飲み、シャワーを浴びて冷房の入った部屋で1夜を過ごした。それらはすべて理にかなっていた。

僕は16歳のとき友人ともう一度カボへ車で行った。17歳になると父を訪ねて1人で飛行機に乗るようになった。その後、人生が忙しくなり、僕の訪問はより短くより散発的になっていった。1990年代までシングルフィンのロングボードで小さな波にしか乗ったことがなかった父は、そのころには自分でシェイプした現代的なセミガンのスラスターに乗るようになっていた。父はもっと早くにスラスターに乗っていればと悔やんだ。それを試すまではダイビングや釣りよりもサーフィンを好むことはなかった。でもそれ以降はサーフィンだけをしたがった。それは僕も同じで、その数年間は小型船を使うことはあまりなかった。

10年ほど前、またアメリカへ引っ越すとき、父はこの小型船を友達の家に置いてきた。そのころ僕の妻のテアシャ(彼女もまた若いころバハ南部で多くの時間を過ごした)と僕は、パートタイムでバハで暮らしていた彼女の両親を訪れて年に一度南へ行くようになっていた。そして2012年の終わり、パタゴニアの製品テスターのウォーカー・ファーガソンからメールをもらった。彼はカボでサーフィンしているときある人に会った。その人は僕の父が昔住んでいた地域の住人で、父の船を入手し、修理しようと計画しているという。これは驚きだった。僕はこの船についてはほぼ忘れていて、もうどこにあるか分からなくなってしまったものだと半分思っていたからだ。この船を最後に見たのは父の家の前のビーチだった。彼の住処は簡素、つまり基本的なアウトドアの暮らしで、船を外気から守る車庫などはなかった。しかし屋内に保管していたとしても、1980年代半ばの最初の旅以来かなり使われていたし、この環境では何かをいい状態に維持するというのは困難だった。

僕は当時、妻の故郷の近くにあるカリフォルニア州北部沿岸のクレサント・シティに住んでいた。父に触発されて木工に挑戦することを何年も考えていたが、つねに言い訳を見つけては着手しないでいた――時間も場所も道具もない。しかし、サンタバーバラからクレサント・シティへ引っ越すと作業場所ができ、僕は木製のフレームを作るビジネスをはじめて、ボードをシェイプするようになった。

この船のことを耳にしたことによる明らかな感傷的な思いに加えて、僕はその人が修理可能だと思うのであれば、みずから修理し、近くのラグーンや河口で使いたいと思った。波のない日には、持ち出してメバル釣りに使えるのではないか。それは楽しそうな計画にも思えた。

少し調べると、その人の連絡先がわかった。彼はすぐに返事をくれ、このプロジェクトにはまだ着手していないので、僕が欲しければ譲ると言ってくれた。2013年1月、次の南への旅で、僕は義父のピックアップトラックで船をピックアップした。それからボートは友達の空のボートトレイラーに乗せられて、北へ向かった。僕が船を入手したのはその年の春、サンタクルーズの彼らの家だった。

ようやく作業場に船を入れると、僕はそれをじっくりと眺めた。そして以前は気づかなかったことに目がいった。自分で木工とシェイピングをするようになるまでは見えなかったことだ。クリーンで細めのアウトラインは父のガンの1つを彷彿し、船尾の船縁で重なる完璧な千切継は美しかった。破損については、ファイバーグラスにいくつかの大きな気泡が見られ、小さなへこみがいくつもあった。木製の船縁は乾燥腐敗していて取り替えが必要だったが、僕が経験した最強の日光のなかで長いあいだ潮風に晒されていたことを考えると、船は全体的にはかなりよい状態と言えた。完全に剥離しているだろうと思っていたのだ。

僕は父にこの船を入手したこと、そのいきさつ、そして元のコンディションに修復したいことを伝えた。父は「いいね。うれしいよ。もし使うつもりでいるのなら」と言った。僕はその歴史についていくつか質問した。父はそのプランをジョン・ガードナー著の『The Dory Book(小型船の本)』から入手したことを教えてくれた。僕はこの本でそれが13フィート6インチのチェンバーレン・ドーリー・スキフであることを学んだ。それは両サイドに6オンスの布を張った半インチの厚みのプリウレタン・フォーム、縦木目のベイマツの船縁と真鍮のオール受けでできていた。

その夏から秋にかけて、僕は断続的に作業した。労働のほとんどがへこみを直すことだった。ラミネートとやすり作業に何時間も費やした。楽しかったのは木製の船縁を交換することだった。スケートリンクを解体する仕事をしていたサンフランシスコの友達が、5メートルの2.5 x 15センチのベイマツのボードを回収してくれた。僕は改造を1つ加えた。船尾梁ハンドルのフォームが弱っていたのでベイマツで挟み、補強した。修理がすべて終わると海洋グレードのペンキで塗装した。船は新品のようだった。

10月のある晴れた午後、僕は船をはじめてハンボルト北部のストーン・ラグーンに出した。いちばん最初に気づいたのは、僕の2メートルのオールが短すぎたことだ。また風上へ向けて漕ぐのは困難だった。船はかなり軽く(へこみを修理する前は船の下に亀のように潜り込んで肩に乗せて運べたほど)、風に飛ばされた。バラストか船客を足せば解消されるだろう(バハではつねに2人乗りだったから)。しかし本当の疑問は水面にグライドさせたらどうなるだろうかということだった。風下に向けて一旦進みはじめると、バハで何年も経験したのと同じグライドが得られた。あれだけの労働にもかかわらず、船をまた水に出すのはとてもいい気分だった。

バハへの最初の旅のいくつかを振り返るとき、僕はこの船のありがたみを十分に理解していなかったように思う。釣りやダイビングは楽しかったが、僕はサーフィンにばかり思いを馳せていた。僕は父が船を造ったのは夕食を捕まえるためだけでなく、僕らを外の世界により晒すためだったのだと思う。父はサーファーが求めるグライドの感覚を愛していたし、自分の作ったものでそれを感じることは実りある経験だからだ。このこと、そしてたとえば人ごみから離れて外で過ごすことや、DIY哲学などの父のプライオリティーは、僕に莫大な影響を与えた。

この小さな船の旅は僕に多くを教えてくれた。スローダウンし、シンプルさを尊重し、バハのような特別な場所が与えてくれるすべてを満喫する。こういったレッスンは自分の旅と日常を通じて僕のなかに存在しつづける。

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