ライフ・ストーリーの波間で
エクアドルに生まれ、オーストラリアに暮らすパチャ・ライトは、その日、徳島にいた。サーフィン仲間である田中宗豊が営む宿にステイし、奄美大島から来ていた碇山勇生らと共に日本を回っている最中だった。台風22号の影響で、太平洋岸のサーフスポットには強烈なうねりが届いていた。
朝、起きると慌ただしく長いガンボードを用意し、どこに連れて行かれるかもわからず到着した港で、宗豊からインパクトベストを渡された。徳島、高知から数名の仲間が集まり、漁船に乗って向かった沖では10フィートオーバーの波がブレイクしている。どうにか状況を把握して心を鎮めようとしていると、海にはサメが沢山いると聞かされた。
「オーケー、オーストラリアにもいるから。そう自分に言い聞かせて、海に入った。海は本当に蒼く透き通って、サメの美しい姿を見てみたいと思ったくらい。そのセッションでは、みんなでサーフィンをしている感覚だった。誰かが一本乗ったら、みんなで喜んで、次の誰かがセットを掴む。6名だけでその大きな波を貸し切り、勇生が大きな波に乗って戻ってきて、サーフボードを交換しながら『次はあなたの番だよ』って」
海に入る時には、海と島へ、感謝を伝えるのだという。波待ちの間に、3回息を吸って6回吐く呼吸法を使い、頭をクリアにしていく。海面の「まるで蛇のような模様」がダイアモンド型に交差するさまに集中しながら深呼吸をする。すると、大きな波に対する恐怖は次第に落ち着いていく。ただし怖いと思う感情は自分が生きている証でもあって、今度はその怖いと思うエネルギーを使って波に乗っていく。
「だから恐怖はとても大事なエモーション。でも一度波に巻かれてからは、そのポイントにはある程度の水深があって、岩も近くにはないとわかったから、それほど怖くはなかった。今回は頼れるメンバーたちだったし。でも私は1本小さめの波に乗っただけで、いい波には乗れなかった。残念だったけど、とてもいい練習になったよ」
パチャはそう言って、チャーミングに笑った。
1年のうち「10ヶ月は旅に出ている」というパチャにとって、旅は日常そのものだった。どんな動きをするのか予定を知らなくとも、その日の状況に合わせて、軽やかに乗りこなしてしまう。それが例え年に一度あるかどうかの大波の日でも。
幼い頃から環境活動家の母に連れられ、未知の旅先で過ごすことが当たり前になり、その場での身の処し方がトレーニングされている。だから、新しいコミュニティに身を置いた際、彼らの誘いには「基本的にはイエスと答える」と言う。そうやって関係性の一部となって共に素晴らしい1日を作り出し、感動を享受する。そして、演者でありながら、次の旅先では語り部としての役割も担う。自らが旅する意味をそう位置づけられるようになるまでには、彼女なりの葛藤があった。何せパチャはまだ24歳だから。
大きな葛藤の一つは、エクアドルとの関係だった。幼い頃に母に連れられてオーストラリアに渡ったパチャにとって、エクアドルは父の国だった。スペイン語を話せなかった子ども時代には、周囲の友人にもエクアドル出身だと言い出せなかったと言う。複雑な感情を伴うエクアドルとの関係が、2021年に父が亡くなった後に、2023年にエクアドルに半年間滞在する中で、少しずつ変わっていった。家族の歴史を知り、美しい豊かな森と海に深く身を浸し、サーフィン・コミュニティと親密になっていく中で、それまでは父の国だったエクアドルが、自身のアイデンティティの回復へと繋がっていった。2020年以降にはサーフィン・コンテストへの参加を辞めていたパチャはしかし、2024年からはエクアドル代表としてサーフィンの大会に出場するようになる。それは国民的な人気を博すミミ・ナバロという第一人者と若い世代の間を埋め、エクアドルのサーフィン業界に貢献することが目的だった。エクアドルの海岸線を保全するプロジェクトに参画しながら、サーフポイントを守ることが森林環境の保全にも繋がることを広く訴えている。サーフィンがエクアドルとパチャを強く結びつけている。
父との葛藤がエクアドルとの親密な繋がりによって克服されたのであれば、環境活動家である母との関係性はどのようにして折り合いをつけたのか? そう訊くとパチャは、待っていたように「それこそ、サーフィンのおかげだと思う」と答えた。
「母は馬が好きで、森の中にいるのが好きな人。もちろん海も大好きだけど、サーフィンはしないから。10歳の時に、弟と一緒にお母さんに宣言したの。『もうツアーはしない、これからは地元で毎日サーフィンをする』って」
母が建てたセルフビルドの家に住み、自給自足に近い生活をしながら世界各地を旅してきた家族には、サーフボードに費やす金はなかった。パチャは、マーケットなどで帽子を置いてダンスを披露して小銭を貯めるようになる。ゴールド・コーストのサーフィン大会でも「サーフボードを買うために」という立札を置いて踊っていたら、ビッグウェーバーとしても知られるローラ・エネバーがパチャを横目で見ながら通り過ぎた。しばらくすると戻ってきて、彼女の予備のボードをプレゼントしてくれたのだという。母から逃れて自分の世界を掴むために始めたサーフィンは、次第に家族の関係を滑らかに美しいものへと変えていった。
「海辺に泊まって、朝日が昇るのを一緒に待って、私と弟は海へと入っていく。それを母は撮影してくれる。それは本当に美しい時間で、母が私を導いたのではなく、自分の物語として自然との関係を学ぶことができたから。サーフィンを通して自分の道を見つけたのは間違いない。海の状態を知り、気候の影響を自分の体でわかるようになって、自然に対して深い興味を持つようになっていったから。それは森に詳しい母とは、違う角度からのアプローチ。自分がサーファーとして出会ったコミュニティや環境問題は母とも共有していて、海と森を繋げて考えられるようになったから。今では母と一緒に解決の方法を探すことができるようになった」
サーフィンにのめり込むことによって、母の活動の意義を身体で理解し、エクアドルと出会い直すことによって亡き父との関係も回復されていった。それが、パチャが旅をしながら描いてきた大まかなライフ・ストーリーだった。
パチャは母から「ストーリーが大切だ」と言われて育ってきた。環境活動においても、広く伝えるために重要視されるからだろう。ストーリーは、積み重ねられることで深みを増していく。10歳の時にサーフボードをプレゼントしてくれたローラ・エネバーとは、同じブランドにサポートされ、その後に一緒に旅をしたことがある。あるいは、エクアドルの英雄ドミニク・バロナとは、一緒に映画『CEIBO』を作り、彼女の勇気ある物語を形として残している。それまでは細く頼りなかった線が、歳を重ねるごとに物語として編まれていく。
「私はこんな風に旅をしながら暮らすことができて、本当に幸運だと思ってる。すごく感謝をしているし、だからこそ、責任があるんだと思う。自然と近い関係を築きながら暮らしている人たちのストーリーを伝える役目があると思っている」
田中宗豊は、パチャが滞在している間に常に「イエス」と答えるのを見て、少し心配していた。「本当は何をしたいのかな? 聞いてみてくれる?」と私に言った。テラスに座ってじっくりと話をした後、パチャに訊いてみると「うーん、なんでも楽しいんだけど」と言って、宗豊から聞いていた、かつて信仰の山だった鈴ヶ峰に登ろうと言った。1時間強のハイキングだったが、パチャは裸足で山道を歩いた。道端にはところどころにお地蔵様が祀られている。
登山道の入り口に用意されていた杖をつきながら、テーブルで向かい合っている時よりも気軽に話をした。昔のボーイフレンドについて、あるいは次の旅先のモロッコについて話しながら、汗だくになって歩いた。かつて寺があった跡地でお参りをし、ビューポイントに行って、小さな海陽町を眺めた。川が流れ、田んぼがあって、海にはうねりの筋があり、陽が傾き始めている。その時間の美しさこそ、パチャが大事にしているものなのかもしれない。
「本当に美しい町だね」と言って、遠くを見た。
宿に戻ってから、パチャと宗豊と奥さんのミコさんがカレーを作ってくれた。身振り手振りを交えながらの会話で、カレーが出来上がるまでずっと笑っていた。ほとんどの時間はストーリーから溢れてしまうようなくだらないもので、大阪出身のミコさんとの掛け合いはまるで漫才のようだった。ストーリーには収斂しない。けれど、この時間こそがパチャの柔らかな空気を作り出しているのだろう。
翌朝、台風のバックスウェルが入り始めたビーチで一緒に波乗りをした。頭オーバーのセットを軽々と乗りこなしながら、パドルバックしてきたパチャは「スーパー・ファン!」と笑顔を見せた。海の自由は、やはり彼女を解放していた。